アクセスありがとうございます。  HP日記、訪城記録、猫との平穏な暮らしなどの雑記帳のようなものです。 
menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中

2006年5月13日    いちごみるく
           


ネコのいちごみるく
■憔悴状態の「いちごみるく」

久しぶりに登場した「いちこ゜みるく(雄)」。昨年の4月14日が誕生日だったので、もう生後1歳1ヶ月となりました。3月に行方不明となってしまった全く警戒心の欠如した「あんみつ」とは正反対で、ものすごく人見知りする性質のため飼い主の娘でさえも滅多に抱きかかえることができません。
 この日は動物病院からの避妊手術の帰りで、かなり憔悴しているため大人しく抱きかかえられていました。屋根から屋根に飛び移るのは大得意ですが、少し高い所から飛び降りるのは苦手なようで、いかにも「逡巡しつつ落下した」ようなとても無様な下りかたをしています。以前から時々外泊するようですが、だいたい2日目くらいには空腹状態で帰宅します。
 そういえば先に避妊手術をした「あんみつ」は、その2日後にふっと姿を消してしまいました。

撮影月日:2006年5月13日
撮影場所:埼玉県の自宅にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

2006年5月12日    堀ノ内のネコ
           


上品そうなネコ
■少し上品そうなネコ

中世城館の名残を求めて、桶川市坂田地区の「堀ノ内」近辺を彷徨していたときに出会いました。接近距離は約2mほどでしたが、こちらの動作には全く気にもかけずに、黙々と自分の後ろ足で器用に毛づくろいに専念。時々ちらっと目を合わせるものの、余りこちらの方には関心がないような素振りで。
 さて、コミュニケーションを深めるべくさらにもう一歩接近しようとしたとき、徐にゆっくりと起き上がり目の前の車庫の中へと入っていきました。けっして逃げ出したという印象ではなく、あくまでも単に場所を移動しただけという感じでした。ま、たぶん無視されたということかもしれませんが...

■撮影ポイント■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年5月8日
撮影場所:埼玉県桶川市にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

2006年5月8日    正しい偏頭痛
           

 北本市の城館跡のHP編集作業中に、いつものように幾つかの見落としや見当違いがポロポロと発覚。このため桶川市の残りの無名の城館跡とあわせて訪城。

堀の内館(埼玉県北本市)午前11時10分から午前11時20分
 昨年の12月半ばに訪れてはいたものの、「館跡」の文字が刻まれた石戸神社の石碑を完全に見落としていたことを「城郭図鑑」さんのHPを拝見して気付きました。本日のルートの途中でもあり以前から気になっていた事情もあり、この際立寄ることに決定。昨年はこの北本市の訪城のあとから、秩父方面を中心とした山城にどっぷりとのめりこんでいきました。このため、人間の時間感覚とはいい加減なものらしく、遥か以前の訪城のように思われて僅か5ヶ月ばかり前に訪れていたという気が全くしません。
 さて肝心の石碑は神社の正面に所在しているので直ちに見つかり、「鎌倉曉将 石戸左衛門尉館跡」という文字を確認。「石戸神社」と大きな文字が刻まれた側面に、割合小さな文字で彫られているため見落としていたようです。碑文によればこの石戸神社の石碑自体は昭和13年に紀元二千六百年を記念して建立されたもののようですが、昭和29年7月に「館跡」関係の記述が加えられたと追記されていました。前回訪れた冬場とは違い新緑の季節の石戸神社周辺の印象はだいぶ異なっていましたが、神社の奥から西側へと続く土塁と空堀は一応健在で一安心を。

八幡館(埼玉県北本市)11時35分から11時45分
 HPの編集を進めている過程で資料を良く見ていくと、どうやら歩き回った場所がやや異なっていたことに気がついて再訪することに。前回の時も一応館跡としての推定地の範囲には含まれていましたが、東へ約100mほどずれていたようです。ただし、いずれにしても遺構自体は既に宅地化により消滅していました。また、国土地理院のHPに掲載されている1998年に撮影した航空写真では、遺構が所在していたと思われる平地林が僅かばかり残されているようですので、遺構自体が完全に地表から消失したのはそれほど以前ではないのかもしれません。

対馬屋敷(埼玉県北本市)12時05分から12時20分
 この屋敷跡の当主である深井氏関係の墓所の確認が目的。前回は北寄りの歴代住職の墓所らしきところを見ていたために見落としてしまったようです。このため今回は、墓地の南寄りからじっくりと観察しながら歩き始めたもののなかなか直ぐには見つかりません。再度墓地の中央に戻りもう一度周りを見渡すと、ようやくにして大分南寄りの個所に十数基の宝篋印塔群を始めとしたやや苔むしたような印象のある古い墓石の集団を発見。記年銘の古いものでは天文年間、慶長年間のものなどが所在していました。
 このあと、無事発見のお礼に本堂に向い浄財を投じようとしたところ、いきなり防犯装置のアラームが辺り一面盛大に鳴り響きました。まったく何等やましい事はないのですが、それにしても焦ったの何のって...先日はそのようなこともなかったので、多分センサーのスイッチの切り忘れかと善意に解釈をしたものの、心臓が悪い人だと万一のこともありそうな...

加藤氏館(埼玉県北本市)12時30分から12時45分
 「新編武蔵風土記稿」に記されている小池氏と加藤氏の関係を記した墓碑を確認することが目的の再訪。旧家と思われる加藤姓の墓石自体は宝篋印塔なども含めて墓地内には複数存在しているものの、元禄期のものが最も古いことが判読できた程度で、どんよりとした曇り空という事情だけではなく、明らかに刻まれた文字を判読する能力に欠けるためその所在を確認することは叶いませんでした。

堀ノ内(埼玉県桶川市)13時から13時50分
 具体的な情報として中世城館跡が存在しているということではなく、「堀ノ内」という地名が訪城の動機という実にいい加減な行動です。「ゼンリン」の「いつもガイド」の地図を2枚印刷し、これを貼り合せたものが資料および手掛りの全てという大変寂しい状況。
 そういえば少し前にゼンリンさんから、「今後のリンクのお知らせは不要」の旨連絡をもらったことを思い出しました。最初は更新のたびにリンクのお知らせメールを送信。そのうちに相手先の都合も考慮して数件を纏めて送信することに。20件ほどのメールを送信した段階で、今後のリンクのお知らせメールは拙サイトの全体の内容から判断して不要である旨連絡をいただくことに。これをどう解釈するかが問題ですが、おそらくあまりにも毎回律儀に送信していたのでいい加減呆れられたのかもしれません(^^;
 さて、地図上では赤堀川とその支流が北側と東側を流れていますが、目星をつけていた現地は案内板が設置され「大尽山」と呼ばれる大規模な屋敷林が所在している模様です。都市計画道路も一部建設中で、西側の方には産業廃棄物を埋め立てたような高さ8mほどの2段になった台地状の長大な地形も所在。その更に西側のやや標高の高い山林がどうしても気になるので、山裾の地形を観察しながら反時計回りに行動していくと、産廃のほぼ西側にあたる山林の山裾に深さ数十センチくらいの堀跡状の地形を確認。自然の雨水の流路のようにも見えるのですが、上幅が4m以上はありそうなので人工的な手が加えられた地形と見ても差し支えはなさそうです。その目的や時代背景なども全く不詳なので、たしかに一応地形の上では「堀跡」には相違なさそうなものの、いわゆる「畑の根切り」なのか「城館跡等」に関連するものなのかその性格付けが何とも判りかねました。

倉田氏館(埼玉県桶川市)14時05分から14時50分
 倉田氏館の近くの三仏堂に到着した頃から今にも降り出しそうな空模様に変貌。このためやや足早に北側に所在する館跡の山林を目指すことに。さて、南北方向にのびる公道沿い東側には梨畑が広がり、さらにその向こう側には余り人気のない鬱蒼とした印象のある平地林が所在していました。こうして館跡のおよその場所は確認できたものの、なかなか平地林へアプローチするルートが見つからず、しばらくそのまま農道を北進していくことに。すると民家の手前の梨畑との間に東へと向かう幅1mほどの農道を確認。この農道を右折して少しばかり東へと進んでいくと、さらに右手の平地林へ向かう細い農道が。
 北西の平地林がやや張出したような個所にはトタンの上屋を掛けた1坪ほどの広さの稲荷社の祠が所在。扉を開けて中を拝見したこともあり迷うことなくお賽銭を。昼間とはいえ天候のせいもあり薄暗い湿度の高い陰気な雰囲気の漂う平地林の中は、不可解な現象を含めて何が起こっても不思議がなさそうな気配が濃厚で...
 堀跡の遺構として明瞭な個所は2ヶ所ほど所在し、一つは先ほどの祠西側の畑との間の部分で祠の後ろ側には土塁状の盛り土のような跡も見えます。しかし、隣の畑との関連で考えると多分に「畑の根切り」の印象もあるような。もう一つは平地林と畑との境界部分に所在する東西方向に100m以上はあろうかという空堀です。深さは数十センチから1mほどですが堀幅が3間前後はありますので、その規模から判断して空堀跡と見るのが妥当かもしれませが、様々な堆積物や繁茂する樹木のためその全容が掴みきれませんでした。またさらに南側の平地林の中にも細かい堀跡状の浅い溝が数ヶ所見ることができますが、藪が酷すぎて地表の形状が識別しづらく雨水の流路なのかどうか判断が困難なくらいに埋まりかけていました。
 こうして時計回りに館跡の周辺を回っている最中に空模様は次第に弱い霧雨に変わりはじめ、おおよその堀跡の状況などの確認も終えたのでとっとと足早で車まで戻ることに。

伝足立遠元館跡(埼玉県桶川市)15時10分から15時30分
 霧雨は次第に小雨に変わり始め、このためやむを得ず訪城計画を縮小することに。そのような事情で、おそらく館跡の石碑以外にはなにもなさそうなこの場所を敢えて本日の最終目的地に選定。傘を差しながら動き回るのも面倒なので、ここは素直に車を停めた館跡と推定されている桶川総合福祉センターの敷地内の市の教育委員会で「石碑」の所在地を確認。するとなんと石碑はすぐ隣の総合福祉センターの建物の脇に鎮座しているとのご回答が。ご多用の中現地までご案内もいただき、この場をお借りしてあらためて感謝申し上げる次第。さて記念撮影を敢行すべく碑文の文面をよく読んでみると、「往時の館跡の伝承を今に広め後世に伝える」というような趣旨で桶川市により建立されたとのこと。期せずして自分のHPの趣旨とも符合していることに思い当たったという次第。

 昨日あたりの天気予報では好天の予想。しかし、朝方から頭がぎりぎりと締め付けられるようないつもの偏頭痛が発生したので小雨くらいは予想していたところ見事ずばり的中する結果に。この時期は微細な気圧の谷を感知する才能があるらしく、下手な天気予報よりも的中率は高そうです。けれどもこれだけ時間を費やし、しかも霧雨の中をとぼとぼと歩き回ったにしては、得体の知れない「溝」、堆肥の積まれた空堀、そして伝承継承の石碑という成果はどのように評価すべきなのか自問自答する一日でした。



ムラサキハナナ
■倉田氏館の空堀跡

東西方向の延長距離は100m以上と長大なのですが、何分にも草木の繁茂が著しいために全体的に地表の形状の判別が困難な状況。そんな中で堀跡東側の家庭菜園付近は比較的状態が良好でした。手前の落ち葉の堆肥の高さは1mを有に超えていましたので、この地点に限れば堀跡の深さは1m以上、上幅5m以上ということになります。

■所在地のめやす■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年5月8日
撮影場所:埼玉県桶川市にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

2006年5月4日    遺構がなくてもそれなりに
           

 先月に引き続いて、桶川市の無名の城館跡へ。連休の混雑を避けるべく、午前中は自宅で本などを読んで時間を潰して午後からの訪城。暫く秩父方面への行動が続いていたので、目的地までの往復所要時間が2時間程度というのはこんなにも楽だったのかとあらためて痛感。
 生育期に入った草木のために堀跡や土塁の確認は困難になってきたものの、未だこの時期はそれほど薮蚊や蜘蛛の巣に阻まれることもなく爽やかな陽気。これで見事な遺構と対面できればいうことはないものの、極力連休の人出を避けた行動ということもあり城址公園のようなところはあえて敬遠を。始めから遺構との対面は度外視して、少しずつ埼玉県内全域の制覇に向けて本日もささやかな一歩を踏み出すのでありました。

牧野家本陣
 「新編武蔵風土記稿」や「桶川市史」などによれば、牧野半右衛門康成が徳川家康の関東入府により、石戸領約5000石を知行されたことにより構築された陣屋であり、17世紀半ばの慶安の頃までは陣屋として知行地の支配が行われていたとされていたとのこと。
 幕末頃までは土塁などが存在していた模様ですが、明治初年に削平されたとのこと。それでも、ことによると堀跡の一部くらいは遺されているかも知れないという程度の期待感が。林の中の薬師堂の東側付近に陣屋の建物が所在していたらしいとのことですが、平地林を横断する途中でマムシらしき50センチほどの蛇と遭遇したことと、北側の湿地帯との間に僅かな台地状の地形の残滓を確認した以外にはこれといった収穫もなく訪城を終了。まさしく連休の最中に暇をもてあまして、新緑の雑木林を所在無げに散策する中年男性約1名という光景かと。

太郎兵衛屋敷
 随分とローカルな響きをもった城館跡の名称ですが、おそらくは「桶川市史」で地名を基に「岡村館」として記載されている城館跡と同一のものかと推測を。所在地は大宮台地西側の荒川支流の南流する江川沿いの低地に面した台地の先端部分。しかし、現在は宅地や畑として利用されており中世城館跡としての面影は全く見いだせず、このため現地にて所在地を特定するのにかなりの時間を費やすことに。
 車へ戻る途中、田んぼの畦道を暢気そうにこちらに向かってくるネコに遭遇。相手は突然の対面に戸惑いその場に蹲り様子を窺っている模様。しゃがんで、おいでおいでをしてみまたものの、踵を返すようにして逃亡...
 江川両岸の水田地帯を挟んだ東側の台地にふと視線を移すと、次の目標である「白旗館」付近の小高い地形が遠望できたので、これもまた小さな収穫かと納得。

白旗館
 館跡と推定されている場所の南側には比較的規模の大きな氷川神社の社殿が所在。また神社が所在する比高差5、6mの台地といい、緩い登坂の参道の両側の様子といい、歴史を感じさせるなかなかいい雰囲気の環境。
 さて、社殿西側の高さ0.8メートルほどの連続した盛り土のような地形が存在していますが、以前からのものなのか、社殿の建設に伴うものなのかどうかは判然としません。「無理やりこじつければ土塁跡のようにも見えなくもなさそうな...」、というわけで、三方向からしっかりと記念撮影を敢行。また、諸般の事情があるものとは思われますが、北本市の石戸神社の裏山と同様に、社殿の奥の木立が伐採されて住宅地となり、かつての厳かな神域であるはずの景観が一変してしまったようで大変残念に思われました。

ぜーけ
 奇妙な名称で、まず直ぐに思い浮かぶのが仏教用語・在家役賦課の「在家」ということになりますが、そのことをもってして直ちに中世城館跡と結びつくかどうかについては疑問が。さて、館跡の所在地はおそらく真言宗教音寺一帯かと思われ、お寺とその周辺の住宅地をぐるっと一周してみたものの、南側に緩い傾斜がかかる地形であったことが判明した程度でありました。資料によればかつては堀跡が存在していたとのことですが、現在ではどう見てもごく普通の市街地の中の住宅地とお寺でありました。また、南西200mの至近距離に位置する白旗館との関連が気にかかるものの、現状の地形からだけでは想像力をかきたてるのは難しいようです。

 氷川神社の参道脇に駐車した車に戻った時点で時刻は未だ午後3時を少しだけまわったところ。あと2時間もあれば桶川地域は無事訪城完了となる可能性も。しかし訪城時の記憶力の著しい減退という本人事情と、夕方からの渋滞が予想されることもあり、この辺で早々と「訪城」(蛇とネコに遭遇しただけかも)を切り上げて帰宅することに。



ムラサキハナナ
■ムラサキハナナ

先日訪城した「加納城」の出郭跡あたりの畑の端に咲いていた中国原産の帰化植物「ムラサキハナナ」。
 別名を「ショカツサイ」とも呼ばれ、その昔中国の三国志の時代にかの有名な諸葛孔明が生育の早い兵糧として栽培を普及させたとの伝承が。外見の花色の上品さに似合わず、とにかく生命力旺盛。この時期はセイヨウタンポポ、菜の花などとともに群生して、野原や土手のみならず、果ては下水路のヘドロのような所でさえも生育してました。
 またの別名を「ハナダイコン」とも。

■撮影ポイント■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年4月26日
撮影場所:埼玉県桶川市にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

2006年5月3日    堀跡の浦島草
           


ウラシマソウ
■ウラシマソウ

「加納城」の空堀の中を歩いているときに見つけたもので、独特の「仏炎苞」と細長くのびる付属体(肉穂)をもつサトイモ科の多年草のウラシマソウ。図鑑の写真などでは見かけますが、現物を見たのはこれが始めての経験。細長い肉穂を浦島太郎の釣竿に喩えたとも、仏炎苞を亀の甲羅に見立てたともいわれています。叢の中に生えている場合が多いのでなかなか見分けにくいのですが、比較的大きな葉の形をしていますので「葉」を探した方が見つかりやすそうです。別名をヤブコンニャク、ヘビクサとも。
 堀跡・土塁に対面し、比較的珍しい野草にも出会えてまさに充実のひと時でした。

■撮影ポイント■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年4月26日
撮影場所:埼玉県桶川市にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中