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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/28の日記  種垂城 小沼耕地遺跡 多賀谷氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合24
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町道智字上内出1570
歴史と沿革

鎌倉期に道智郷を本領とした一族
 武藏七党系図の野与党の系譜によれば同族の多賀谷氏と同様に野与基永の子である頼意(道智法華坊)を祖として騎西の道智郷を本領としました。
 「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190年)11月7日の源頼朝上洛の際の畠山重忠を先頭とする軍勢の後陣の44番目(三列縦隊)の随兵として道智次郎が加わっています。また承久3年(1221年)6月14日の承久の乱における宇治川の合戦において、多くの東国の武士と共に道智三郎太郎(道智助員)が討死を遂げたことが記されていますが同族と推定される多賀谷氏の記述の多さと比べ、道智氏の名が見えるのはこの部分だけのようです。
 道智氏のその他の足跡としては牛重の妙光寺には文永6年に造立された平頼直入道(道智頼直)の銘が刻まれた板碑が残されていることや、前出の野与党系図によれば頼直の孫にあたる泰光が正応6年(1293年)の平頼綱の乱において北条貞時方として鎌倉経師谷で討死を遂げていることが記されています。
 なお、館跡の中央部分と推定される成就院の東側の発掘調査では13世紀中頃から14世紀の焼き物の遺物が出土しているとのことです。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■騎西町の北西部の自然堤防上の微高地に位置し、南東約1キロメートルには道智氏から分かれたとの説もある多賀谷氏館、また東方約2.5キロメートルには戸崎城が所在します。館跡の範囲については「騎西町史 考古資料編1」によると、東西450メートル南北150メートルの規模を有すると推定されています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史 通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史 考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史 考古資料編2」(1999/騎西町)
「騎西町史 中世資料編」(1990/騎西町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/10/28
訪城の記録

( 2005/10/28 )
多賀谷氏館とよく似た景観
 田ケ谷小学校の北側の真言宗智山派成就院稲荷山万福寺の境内周辺が館跡とされていますが、周辺は畑の中に民家が点在するだけで中世の館跡としての面影はほとんどありません。しかし僅かに万福寺境内に祀られた1体の大型の板碑と館跡と推定される場所の北側を流れる用水路が当時の様子を伝えているように思われました。浄財を用意していたのですが無住の様子のために預けおく場所が見つからず形だけのご本尊への参拝となりました。
 それにしても、騎西町の城館跡は種垂城や騎西城を除くとその全てに寺院が建立されていて、しかも同じような形で南側からの参道が設置されています。したがってHPの整理を早めに進めておかないと記憶が混乱してきそうで弱りました。

記念撮影

 
 近世の石像物が参道の左側に立ち並ぶ中一体の中世の板碑が祀られていましたが、弘長年間(1261-64)のものを始めとして寛元年間(1243-47)、弘安年間(1278-88)のものなど数体が確認されているそうです。
 このコンクリートの細い参道を車で入るにはかなり問題がありそうです。とくに3ナンバーは入口の石柱のところで曲がれそうもありません。
 
( 2005/10/28 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 もちろん当時の堀跡そのものではありませんが、館跡と推定されている場所の北側を流れている用水路です。
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■2■
 現地の解説版で、道智氏について少しだけ記述がなされていました。
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■3■
 明治初年の暴風雨のため折損し当時197センチメートルのものが144.5センチメートルとなってしまいましたが折損部分はコンクリートで接合しているということです。弘長三年(1263年)の銘が刻まれた阿弥陀如来(キリーク)を種子とした彫跡のはっきりした板碑で門外漢の自分のようなものでも「光明遍照十万世界」などの真言を読み取ることができました。 
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■4■
 館跡の南側からの遠景で周辺の畑よりも僅かに地面が高いという感じがしましたが、傾きはじめた秋の午後の日差しがまだまだ眩し感じる季節でした。
交通アクセス

・県道308号線を北上し田ケ谷小学校の北側 MapFan Web の案内図です  

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