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・2006年1月30日    こけたのは2回だけで
           

 今回は自分にしては珍しく午前8時前には自宅を出発し、国道254線を一路秩父方面へと向いました。千馬山城の麓へ到着する時刻を、遅くも午前10時前と読んでいたものの結局到着したのは午前10時10分過ぎに。この時点で本日の訪城個所は3か所以内に制約を。

千馬山城(埼玉県皆野町)午前10時20分から午後0時20分過ぎまで
 登口がすぐに見つかるかどうかという懸念がありましたが千馬山城の場所も含めて予想よりも簡単に山道を発見。九十九折の山道をヒイヒイいいながら3分ほど登ると小さな祠のある尾根筋に到達。その西側に所在する麓の郭と呼ばれる平坦地を確認したあと西側の尾根筋の道を10分ほど登っていく。するとやがて堀切、土橋、腰郭、石積みなどが、これでもかこれでもかと登場してきてデジカメ撮影フル回転。肩の郭から物見郭と呼ばれる細長い尾根上の平坦地を確認後、大きな岩が露出している個所を迂回して二の郭へ到達。目の前の2.5mほど上には二つの楕円形がくっついたような主郭があり、無事到達できたことに山上の稲荷神社にてお礼の参拝。予め地図で確認していたようにやはり千馬山城と田野城は同じ尾根上にあり、こちらの千馬山城からは60分から70分ほどで到達することができそうな感じが見て取れます。しかし、この尾根筋の難路をすすんでゆくだけの時間と体力・気力がないことから北西の尾根筋の一つ目の堀切を確認したのみ。写真としては予想通り訳のわからないものになったものの、二の郭下方の折のつけられた構堀付近はなかなか見ごたえが。
 谷を挟んだ東側の尾根伝いの遺構については道自体も明確ではなく、余りにも竹薮がものすごく立ち入ることができそうもないので断念しやや不満足な訪城かと。しかし別途少し北寄りとなる尾根筋の予想外のダイナミックな二重堀切をしっかりと確認できたので満足度アップ。上りの所要時間は25分から30分で、下りは15分から20分ほどでした。
 歳は取りたくないもので、一回目は二の郭北側の堀切を降りる際に股関節が堅くなっていることに気づかず1mほど滑落。もう一回は主郭からの帰路の下り道で落ち葉がずるっと滑って、左の手首を地面に突いてしまい軽く痛めることに。しかし2回ともその後の行動には特に支障がなく一安心。このあと、千馬山城の遠景を撮影すべく南側の蓑山(586.9メートル)に出かけたものの標高差がありすぎて肝心の千馬山城の位置がはっきりせずかなり時間を浪費。再び国道140号線の三沢集落への入口の交差点まで戻って、よくよく景色を眺めると何と東側の三沢川の谷沿いに三角形をした千馬山の山容がはっきりと見えたのでありました。

皆野館(埼玉県皆野町)午後1時20分から午後1時35分まで
 田野城の北側山麓と赤城神社のあたりが館跡ではないかと推定。特に赤来神社の所在している台地は幅15mから20m、南北方向に50mほどの長さ、比高5、6mという地形となっていて、いかにもいわくのありそうな感じがしました。地形的には田野城、あるいは千馬山城などと尾根筋で繋がっていますので、おそらく何らかの関連が存在するものと思われました。赤城神社の解説板には永禄年間に後北条氏と武田氏の間で行われた三沢谷の合戦についての記述などが記されていましたのでありがたくデジカメで撮影。このあと田野城と推定されている道なき訪城の無事、世界の恒久平和、家内安全などを祈願すべく赤城神社で参拝。

田野城(埼玉県皆野町)午後1時35分から午後2時55分まで
 見るからに麓の方は潅木が多くて頂上の方は岩肌が露出している感じの地形。果たして皆野館の赤城神社の南側から麓に取り付いたものの、目の前には直線にして50mほど潅木が生茂っている地帯が立ちはだかり忽ち前進阻害。それでも無理やり尾根筋を目指してすすんでいくと何やら有刺鉄線と木柵のある場所に到達。よく見るとどうやら整備されている道が別の所から登ってきている模様。硬くなった股関節を励まして何とか有刺鉄線を乗り越えると確実に山頂に向うルートであることが判明。崩れやすい泥岩質の岩山を登攀する覚悟は全くなかったので、やれ嬉やと岩山に付けられた山道を登攀。途中からトラロープのガイドは消滅するも、ここまでくればひたすら頂上を目指すほかなく痩せた岩尾根を前進。
 予め遺構らしきものが殆ど存在しないことは分かっていたものの、やはり体感しておかないと地形なども掴みにくいことなどもあり、なんとか大きなピークのひとつ手前の標高261メートルのところまで到達して大の字になって空を仰ぐ。先ほど登ってきた千馬山城が大分近くに見え、いずれにしてもこの尾根続きの2つの城郭は深い繋がりがありそうです。さて、千馬山城で既に2回転んでいることもあり、これ以上すすんでもすでに膝や足首の状態を考えると大怪我に繋がりかねないと極めて常識的な判断をして、「根岸山砦」「千馬山城」などの写真を幾枚か撮影した後に一路下山。
 下山してからこのトラロープでガイドされた山道は、以前は森林浴のための散策コースであったことが判明。もっとも現在はあまり積極的に使用されているようには見えず、コースも大分崩れかけている個所もありトラロープの支柱も半分ぐらいは腐食している模様でした。
 
 このあと余裕があれば、荒川対岸の「金崎殿館」「根岸山砦」へ行く計画も。しかし、田野城の登り降りで膝から下が別の人格となってしまったので本日の訪城を終了。秩父方面は往復5時間近くかかるので、この際ビジネスホテル一泊を真剣に検討中。



まいたけ大ざる 1300円  画像クリックで拡大
■まいたけ大ざる 1300円也


■親しみのもてる「別品屋」の店内

 前回に続いて膝もガクガク、足元もフラフラで下山してきましたが、もちろん訪城中は何時もどおり水分の補給だけで昼食を摂っていないのでお腹はペコペコ。既にこの店の前はここ2ヶ月ほどの間に5回以上通過し、その都度必ず目にとまることもあったのでこれも何かのご縁ということで入店。けっして新しい店ではないので、店の作りは二昔も前の時代の風情があり1980年代の始め頃の観光地の蕎麦屋の雰囲気そのままといった感じで気持ちが安らぎます。
 午後3時過ぎというこの時間帯は通常は入店する客も少なく、夕方に向けての仕込みなどのため「準備中」のところも多いようです。さて、店内の客は自分ひとりということもあり、少し申し訳ないのでメニューの中で比較的高そうな「まいたけ大ざる1300円」を注文。田舎風の蕎麦はもっちりとした歯ごたえのある太麺。舞茸の天ぷらが3つのほかに野菜の天ぷらが3品。始めはそばつゆがやや塩辛いように思いましたが、食べているうちにだんだん薄くなってくるので最後の方はちょうど良い具合になったので蕎麦湯で薄めて完食。ただし、お茶がセルフサービスというのが少し寂しく...

■お店の所在地■

撮影月日:2006年1月30日
撮影場所:埼玉県長瀞町にて

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・2006年1月25日    尾根筋の道は遠く、枯葉の斜面でこける
           

 今回は山中の彷徨というような事態には至らなかったものの、リュウガイ城へ向う尾根筋のアップダウンが思いのほか時間を要したため、実際に行けたのは2か所のみでした。

根古屋城(埼玉県飯能市-旧名栗村)午前10時30分から午後12時過ぎまで
 現地に到着して地図を頼りにそれらしい地形を物色。たぷん諏訪神社の西側に張出している尾根筋が目標の根小屋城のよう。しかし、登る道筋が全く不明。車通行が可能な林道からひとつ東側の谷沿いを迂回する方法もありそうですがそれは余りにも遠回りかと。さりとて目の前の檜と思われる植林帯をいくら見渡しても山道が刻まれてはいません。はてどうしたものかと何時まで思案していても始まらないので、道路脇のコンクリートの擁壁の間の通路から畑の端を抜けて植林帯の麓へ。小さな祠があったので無事に城跡に辿り着くべくお参りしてから間伐材がそのまま置かれている植林帯を登って行くことに。
 傾斜にして40度ぐらいはありそうな斜面なので、必然的にジグザクにルートをとりながら次第に高度を上げていきます。これで全く関係のない尾根筋だったら、一体どうしようなどとの雑念が去来。最近だいぶ足首の筋肉が弱ってきたようで足元が不安定。このコースは道自体は存在しないものの、潅木の類が生えていないので先の見通しは良好。しかし反面では滑り落ちると檜の幹にぶち当たって止まる以外になさそうな急斜面。
 直線距離で城跡までは約200m、比高差は130m程度なので、計算上は20分も辛抱して登れば城跡付近に到着するはずかと。そうこうしている内に、やっと北側へ伸びている小さな稜線の上に出て一段落。とはいえこの時点ですでに息は絶え絶え、足はフラフラ。しかし、東側に伸びている見通しの良さそうな稜線は目の前ということもあり意識朦朧の状態でともかく前進。さて東側の尾根筋に到着すると城跡の遺構はもう目の前にありました。このあと狭い尾根筋に普請された数少ない腰郭、堀切、主郭などの遺構を確認。また伐根跡とも狼煙台跡ともいわれている主郭北東の大穴を目視してこの場所が間違いなく根古屋城であることを再確認。
 帰路は北側の尾根伝いに10件ほどのログハウス風の民家が建ち並ぶ集落目指して一気に下降。道は途中から消滅しているものの視界と行動を阻害する潅木の類も存在せず約10分少々で下山完了。多分この道を逆に登るのがベストのようでしたと気づいてもあとの祭り。「城跡めぐり」というよりも「低山無名峰探訪記」になってきたような感じが。

リュウガイ城(埼玉県飯能市)午後12時20分から午後2時50分まで
 こちらも登口が明確でなく、おまけに先日の降雪で谷沿いの路面は日当たりが悪く一部凍結の状態。この分ではおそらく北側斜面は凍結個所もあるやも知れずということで、安全第一にやや遠回りになることを承知で東側の尾根筋を西へ向って辿ることに。
 それにしてもアップダウンの多い尾根筋で30m登ったかと思うと20m下りといったパターンの繰り返し。いい加減に到着してほしいなどと呟きながら前方の地形を確認しつつ前進。それでも歩き始めて約1時間で東側の堀切付近にやっと到着。こう書いているといかにも気楽に尾根筋ハイキングをしていたように聞こえますが、実際には尾根筋の眺望が殆どないので何時になったら到着するのかヤキモキ。往復の間に落ち葉の急斜面で少なくとも5回以上はこけましたです。比較的緩やかな尾根筋のアップダウンですが所により30度ほどの急斜面で掴まるものが何もない個所も数か所ほど。特に主郭の東側斜面は比高20mほどですがこれがなかなか滑りやすくて閉口。
 なお、途中の尾根筋で大型哺乳類のものと思われる大量の糞を発見。このあたりは熊はいそうもないので多分イノシシではないかと。念のため資料やデジカメをザックに収納して、予め用意していた鉈を腰に吊るすことに。尾根筋の道自体は、高圧線の鉄塔やテレビの電波の中継施設などが3ヶ所ほど存在するために、それほど悪くはなく冬場ならば全く問題なく通行可能かと。肝心の遺構の方はどうだったかというと、城跡からの眺望は植林と潅木の常緑樹のため殆どない状態であったことも影響して、主郭を始めとして複数の腰郭や堀切、土塁、竪堀と一応は遺されているものの、やや印象的な要素には欠けているのではないかと思われました。実際のところ、往復2時間かけて訪城するだけの価値があるかどうかは何ともいえないところでした。
 
 このあと時間と体力があれば、同じ尾根筋の東側にある「中屋敷」へ行く予定も。しかし時刻もすでに午後3時近くになっていることと、両方の足首に余り力が入らなくなっていることもあり、事故を起こしても洒落にならないのでまたの機会ということに。加齢と体重の影響かと思いますが、両膝のばねとともに足首の筋肉の衰えを痛感。



楓庵
■楓庵正面

きのこおろし蕎麦大盛850円也  画像クリックで拡大
■きのこおろし蕎麦大盛850円也

店内の様子 画像クリックで拡大
■西日が暖かい店内

 すでに午後3時を過ぎ。この時間だと個人経営のお蕎麦屋さんは休憩と仕込みのため暖簾をしまっている場合が多く、今日も飯抜きかとあきらめかけていたときに県道70号線沿いで暖簾が下がっているのが目に入りました。反対車線側で車は急に止まれないこともあり少し先でUターン。看板によるとそば処ではありますがどうやら多角経営を志向しているようで、うどん、うなぎを始めとして肉じゃが定食、コロッケ定食、アジフライ定食など多彩なメニューが壁に張られていました。
 自分としてはコロッケ定食もかなり魅力的でしたが、壁のメニューでもっとも目立っていた「きのこおろし蕎麦」を注文。大盛で100円増は良心的な値段かと。次第に薄れていく記憶の中で必死に思い起こすと、今までのなかで大盛料金の最たるものはプラス300円というのがあったような。蕎麦自体は標準的な太さでやや堅めの茹で加減かと。蕎麦つゆもたっぷりと別についてきたので安心してどかどかと具を入れられました。合計約5時間の低山ハイキングにより空腹の極限に達していたので、喉越しの良い蕎麦と茸と大根おろしがエネルギーゼロ状態の体に活力を与えてくれました。余りにのどが渇いていたので蕎麦つゆ・蕎麦湯も完食。
 店は県道70号線沿いてせ天覧山を少し過ぎたあたりの左側。

■お店の所在地■

撮影月日:2006年1月25日
撮影場所:飯能市内にて

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・2006年1月23日    時間がないので手近な城館を
           

 土曜日は関東地方の南部を中心として珍しく大雪となりましたが、埼玉の南西部地区はそれほどの積雪はありませんでした。しかし、この日は時間が空いたのが午後1時過ぎで本格的な山城に向うような時間もなく、また路面凍結などのリスクを考慮して以前からこのような局面を想定して計画しておいた飯能市東部の4か所の城館跡へと向いました。いずれもどちらかといえば無名に近いものの、2時間ほどの行動時間があれば充分に探索できそうな平地や低い丘陵に所在するものばかりで、しかもほぼ1ヶ所にまとまっているという非常に効率性の良い探索でした。見方を変えると、やはり歳のせいで不精になったのかもしれません。

某館(埼玉県飯能市)
 余り期待せずに訪れた名称不詳の「某館」ですが、空堀と土塁が館跡の北側に延長にして200m前後も残されていることに何よりも驚きを 。特に東よりの土塁はやや自然地形との区別が難しいものの高さにして3mほどはありそうななかなか雄大な規模でした。「埼玉の中世城館跡」の調査が行われたのは1983年のことで、その時点からすでに四半世紀が経過しようとしています。新しい道路も整備されて周辺の宅地開発もすすんでいる中で、こういう遺構との遭遇は正に至福の時と形容せざるを得ません。土地の所有者の方が複数いらっしゃる様子であるにも拘らず、この間殆どその形態が変わらずに遺されていることに敬服。
 館跡近くの南側水田には土屋姓の方の新しい立派な墓地が所在し、その墓碑によれば「武田信玄の家臣土屋昌恒の子孫が土着して代々名主を務め云々」と刻まれていました。それにしても風が異常に冷たく、畑に積もった雪を巻き上げて吹き付けてくるので、ボールペンを持つ手が凍えてしまいなかなか文字が書けないのでありました。

泉ヶ城(埼玉県飯能市)
  西武バス青木停留所南西側の広々とした水田南側の屋敷林が城館跡のようです。城館跡の北側には台地の地形に沿って水堀跡と思われるような幅2mほどの用水路が流れ、台地西側には高さにして2m、延長60mほどの土塁跡が現在も遺されていました。城館跡の郭内は近世名主階層のシンボルのような長屋門が所在する旧家を含め複数のお宅の宅地となっている模様で、南側の複雑に折れ曲がる道路はあたかも堀跡のようにも思える景観です。

大石氏館(埼玉県飯能市)
 北側の民家の宅地内に残されている不自然な連続した盛り土跡が自然地形を改変したものか、あるいは土塁の一部であったのかなんともいえない地形が遺されていました。そのほかには水堀跡と思われるような湾曲した道路が東西にそれぞれ1か所ずつ見られる程度で、それ以上のものは表面上見出すことはできませんでした。どちらかといえばネコとコミュニケーションしていた時間の方が長かったような...

加治屋敷(埼玉県飯能市)
 青雲山寶蔵寺を含む丘陵の南側斜面が屋敷跡と推定され、土塁と堀跡も遺されているとのことらしいのですが、丘陵先端部など自然地形と区別がつきにくい個所が多くて正直なところ弱りました。念のため武蔵丘ゴルフコースの所在する宮沢丘陵の尾根筋まで行ってみましたが、ゴルフ場建設に伴うものと思われる大分以前に立てられた倒壊寸前の木造の東屋や明治天皇野立の記念碑を見つけたぐらいでした。もっとも強いて言えばあとはもしかすると土塁と空堀のようにも見えなくもない地形が一ヶ所だけ目に入っただけにとどまりました。しかし、これとても長年にわたる雨水の流路と人間の歩行による地形のようにも思えて、なんとも判断のしようがありませんでした。
 
 どちらかといえば平地に近いこのあたりの丘陵地帯でもこの異常な寒さ。やはり本日に限っては秩父方面の山城などに行かなかったのは実に正しい選択でした。



ねこ

■毛並みのよいネコ

 容赦のない寒風に凍えながら飯能市内の大石氏館のあたりをとぼとぼと探索していると、前方からこの毛並みの良いネコがゆっくりとした動作で登場しました。さて、何時もの如く脱兎の如く逃げ去るかと思いきや、軽トラックの下に腰をすえて不思議そうな表情をしてこちらを眺めていました。3mぐらいまで接近しても姿勢を変えるだけで逃げようとはせずに暫く相手をしてくれました。最近ネコと出会っても逃げられてしまうことが多く、意思の疎通は完全な一方通行に終始していましたが、色々なポーズをとってくれたりして久々のコミュニケーション成立かと。
 また、この日はこのあと別の場所でも日向ぼっこ中のネコとも少しだけ会話ができたので、それなりに幸せなひと時でした。

■一応ネコの所在地(^^;■

撮影月日:2006年1月23日
撮影場所:飯能市にて

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・2006年1月15日    雨にも負けず
           

 前日の季節はずれの大雨も関係なく、天気も早めに回復したので片道約2時間かけて秩父の皆野町へ。
設楽氏館、高松城、天神砦、旗塚、根岸城の5か所を欲張りましたが、途中何度か山中を彷徨し実際に行けたのは2か所のみでした。

設楽氏館(埼玉県皆野町)
  設楽氏館と推定される場所は少しだけ有名な宝登山の西側の裏山。しかし登口もふくめて案内標識など一切なし。地図と磁石を頼りに大体の見当を付け、多分この谷筋を辿れば間違いないだろうと谷筋右岸の里道を25分ほどかけて尾根筋目指してまっしぐら。およその位置は宝登山近くのミッションヒルズカントリークラブ北側の長瀞町との境界付近。尾根筋の道は茸栽培などの山仕事の関係でびっくりするほど状態が良好。
 ところが、いくら尾根筋を進めども谷あいからの里道も少なくなく、遺構を求めてしばし南西斜面を20分ほど彷徨。予め歩測しながら移動していたので、明らかに行き過ぎたことを察し幾つかの里道付近の探索に切り替え。しかる後、標高400mほどの尾根筋の南側斜面を30分ほど捜索した後にめでたく遺構に遭遇。桑畑の近くに長さにして最大長50mほどの三段構えの石垣と800uほどの平場が残存。また、石垣の遺構が所在する真上の尾根筋には物見台風の地形のあることも確認。しかし、この時点ですでに午後1時過ぎになり日没や路面の凍結などの事情を考慮して、あと精々1個所から2か所をまわれればという残り時間に。

高松城(埼玉県皆野町)
  さて、高松城は以前からの山砂利などの採掘のために山ごと削り取られ文字通り「城跡」に。
高位から俯瞰することも含めて、北側の「山の神山」方面から採掘現場に。一直線に下って接近すると格好が良いのですが、採掘により断崖となっている模様のため(尾根筋の先が見えないので)大人しく尾根伝いに迂回しながら接近。なにせこの場所への尾根伝いの道を探すまでに30分ほど時間を浪費したもので。
城跡南側の自然地形の岩壁だけはまだ何とか形が残存してましたので、わずかにその要害としての残滓を感じさせてくれました。
しかし、それ以外はきれいさっぱり掘削されて、城跡は2万uほどの平坦地に掘削用の重機がポツポツと。資料によれば以前は多分360メートルほどの標高があったはず。つまり少なくとも高さにして30m分ぐらいは削り取られている計算になるのかと。
 ここから車を駐車した高松不動までは比高差60mの登りで、途中の道なき道が3歩進んで一休みの繰り返しとなる辛い帰り道でした。始めに時間を浪費したため車に戻った時点で時刻はすでに2時時50分。また高松城南端の岩壁から「天神砦」と「旗塚」が眼下と眼前に大変よく見えたので、太陽の角度と自分の体力と相談してとりあえず行ったことに(^^; 

天神砦(埼玉県皆野町)
 高松城の断崖から直線にして300mの眼下に広がる光景を眺望・撮影したのみですが、その尾根筋は落葉樹林のため比較的よく地形を観察できました。登るとするなら南側か東側ですが、小型の双眼鏡で観察した限りでは尾根筋はいかにも潅木のために苦労しそうな様子でした。

旗塚(埼玉県皆野町)
 天神砦よりもさらに登りがいはありそうで、逆光のため見づらかったのですが眺望は余りなさそうなようすでした。そのうちに必ず比高差120メートルの山頂を目指さねば。しかし、その前に体重を10キロ減量せねば。

 今朝は秩父地方では山間部の道路の一部が凍結し転倒中のバイクを目撃してしまいました。すでにパトカーは到着し救急車待ちの状態、よくよく見ると現場の道路はガリガリのつるつる。しかし一見するとただの濡れた路面にしか見えず、山道に入り四駆モードで低速走行していて正解でした。なお、下の写真の蕎麦屋さんの関係者もスリップして左側のフェンダーが凹んだということでした。霊験あらたかな神社も路面の凍結にはご利益がないようです(^^;
 高松城からの下山後に目の前にある下日野沢の集荷場兼直売所でマイタケを1000円分購入して帰路へ。



発明庵
■神社と蕎麦屋の兼業

もりそば大盛
■もりそば大盛 700円也


■秩父発明神社

 午前中に店の前を通過したので帰りがけにはぜひ立寄ろうとマークした、秩父発明神社という少しユニークな名称の神社が経営しているらしい「発明庵」という蕎麦屋さん。「発明神社」という名称にかすかな記憶があり、その細い記憶の糸を辿ってみると、たしか40年以上も前にこの神社に立寄ったことがあることを思い出しました。
 何故か「もりそば」「ざるそば」ともに値段は600円で大盛が100円増という価格設定はこの辺りではかなり安い方ではないかと。蕎麦自体にはこれといった特徴はありませんでしたが、ややもっちりとした二八の太麺で自分としては好みの部類。
 さて、「突き出し」には「たくあん」「きんぴら」などが3種類も盛られていて、適度に空腹となった腹具合には口当たりの良い格好のツマミ。乾いた咽喉にはやや温めで濃い目のお茶。こうして疲れた体にエネルギーが回復してきました。これは確かにご利益(^^)

■お店の所在地■

撮影月日:2006年1月15日
撮影場所:皆野町金沢にて

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・2006年1月13日    戸籍謄本の旅終了
           

 新宿区役所、目黒区役所と回って戸籍謄本を交付申請。一応これで亡父の出生から死亡までの戸籍の経歴が繋がったので書類集めを完了。この間に集めた17通の書類を司法書士の事務所に持参して「戸籍謄本の旅」を終了。新宿区役所の行政資料コーナーで各区の郷土史の本を見つけ自分の出生地近辺の個所を50ページほどコピーし、目黒区役所では無料の文化財関係の小冊子などをゲット。だんだん役所めぐりも慣れてきたので、転んでもただでは起きないようになってきたのでした。
 昼に食べた中目黒のとろろ蕎麦は、こうすれば美味くない蕎麦になるという意味で大変参考に。麺自体はやや太麺でもちもちとした食感で好みだったものの、「汁がやたらに塩辛い」「トロロの摺残しの塊がそのまま入っている」「食器の縁がボコボコに割れている」「食器を洗浄後に完全に拭いていないので、お盆がびしょびしょ」「賄いを客から見えるところで摂取」「たんぱく質やルチンなどが殆ど湧出していない蕎麦湯というよりもただの煮汁」「値段はそれでも850円」などとその特徴を挙げれば際限がなく、「定食メニューが多いラインナップでの営業」となっていました。尤も、その中で「手打風」と看板に書いてあったのが唯一の救いかと。



いちごみるく 生後1ヶ月未満の頃
■いちごみるく 生後1ヶ月頃

 現在3匹の中では、屋根から屋根へと軽々と飛び移るなどして最も俊敏な動きを見せている「いちごみるく」ですが、この時はまだモコモコと動いているだけの「ぬいぐるみ」のような存在でした。

撮影月日:2005年5月12日
撮影場所:自宅にて

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・2006年1月12日    昨日は命日、今日は誕生日
           

 昨日は3年前に死亡した父親の命日、そして本日は○○回目の自分の誕生日。明日また休みが取れたので相続の書類集めに出かけなくては...少なくとも目黒区と新宿区の区役所へは出向く必要があるようです。それにしても昔の戸籍謄本の記述内容はどうしてこうも読みづらいのかとある意味感心しています。



あんみつ 生後1ヶ月未満の頃
■あんみつ 生後1ヶ月の頃

 猫たちを撮影している時間がないので、少し古い未発表画像を公開することにしましたが、思っていたよりも使えそうな画像が少なくて弱っています。今では、やや太目となった「あんみつ」もこの頃はいかにも子ネコらしい大きさで、ご覧のように愛くるしい顔をしてよく懐いていました。現在もとても人間が大好きで、人を見ると見境なく近寄ってきて足元に顔を擦り付けてきます。

撮影月日:2005年5月12日
撮影場所:自宅にて

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・2006年1月10日    相続の書類集め
           

 3年前に死亡した父親の相続の関係で、都内の北区役所と茨城の伊奈町役場を往復。たいした財産があるわけではないのですが、何時までも名義を変えないで代襲相続になったりすると少しややこしいことになってしまう事情もあるようで、やっと重い腰を持ち上げて名義変更を決意した次第。戸籍謄本などの交付申請手続きに予想以上の時間を費やし、このため昼飯にありついたのは午後5時過ぎ。どこかそれなりの気の利いた蕎麦屋でもと思ったものの、捜し歩くのも面倒なので少しの躊躇もなくJR王子駅南口の食券事前購入方式の店へ。店内には一応はスタンド式のカウンターのみで、お冷は自分で給水器から注ぎ、カウンター周りも自分で綺麗にする方式。迷うことなくミニカレーセット(もりそば付き)470円の食券を購入。
 空腹の極致にあった胃袋にとってはこのさい贅沢は言ってられないということでカレーともりそばを一気に平らげました。カレーもこの値段としては美味かったし、機械打ちの半生タイプの蕎麦もそれなりに味わいがありました。もちろん蕎麦湯は出ませんが。店を出るときにショウウインドウのサンプルを見て、カツどんセット(もりそば付き)520円があったのに気づき少しだけ後悔を。なお、デジカメは持参してこなかったので画像はありません(^^;
 それにしても今日は疲労困憊の極致。朝、東上線が沿線火災のため不通。次に、いったん自宅に戻り暫く復旧を待ってから、駅に行くと何時も利用している有料駐車場がマンション建設のため閉鎖。何とか乗れた上りの電車も先が詰まっていてひたすらのろのろ運転。それでもなんとか20分ほど遅れて池袋に到着。山手線に乗り換えて田端へ向かい、今度は京浜東北線で王子へ行き北区役所で戸籍謄本の交付申請。そこからまた京浜東北線で日暮里まで戻って、常磐線に乗り換え北千住へ。北千住から「つくばエクスプレス」で「みらい平」へ行ってタクシーで伊奈町役場へ。交付された戸籍の謄本をよく読んでみると、再度北区役所へ行く必要が...仕方なく逆コースを辿り何とか時間内に舞い戻って、あらたに交付された戸籍謄本を精査すると、どうやら少なくとも荏原郡目黒村(多分目黒区かと)当時の戸籍謄本が必要な気配が。しかし、本日は役所の業務も終了しているので後日対処することに。一般に郵送してもらうという方法もあることは職業柄知ってはいたものの、時代背景が旧民法時に遡及すること、転籍・養子縁組などやや複雑な事情もありそうなので、敢えて直接出向いて交付申請することとしたもののこの状況。
 それにしても戦前の戸籍は一般的にはかなり読みづらいものがあります。しかし、城跡めぐりをしている関係で日本語の古い表現や旧字などが多少はわかるようになっていたのが思わぬところで役立ちました。また、相続登記に際しては、相続人を確定するために被相続人のほぼ一生分の戸籍情報が必要になります。したがって、生前によく戸籍の経緯を聞いておく必要があるということもほとほと思い知りました。



養子に行った子 生後1ヶ月未満の頃
■生後1ヶ月の頃

 養子に行ってしまったメスの子猫。体が一番小さく歩き方もよちよちしていました。手の上にのせると不安そうな顔をしてしがみついていたことを思い出しました。現在は大分大きくなったということですが、つぶらな瞳はそのままだということでした。
 最近の猫たちを撮影している時間がないので、少し古いのですが未発表画像を公開することに(^^;

撮影月日:2005年5月12日
撮影場所:自宅にて

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・2006年1月7日    年越ししても足元が、ぞっ...
           

 秩父方面の荒川沿いの段丘に点在する城郭の遠景撮影もかねて新年早々から城館探索へ。さて、自宅のあるふじみ野市の平野部からでも秩父の山並みを見ると斜面には雪らしいものも目立つ様子。途中路面凍結で立ち往生という事態だけは避けるべく、幾つかのルートが考えられる山越えは最初から断念することに。したがって午前9時には自宅を出るつもりが、なんと起床したのが午前9時過ぎに。また、前日めずらしく頭を使う私用があったため、頭の方もぼーっとしていてなかなか出動態勢が整わず、結局自宅を出たのが午前10時前。更に3連休の初日の土曜日のため川越市内に向う国道は新河岸のあたりから大渋滞。やむを得ず新河岸から寺尾城跡の近くの橋を迂回してバイパスへ抜けると、これが嘘のようにガラガラ。あの渋滞は一体...あとで聞いたところでは例によって工事の関係とか。うむ、確実に景気は回復の一途を辿っているような。
 しかし、この時点で秩父の根岸城は2度目の早くも日没時間切れ断念を。

阿左美氏館(埼玉県皆野町)
 日野沢の左岸の暖かな南側斜面に見事な石垣の積まれた館跡です。500mほどの僅かな距離かと思い、麓に車を停めて徒歩で登ったら意外に標高がありました。正月太りの運動不足で90キロの大台に達していたこともあり、息が切れて二度ほど小休止をしてやっと町の指定文化財となっている石垣にご対面できました。後でよく調べてみると麓の道路からは比高差で50mほどもありました。この九十九折の急な道はここにお住まいの二軒お宅の事実上の専用道路のようですが、車道ができる以前は徒歩で毎日上り下りされていたかと思うと日常的には大変なご苦労があったのではないかと推察されます。足腰と心肺機能の鍛錬に繋がるとはいうもののこれを毎日上り下りしなくてはならないということになると、とても自分には向いていません。
 そういえば山村にお住まいの方々の距離と時間の感覚とあわせてその足腰の強さを思い知ったのは、この場所から10kmほど北にある下久保ダムでのことでした。もう40年以上も以前の中学生の時分のことになりますが、まだ下久保ダムが工事中の城峰山からの帰り道だったと記憶しています。多分現在は湖底に沈んでいるような谷あいの場所で、地元のお年寄りに児玉駅へ向うバス停の場所を尋ねたとき、「そこの道を登ればすぐそこ」といわれました。ところが、いざ登り始めたもののなかなか到着せず、何とハアハアいいながら30分近く費やしてやっと十国峠のバス停に到着したことがあったのを思い出しました。これ以来田舎の方、とりわけ山間にお住まいの方の「すぐそこ」は最低30分はかかるものだという認識に改められました。

小池氏館(埼玉県皆野町)
 中世の趣を伝える庭園を中心として北側に土塁の一部が遺されているということでした。しかし、土塁の方は近くに完成した皆野寄居バイパスの周辺道路整備の関係で西側の半分ほどが消滅しているように思え、注意をして観察しないとやや分かりにくい状況になっていました。また、連日の寒さにより庭園の池には分厚い氷が張りつめていましたが、現在も当地にお住まいのご年配の女性がいらっしゃったのでご挨拶を。このあと、近くの八幡神社に初詣がてらにお参りに行くと、先ほどの年配の女性が石段を下ってきました。お参りをさせていただきますと断って石段を登ろうとすると、恐縮なことに再び踵を返して社殿まで同行していただきました。無事参拝を済ませ、お話を伺うと代々殆どこの小池さんのところで管理されているということでした。考えてみれば中世の在地領主、近世の里正(名主)の家系ということですからある意味当然の成り行きかも知れません。祭神は八幡様を始めとして、秋葉神社、神明神社そのほか八百万の神々など10柱を祭られているとのお話でした。帰りがけに大きな蜜柑を2ついただいてさらに恐縮を。

諏訪城(埼玉県秩父市)
 3万分の1の道路地図を参考にして、秩父市黒谷地区の荒川に架かる「和銅大橋」の上から撮影を挙行。この場所が諏訪城の立地に関する景観を尤も良く伝えると思われる撮影ポイントのようです。手前の大きな川が荒川で、左側のやや小さな川が横瀬川で、その間の切り立った断崖に囲まれた台地が諏訪城です。秩父地方にはこの諏訪城を始めとして、永田城、金仙寺城、宮崎城、寺尾城など規模の違いはあるもののこうした河川の合流点の台地上に立地している事例が多く見られました。こうした事例の最大のものが鉢形城ということになると思われます。
 さて、橋の上の通行量は決して少なくなく、下流寄りに付設されている歩道側からだと撮影がしづらいので歩道のない車線からの撮影となってしまい、撮影に当り大型車などの通行には特に注意が必要でした。晴天とはいえ北風もやや強く最高気温は5度あるかどうか。頑丈な橋の上とはいいながらも足のすくむような高さ。加えて石灰岩や山砂利を運搬する大型車の通行に伴う風圧。このため2分ほどで即時撤退。

宮崎城(埼玉県秩父市)
 遠景からの撮影ポイントを探して荒川の対岸の崖の上をウロウロしたものの、人家や木立があったりしてなかなか格好の場所が見つかりませんでした。思いついてやっと見つけたのが歩行者専用の旧秩父橋の上から撮影したこのポイントですが、支流の渓谷の川幅が荒川に比べて狭いためにやや分かりにくい構図となってしまいました。さて、そういえばこの橋も20年ぐらい前の札所めぐりの時に確かに見た記憶が。

寺尾城(埼玉県秩父市)
 荒川の川原で寺尾城の位置を確認するためコンパスを取り出したところ川原の砂鉄の関係か、自分の静電気の関係か磁針が役に立たなくなりました。そういえば大河原城と時も90度ほどずれていたこともあったのを思い出し、半年ほど愛用していた100円のコンパスの寿命が尽きたようです。このため「撮影したのが多分寺尾城のように思うのですが...」ということになりました。
 なお予備のコンパスも100円のものなので、後日アウトドアの専門店で2079円のスウェーデン製のコンパスを購入しました。
 厳冬期の渇水のため推量は少ないものの流れは思ったよりも早く、水温は確実に10度を切っていると思われるような正に身を切るような冷たさでした。付近に比較するようなちょうど良い高さの対象物がないので、崖の上から見下ろすのと違って下から見上げるそれほどの高さに感じませんが、生えている木々の大きさから見ても寺尾城と思われる断崖は川原からは40m前後の比高差があるようです。

金仙寺城(埼玉県秩父市)
 諏訪城などと同様に荒川の断崖とその支流の合流点に立地している城跡のひとつ。寺尾城対岸の荒川の川原で少々時間を食いすぎて写真撮影には余り向かない太陽の位置となってしまいました。墓地の手前にある駐車場に車を停めて本堂の奥にあるはずの土塁と空堀目指して歩いていくと、それほど広くはない境内で観光バスでやってきた高齢者の団体がお参りの真最中に遭遇。200か所以上の埼玉の中世城館跡にを訪れて、団体客に出会ったのはこれが初めての体験。
 とりあえず混雑などを避けるために、ひとまずお参りは後回しにして本来の目的を遂行すべく遺構が存在していると思しき北側の竹林へ突入。するとやや窪みのある地形とやや盛り上がりを見せる地形が竹林の南側にて検出。とりあえず荒川の支流の方の渓谷を確認すべく東側の小道を下って行くと割合広い市道が谷底に向って通っており、このため渓谷部分がある程度埋め立てられているような地形となっていることなどを確認。また城跡の東側は荒川の支流のそのまた支流の小さな谷に面していることも判明しました。このためやや東側は谷底との比高差が10mから15mと小さい部分もあり、あくまでも西側の断崖と比較して地形としての弱点が見られるような印象です。尤も平地の城館跡に比べればそれでも十分な比高差を有しているようです。
 このあと再び肝心の城跡へ向かい意外なほどに高さがある土塁に感激し、やや小規模ながらも良くその形状を伝えている出枡形の土塁を始めとした遺構に対面して寿ぎ華やぐ新春の訪城を無事終了。帰路は西日の当たっている金仙寺城の断崖の様子を撮影すべく荒川右岸の崖線沿いに車を走らせ、1kmほど離れた南側の崖の湾曲部からそれなりに満足のゆく画像を獲得。

 日没の時間が次第に延びてきました。昨年の12月19日の時は秩父盆地で西の稜線に太陽が隠れたのが午後4時15分。しかし今回は午後5時近くまで明るさの余韻が辺りに残り、まだまだ寒い日が続くとはいうものの車のフロントガラス越しの日差しは物憂げになってしまうほどの暖かさを享受させてくれるようになりました。



諏訪城の断崖
■勝手に気に入っている画像

とろろ蕎麦大盛
■とろろ蕎麦大盛 1000円也


■そば処「うちだ」

 秩父鉄道の上長瀞の駅前には2軒の蕎麦屋さんがありますが、もう一件は休業日のためこちらのお店に入りました。久しぶりに食べるとろろ蕎麦はかなり遅めの昼食だったこともあり、蕎麦湯を含めてあっという間に完食してしまいました。そばつゆはやや濃い目の感じがしましたが、容器にたっぷりと入っていたのでとろろとの配合を楽しみながら蕎麦を味わうことができました。蕎麦は二八の中細面で歯ごたえは堅すぎもせず、軟らかすぎもせずにちょうど良い感じでした。自分にとってとろろ蕎麦はトロロとそばつゆ、それに蕎麦の断片が渾然一体となった蕎麦湯を飲み干したときが最も美味しく感じるときです。
 正月早々の次第に暮れなずんでいく町の風景を眺めながらのひと時でしたが、次第にこういう時間の過ごし方が自分にとっての至福の時であるような気持ちになってきました。美味しいものを食べるというのは、まずある程度空腹であること。次に食事の内容も勿論大きなポイントには違いありませんが、店内の雰囲気や屋外の景色を含めた周囲の状況もまた大切な要素です。
 食事が終わり支払いを済ませ店外に出ると時間は午後4時30分と、夕暮れ時が大分迫ってはいましたが冬至の頃に比べると大分日没時間が遅くなってきたようです。

■お店の所在地■

撮影月日:2006年1月7日
撮影場所:皆野町にて

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