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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/30の日記 田村陣屋 塩館 常安寺館 増田氏館 高見城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合30
所在地
埼玉県大里郡江南町野原623
歴史と沿革

ここでも増田四郎重富が
 古河公方の家臣である増田四郎重富にかかわる遺構と推定されることから増田館と呼ばれているようです。最終的には戦国時代の後北条氏により拡充されたと推定するのが一般的ですが、当人の事蹟が余り明らかでない割には、この増田四郎重富にかかわる城館はそのいずれもが遺構としてよく保存されいることに驚かされます。
 現在の比企郡小川町の高見城(四津山城)は「新編武蔵風土記稿」高見村の条で、増田四郎重富の居蹟であるとの伝承が紹介されています。また「増田家系譜」によれば、増田重富は長享2年(1488年)11月の高見原(高見城の北側辺りか)にて合戦が行われた際に古河公方足利政氏家臣として四津山城を守備しましたが、山内上杉顕定側に攻略され落城自刃したとされています。しかし、合戦そのものは扇谷上杉・古河公方側の勝利に終わりました。
 増田氏は秩父党あるいは児玉党の出身とも伝わっているとのことですが明確ではないようです。
 増田四郎重富は古河公方足利成氏父子に仕えて、享徳の乱当時は現在の深谷市の増田氏館に居を構えて山之内上杉氏に属する深谷上杉氏と正面から対立する地理関係にあったようですが、文明10年(1478年)に高見城(四津山城 現在の比企郡小川町)を築いてその拠点を移したと考えられています。この文殊寺のある増田館から高見城までは遠いようでも約10キロメートル程度の距離であり高見城を山内上杉方に対する要害として、この増田館はその広さから見て平時の居館的色彩の強い兵站施設として普請され使用していたということになるのではないかと考えられます。
 なお、「小田原衆所領役帳」に小机衆として「増田 70貫文 小机作延ほか」と記されている増田氏はこの増田重富の子孫にあたる人物であろうか。

確認できる遺構
土塁、空堀ほか
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

居館としては些か広すぎる規模
 西側には延長200m以上の土塁・空堀、北側には延長300m以上の同様の大規模な遺構が残されています。したがってこの外郭部分と思われる部分を含めた全体の総面積は8万平方メートルを超える広大な広さが想定されます。また中心部分となる文珠寺の本堂・庫裏などの所在する部分の付近にも100m四方と推定される一部堀跡と思われる遺構が所在していますので、この部分を一応内郭と考えることができるのではないかと思います。なお、外郭部分を含めてこれだけの広さがあれば最低でも二千人ぐらいは籠城できるだけの規模となります。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町)
「江南町の文化財」のHPより
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版) 

文化財指定
訪城年月日
2005/09/30
訪城の記録

( 2005/09/30 )
スポットが点灯し梵鐘が鳴り響く
 同様の名称の遺構は深谷市にも所在しているのですが、こちらは江南町の文珠寺の境内にあります。本堂裏手西側の内堀らしき遺構は本堂の拡張工事によりその大半が消滅していますが、現在でも南北のそれぞれ端の方に多少の堀跡らしき遺構が確認できます。また、もちろん西側と北側の土塁と空堀は健在で、特に西側では二重の土塁状の遺構とこれに挟まれた空堀が今でもはっきりと確認することができます。文珠寺の境内地であるため空堀跡もよく整備されているので、この時期でも堀底がしっかりと確認できるというのは大変ありがたいことです。しかし、薮蚊と蜘蛛の巣はまだまだ健在ですので、草木の落葉した時期に来るほうがベターかと思いますが、北側の遺構の東端部分は孟宗竹の竹林のため、冬季でもかなり見づらいと思われます。
 増田四郎重富は古河公方足利成氏の家臣であったとされており、「新編武蔵風土記稿」では、深谷市の増田氏館の主として、また比企郡小川町の高見城の城主としても登場します。また、この文珠寺は増田四郎重富が中興開基したと伝えられていますが、文殊菩薩は学業関係のご利益があるということで受験生徒に人気があるようです。なお、大正大学のキャンパスと北側の堀跡は道路をはさんで向かい合っています。
 なお、本堂に賽銭を入れてお参りすると自動的に防犯用のスポットライトが点灯し、梵鐘が一回鳴り響きますので思わず笑い出しそうになってしまいました。参詣者のサービスのためのものとは思われますが、どうも挙動不審者の犯罪抑止のためのもののようにも思えたのでありました。

記念撮影
 蜘蛛の巣はそれほど多くないものの、薮蚊がウヨウヨしていた北側の土塁と堀跡。長年にわたって落ち葉などが堆積したため、見かけの上の堀跡の深さは郭側でも最大で2m、平均すれば1.5mほどです。土塁の高さは郭内で数十センチから1mほどというところです。堀跡の外側も元々は土塁があったように思われますが、現在はほぼ平坦になっているように見えました。
 なお、この遺構が所在する常安寺の北側には立正大学のキャンパスが広がっています。 
( 2005/09/30 撮影 曇 )
訪城アルバム
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江南町の資料などによれば、江戸時代中期の建築と推定されている朱塗の仁王門。
 指定有形文化財 建造物 指定年月日 昭和32年10月18日
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 文珠寺の伝承によると古くは五台山能満寺という天台の古刹でしたが、文明13年(1481年)に焼失し、その2年後に比企郡高見の四ツ山城主増田四郎重富が再建し、宗門を曹洞宗に改めて五台山文殊寺と称したとされています。
(「新編武蔵風土記稿」より)
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 江南町の資料などによれば、内側の堀跡の南端部分と思われます。資料がなければ見過ごしてしまうところでした。
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 北側の空堀跡の中間地点付近に所在する土橋状の形態を見せる遺構。その奥にはさらにその土橋を防御するような位置に小郭のような場所も見えましたが、両方とも江南町の資料には記されていませんので、別のものである可能性もあります。 
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 内郭となる文珠寺の庫裏などの建物の北西に辛うじて遺されていた内堀跡と思われる遺構。この溝は90度に2度ほど折れたあとそのまま東側の畑の方まで排水路として100m以上も続いているようですが、どこまでが当時の遺構なのか区別がつきません。
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 文殊寺は日本三体文殊寺の一つに数えられる古刹。毎年2月25日の大縁日(混雑必定)には受験生の参拝で大変な賑わいをみせているとのことで寺の前には確か文殊サブレなどの縁起物の土産物も販売されていました。伝承によれば増田重富が文明15(1483年)年に再建し中興の開基とされています。
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 延長200m以上にわたり続いている二重土塁と空堀が遺されている文珠寺西側の平地林。畑との境の細い道からも車では入れますが、これはあくまでも裏口なので東側の仁王門の方から回りこんで参詣者用の駐車場に停めさせてもらいました。
交通アクセス

・立正大学の南側の文珠寺境内 MapFan Web の案内図です  

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