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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/07の日記 永田城 諏訪城 宮崎城 寺尾城 鉢形城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合30
所在地
埼玉県秩父市大字下影森字金仙寺東
歴史と沿革

立派な規模の出枡土塁が
 「増補秩父風土記」の武光荘大宮郷の項に、「上の屋敷金仙寺脇、大久保主馬」と記されているだけでその詳細な経緯は伝わってはいない模様です。また、「新編武蔵風土記稿」の秩父郡大宮郷の項には金仙寺の由来が記され「開基は里正休左衛門が先祖 井上三河守某法名審康宗意 没する年月詳ならず...」と記されています。いずれにしても以前から所在していたと推定される在地領主の館跡などを、後北条氏の支配する戦国時代に武田氏などの侵攻に供えるために城郭に改修したと考えるのが通常は妥当なようですがその詳細は不明な模様です。また、現地の文化財解説板によると金仙寺は延文3年(1358)と14世紀のなかばの南北朝の頃、中村左衛門丹次公行(丹党中村氏の系統と思われる)により開かれたとされています。別名を、上屋敷あるいは下原城とも。

確認できる遺構
土塁、空堀、小口
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川とその支流である武甲山西の肩となる飯盛山北の渓谷を水源とする押堀川の合流地点に形成された三角形の台地上の先端部分に所在し、概ね東西方向に延長120m程の空堀によって堀切られています。堀切の内側には2mから2.5mの土塁によって守られ、中間部分には東西35メートル、南北8mほどの出枡形の土塁が形成されその東西に置かれた2か所の小口を横矢により防御する構造となっています。郭内は面積は約2500uほどの間口に比べて奥行きの狭い三角形。荒川側が比高差40mほどの断崖であることに比べると、東側の比高差は更に小さな谷が形成されていることから15mから20mほどの個所もあり、傾斜自体もやや緩く地形的な欠点のようにも思えますが。

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1969年10月1日選定
訪城年月日
2006/01/07
訪城の記録

( 2006/01/07 )
団体客と遭遇
 諏訪城などと同様に荒川の断崖とその支流の合流点に立地している城跡のひとつ。墓地の手前にある駐車場に車を停めて本堂の奥にあるはずの土塁と空堀目指して歩いていくと、それほど広くはない境内で観光バスでやってきた高齢者の団体が秩父七福神参りの真最中。現在200か所以上の埼玉の中世城館跡にを訪れて、団体客に出会ったのはこれが初めての体験。ということは、如何に普段から人の行かないところばかり出かけていることの証左かと。

畑の根切
 とりあえず混雑などを避けるために、ひとまずお参りの方は後回しにして本来の目的を遂行すべく遺構が存在していると思しき北側の竹林へ突入。するとやや窪みのある地形とやや盛り上がりを見せる地形を竹林の南側にて検出。しかし、これについてはあとでよくよく確認してみると山林と畑を区分する根切りのような跡らしく、どうやら遺構ではなさそうな気配が。

東側がやや弱点か
とりあえず荒川の支流の方の渓谷の地形などを確認すべく東側の小道を下って行くと、割合広い市道が谷底に向って通っており、このため渓谷部分がある程度埋め立てられているような地形となっていることなどを確認。また城跡の東側は荒川の支流のそのまた支流の小さな谷に面していることも判明しました。このためやや東側は谷底との比高差が10mから15mと相対的には小さい部分もあり、あくまでも西側の断崖と比較して捉えた場合には地形としての弱点が見られるような印象です。尤も平地の城館跡に比べればそれでも十分な比高差を有しているには違いないのですが。

出枡形の土塁
 このあと再び肝心の城跡へ戻り意外なほどに高さがある土塁に感激し、やや小規模ながらも良くその形状を伝えている出枡形の土塁を始めとした遺構に対面。帰路は西日の当たっている金仙寺城の断崖の様子を撮影すべく荒川右岸の崖線沿いに車を走らせ、1kmほど離れた南側の崖の湾曲部からそれなりに満足のゆく画像を獲得。これにて、寿ぎ華やぐ新春の訪城を無事終了。

記念撮影

 正月の夕日を浴びて金色に輝いて見えた金仙寺城の所在する台地。荒川沿いの1kmほど離れた南側の幾分湾曲した段丘の縁から撮影したものです。台地と接している部分が広くなっているため、実際にはこの画像で見るほどの要害としては機能しなかったのではないかとも思われました。画像クリックで拡大

( 2006/01/07 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■武甲山 標高1304m(かつては1336m)
 金仙寺の墓地からは南東の方向約4.5キロメートルに所在しています。しかし北側と西側の大部分がセメント原材料となる石灰岩の採掘がすすみ、現在御岳神社の所在する山頂は削られて低くなりました。特に東部東上線の沿線や秩父盆地側から眺めると、かつての山容を記憶しているだけにその変容ぶりには驚かされます。
 40年以上前には北側の山麓にある羊山公園まで石灰岩の岩尾根伝いに下ってこれたことを思い出します。北側の石灰岩の間のチチブイワザクラを始めとした高山植物群(国指定天然記念物)はどうなってしまったのでしょうか。画像クリックで拡大
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■2■東側土塁 画像クリックで拡大
 高さ2mから2.5m以上の個所も見える堂々とした土塁が遺されています。
■3■東側空堀
 空堀の幅は上面で8mほどの規模ですが、長年の堆積した落ち葉などで大分浅くなっているように思えました。
■4■郭内
 間口は100m以上ありますが奥行きは最大でも50m前後で、全体が三角形の形状なので意外に狭いという印象でした。
■5■出枡土塁
 東側から撮影したもので、空堀も出枡に沿ってしっかりと遺されています。
■6■東側小口
 郭内から撮影したもので、このすぐ右側が出枡土塁に続いています。
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■7■出枡土塁の内部 画像クリックで拡大
 肉眼では見事な出枡土塁なのですが、画像にするとただの平地林のようにしか見えなかったりします。大きさは歩測によると内側部分で幅35m、奥行き8mほどでした。
■8■西側小口
 郭内から撮影したもので、地形が全体としてやや右側の荒川方向に傾いています。
■9■眼下を流れる荒川
■10■郭内西側
 郭内の西側はやや西側に傾斜してそのままストンと荒川の比高差約40m断崖に向かって落ち込んでいます。ここでも通常人が入らないであろう事を前提にしているようで、何の防護柵どころか危険を知らせるものもなく全て自己責任ということで。もちろん足を滑らせればそのまま...
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■11■堀切 画像クリックで拡大
 空堀で堀切った西側の先端は、そのまま高さ40メートルの断崖に続いていますので、この撮影場所もある程度崖の先端部分から少し距離を置いてはいますが、それほど安全というわけではけっしてなく...
■12■西側の小口
 西側は東側の郭部分よりも一段低く形成されていますが、金仙寺境内の西側の人工的な印象の斜面(写真手前の部分)形成とどのようなつながりがあったのでしょうかか。排水施設がこの空堀に一部存在していることと何か関係しているのかもしれませんが。
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■13■出枡土塁 画像クリックで拡大
 南側から撮影したもの。
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■14■出枡土塁 画像クリックで拡大
 「5」の写真と同じ角度で接近して東側から撮影したもの。
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■15■東側土塁 画像クリックで拡大
 最も高い部分は3m弱の高さを有している個所も遺されていました。
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■16■枝垂れ桜 画像クリックで金仙寺の解説へ
 1935年3月31日指定の埼玉県指定天然記念物である金仙寺の枝垂桜。推定樹齢600年といわれています。
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■17■金仙寺城遠望 その1 画像クリックで拡大
 撮影ポイントを探しつつ移動しながら撮影したもので左の川原は荒川。
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■18■金仙寺城遠望 その2 画像クリックで拡大
 この荒川の段丘を利用した秩父地方の城館は諏訪城を始めとして永田城、宮崎城、寺尾城など数多くの中小規模の遺構が存在しています。また、秩父盆地からはやや外れますがその代表格の最大規模のものが鉢形城となります。
交通案内

・県立秩父高専の南側の台地上、金仙寺境内北側の林の中。
MapFan Web の案内図です  

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)、「皆野町史資料編3」(1981/皆野町)増補秩父風土記を所収 

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