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関連ページへのリンク  2006/05/04の日記 三ツ木城 武城 石戸城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合23
所在地
埼玉県桶川市大字川田谷字大平5127から5154
歴史と沿革

石戸領5千石の旗本陣屋
 父定成(さだしげ)とともに今川家の家臣であった牧野康成( まきの やすしげ 1548-1599 )は、永禄8年(1565)i徳川家に仕え家康の関東入府の際、足立郡石戸領(川田谷村ほか7ヶ村)およそ5千石を拝領しこの地に陣屋を築きました。「新編武蔵風土記稿」の川田谷村の項によれば、「陣屋 御入国以来牧野讃岐守康成及びその子内匠頭信成・孫佐渡守親成等住せし陣屋なりしが...」と記されています。なお、陣屋は慶安3年(1650)に知行1500石の旗本として分家した孫の永成が承継した時点では存続していたようですが、その後寛永期の江戸旗本屋敷の整備進捗に伴い当主が江戸へと転居し陣屋は廃されたものと推定されています。別名を「牧野家陣屋」「川田谷陣屋」「牧野家本陣」などとも。

牧野氏について
 牧野氏は三河国宝飯郡牧野村に居住したことから牧野を姓としたとされています。康成の三男信成(のぶしげ)は関ヶ原の合戦のあと大番頭、小姓組頭、書院番頭を勤め、大坂の陣での戦功により1万1千石の大名となり、正保4年(1647)関宿城1万7千石に移封。信成の領地を承継した嫡男親成(ちかしげ)は後の寛文8年(1668)丹後国田辺藩3万5千石を知行し牧野家は幕末まで存続しました。長岡藩、笠間藩の牧野氏とは別系統の家柄。
(「鴻巣市史 通史編2近世」「桶川市史 通史編」「日本史諸家系図人名事典」(2003/講談社)より)

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「訪城アルバム」の「3」「4」参照
周辺には三ツ木城、武城、石戸城などがほぼ1.5km以内の範囲で所在しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/04
訪城の記録

( 2006/05/04 )
遺構には出会わず、ネコにも会えず、蛇と出会う
 「新編武蔵風土記稿」や「桶川市史」などによれば、牧野半右衛門康成が徳川家康の関東入府により、石戸領約5000石を知行されたことにより普請された陣屋であり、17世紀半ばの慶安の頃までは陣屋として知行地の支配が行われていたとされていたとのこと。
 幕末頃までは土塁などが存在していた模様ですが、明治初年に削平されたとのこと。それでも、田辺藩の大名となった牧野家の石戸領の陣屋跡なので、ことによると堀跡の一部くらいは遺されているかも知れないという程度の期待感を胸に秘めての探索。
 しかし、平地林の端に所在する薬師堂の東側付近に陣屋の建物が所在していたとのことですが、平地林を横断する途中でマムシらしき50センチほどの蛇と遭遇したことと、北側の湿地帯との間に僅かな台地状の地形の残滓を確認した以外にはこれといった収穫もないまま訪城を終了。桶川市史などによれば20年ほど以前には「堀状の浅い遺構」が確認できたようですが、傍目にはどう見ても連休の最中に金欠病の暇をもてあました中年男性約1名が、新緑の雑木林を所在無げに散策するという光景かと...ま、実際その通りなのですが。

( 2006/09/13 )
たぶん「ジムグリ」のもよう
 この牧野氏の陣屋跡の平地林で遭遇した蛇について、その後記憶している範囲で色々と調べてみたところではおそらく「ジムグリ」であった模様です。「マムシ」や「ヤマカガシ」などと異なり性質は比較的大人しく毒性もないとのことでありました。鎌首を持ち上げてこちらと対峙したときには、あちらの方もかなり緊張していたものと思われます。時間にすれば十数秒程度のものでしたが、突然林の中遭遇するとお互いに吃驚するもののようです。

記念撮影



 平地林の右端に見えている堂宇が現在の薬師堂で、同所には牧野康成の弟である易然(いねん)が開いたと伝わる浄土宗見樹院が所在していたとされています。
 この林の中を横断したときに1.5mの距離で蛇と遭遇。あちらもかなり驚いたようでやや頭をもたげた格好で置物のように固まっていました。しばらくすると、するすると体をくねらせながら叢の中へと消えていったので、敬意を表してこちらも静かに見送ることに。

( 2006/05/04 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■薬師堂
 現在は2間四方ほどの小さな堂宇ですが、かつてはこの地に見樹院という牧野家の初期の菩提寺が存在していました。「武蔵志」および「牧野家家譜」によると、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で手傷を負った康成の弟惣次郎が知行地であるこの地で剃髪して開山したもの。寺名の「見樹院」は前年に死亡した康成の諡号。
 現在では、鴻巣市の勝願寺に牧野家本家累代の宝篋印塔24基を始めとして一族の55基の墓石が所在しているということです。(「武蔵志」「鴻巣市史 通史編2近世」より)
■2■「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」の説明によれば、薬師堂と民家の間のこの辺りに陣屋の建物が所在していたということなのですが、ハルジョオンの花が咲き乱れる野原を初夏の爽やかな風がそよそよとわたっていくというのどかな光景が広がっているだけでした。
■3■陣屋跡の北側の低湿地天沼
 陣屋跡とされている台地は北側に向かって緩い傾斜がかかり、台地先端部分と低湿地の天沼の比高差は僅か2mほどです。しかし現在でも菖蒲田のような個所もありますので、降雨の時にはかなり足をとられることになりそうです。この日は晴天で加えて前日まで雨も殆どなかったので、三ツ木城の時のように膝近くまで潜りこむようなこともなく無事に降りることができました。
■4■陣屋跡の西側
 西側も同様に低湿地が回りこんだ地形で、東側も同様の地形ですので、大げさに言えば陣屋跡自体が低湿地に張出す小規模な舌状台地を形成しているということになります。低湿地の対岸は最も近い所でさえ100m以上もありますので、湿地帯を利用した平地の城館特有の占地ということになります。
 
交通案内

・三ツ木城の北方1.2km、武城の西南西1.2km、石戸城の南東1.6kmに所在。
・平地林の奥に所在し湿地帯が近いので蛇に注意が必要。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市)
「鴻巣市史 通史編2近世」(2004/鴻巣市)
「日本史諸家系図人名事典」(2003/講談社) 

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