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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/05の日記 三ツ木城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合27
所在地
埼玉県桶川市5819他
歴史と沿革

足立氏に繋がる城館跡か
 「桶川市史」によれば構築年代・構築者は共に不明とされ、中世の城館跡としての性格付けを示しているとともに足立遠元系統の足立氏一族の城館である可能性も示唆しています。また、現在城館跡の南側に所在する集会所の名称にも「竹之内」という地名が付けられていることから、中世城館跡の所在を示唆する「館の内」に繋がるものと考えられます。
 「同市史」では近世地誌等の文献類に関する引用はなく、また「中世北武蔵の城」(2003/梅沢太久夫)では「桶川市教育委員会の調査で新規にその存在が公にされた城館である」と記していますが、実際には下記の参考資料中「埼玉県史料叢書第4巻」(1998/埼玉県)収録の「古址遺跡碑文等之部」(明治8年頃に編纂されたと推定)において、「武城」(竹内陣屋旧趾)の名称で簡易な絵図とともに掲載されています。なお、「新編武蔵風土記稿」 の川田谷村の項には小名として「竹内」の地名が記されているにすぎず、別の遺構である「三ツ木城」「牧野氏陣屋」を除いて城館跡の存在を示唆する記述はありません。
 別名を「武城館」(桶川市史)、「竹内陣屋」(埼玉県史料)とも。(2006/05/16加筆訂正)

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南側と東側が深田と思われる低湿地を形成する台地の南端に所在し、一見すると二重の土塁と堀跡により構成された方形館のようにも見えます。しかし、試掘調査などにより南側に向けて開いたコの字型の遺構であるという説が提示されているようです。また、明治初期に作成されたと推定されている「古址遺跡碑文等之部」に掲載されている略図でも南側の遺構は既に消失した状態で描かれています。なお、南西およそ1.8キロメートルには三ツ木城が所在しています。(2006/05/16加筆訂正)

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市)
「埼玉県史料叢書第4巻」(1998/埼玉県)より「古址遺跡碑文等之部」   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/05
訪城の記録

( 2005/12/05 )
不思議な遺構の配置
 三ツ木城よりも更に歴史的背景が不詳な城館で桶川市の川田谷浄水場から見て道路を挟んで北側に所在する南向きの緩斜面に位置しています。南側の竹之内集会所に駐車させていただいて西側の内科医院脇の道から遺構の北側に回りこんで拝見。
 途中から道路と一体化している北側の外堀部分と内側の土塁の一部が地表上で確認することのできる遺構となっています。道路上の外堀部分はともかくとして、内側の土塁の所在する場所はどう見ても東側のお宅の屋敷林の一部のようでした。落ち葉焚きの火が残っていましたので、姿が見えれば了解を頂こうと思っていたものの昼時のため人影は全く見えず。したがって、できるだけ端の方から失礼してデジカメに納めて即時撤退。それにしても空堀跡と土塁の位置関係が頭の中でどうも繋がりにくい遺構でした。

記念撮影




 北側から見た南側の土塁の様子で屋敷林の境辺りに鍵の手状に遺されています。完全な逆光のため典型的なハレーションを起こしています。しかし遺構全体がもっとも分かりやすく撮れたのはこの一枚だけでしたので、やむを得ず掲載することに。

( 2005/12/05 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 南西の市道沿いから眺めた城館跡の遠景。遺構の全てはこの屋敷林などの平地林の中に所在していますが、外部からは全くそうした遺構の存在を把握することはできません。このような事情により、「新規にその存在が公にされた城館」というような誤解が生じたものと推定されます。(2006/05/16加筆訂正)
■2■
 屋敷林の北側に祀られている稲荷社。
画像クリックで拡大します
■3■南側の南北方向に伸びる土塁を西方向から撮影したもの。こちら側からの高さは優に1.8メートル前後はあります。
画像クリックで拡大します
■4■同じく南側の東西方向に伸びる土塁。
■5■
 現在は公道となっている北側の堀跡と、かなり分かりづらくなっている高さ20センチという土塁跡(右側)の様子。なお、20年前に刊行された「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」では土塁の高さが1mと記されていましたが...
■6■
 公道が曲折するあたりの溝状の地形とと土塁状の地形の様子。この地形についてはどういう評価がなされているのかはよく分かりません。排水路のようにも見えますが、右側の地形は明らかに土塁の体をなしているようにも見えます。
■7■
 南側に向う公道沿いの左側にも土塁状の地形が確認されますが、資料などによればこの道路が堀跡であるとすると土塁は右側に所在することとなるようです。しかし、画像のように現在右側にはその痕跡の存在を辿るには極めて難しい状態のようです。
 
■8■
 南東方向から眺めた城館跡。この画像からでも駆るように手前側(南側)に向けて緩い傾斜地となっていることが分かります。なお現在の南側の低地部分との高低差はおよそ4mほどかと。
交通案内

・桶川市の川田谷浄水場北側の屋敷林 MapFan Web の案内図です  

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