( 2006/04/24 )
凸空堀跡か、畑の根切りか
資料によれば真言宗智山派安養院の南西側に所在する民家の北西側に構堀が残されているとのこと。本日は今までのこともあるので余り当てにしないで該当個所を眺めると、確かに何やら宅地とその北西部に所在する畑との境界部分に深さ1m、幅2間、延長40mほどの空堀跡らしいV字状の溝が存在。いわゆる「畑の根切り」との区分が難しいところで、屋敷林の裏手ということもあり何とも微妙な印象ですが、「北本市史資料編第3巻下」では現住の子孫の方の意見を取り入れて「伝構堀」としています。とはいうものの何はともあれ、訪城4ヶ所目にして本日はじめての遺構とのご対面に成功。( なお、後日確認した所によると、この直前に訪れた上手館にも立派な土塁が残存していました )
しかし、少し離れた西側の孟宗竹の竹林のなかに所在すると思われる堀跡については、明確にその痕跡や位置を確認するには至りませんでした。そういえば坂戸市の時もも「畑の根切り」が至るところで散見され、坂戸の地元では「畦堀(あぜっぽり)」とよばれているそうで、深いものでは2mほどの規模のものもあったことを思い出しました。
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現状での空堀跡の規模はこのように畑の土に埋もれて、屋敷林側からの木の根の侵食を抑止する畑の根切り溝との区別がつきにくい状況です。したがって、旧家の屋敷周りなどでなければ中世の館跡に関連する遺構とは気がつかなかった可能性があります。
( 2006/04/24 撮影 曇り )
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■1■安養院
「新編武蔵風土記稿」の下中丸村の寺院の記述によれば、真言宗智山派瑠璃山安養院は加藤氏の祖先が開基と伝わり、境内に古い墓石も存在しているとのことでしたが、やはり探し方に問題があったのかここでも見つかりませんでした。上の画像の堀跡はこの寺院の北西の裏手の塀沿いにのびていた可能性があるようですが、現在の状態からはその痕跡を見出すことはできませんでした。
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■2■南西方向の堀跡
北東の道路近くの部分とは異なり、堀跡が大分埋まってしまっている印象です。かつては、この西側120mほど西側の孟宗竹の竹林の辺りにも並行した形の空堀跡が確認されていたようですが、現在は外見上ではほとんど判別できなくなっていました。
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■3■堀跡
記念撮影の堀跡の明確な部分を反対の南西側から撮影したもので、この手前の方の部分が「2」の画像となります。
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■4■ハナニラ(ユリ科イフェイオン属) 中南米原産の球根植物
本来は秋植の植物で冬季には地上部は枯れてしまいますが、頑健な多年草のため翌年の春には再び花を咲かせてくれます。この花色はやや青みがかっているのでたぶん「ウィズレイブルー」という品種かもしれません。これに対して白色のものは「ユニフロラム」というようです。安養院の本堂前の花壇でちょうど花の盛りを迎えていました。(「季節の花図鑑(日本文芸社)より」)
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■5■館跡の遠望
手前の茶色の畑と奥の濃い緑色の屋敷林の境に上記の空堀跡が所在しています。近年屋敷林の一部をかなり伐採された模様で、だいぶ構堀としての景観に変化を生じているような印象でした。
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・国道17号線北本中丸交差点東側の真言宗安養院の南西付近。
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)
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