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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/28の日記  種垂城 小沼耕地遺跡
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合24
所在地
埼玉県騎西町大字内田ケ谷字中郷・寄居
歴史と沿革

反後北条氏の一翼を担った多賀谷氏の故郷
 多賀谷氏は野与党道智氏の一族あるいは村山党金子氏の一族とも云われていますがその辺りのことは定かではないようです。建久元年(1190年)11月の源頼朝上洛に際して先陣の随兵として多賀谷小三郎の名が見えるなど、鎌倉時代には「吾妻鏡」などに多賀谷氏の名が散見され騎西を中心とした在地領主であったとともに、美濃国日野村、伊予国周敷北条の地頭となるなど所領を広げました。
 その後多賀谷氏は15世紀の後半氏家(1408-1465)の代に下総の結城に移住して結城市の家臣として活躍し常陸下妻の城主として勢力を拡げました。正経の代には佐竹義重と合力し後北条氏と戦い豊臣政権下でその子重経(1558-1618)は常陸下妻6万石の大名となりましたが、関が原の合戦では西軍側についたとされ所領を没収されました。(「騎西町史」等より)

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大福寺の境内を中心として東西約400m、南北350メートルの規模を有する自然堤防上に所在しているが、現在は近世の初期には整備されていたと考えられる星川(後の見沼代用水)の分流である騎西領用水(新川用水)により北東部分が分断されています。大福寺の所在する辺りは南側の参道部分が水田面よりも1m以上高くなっています。
 また、北西約1kmには多賀谷氏の祖に当たる道智氏のものと推定される館跡が所在します。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史考古資料編2」(1999/騎西町)
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)   

文化財指定
訪城年月日
2005/10/28
訪城の記録

( 2005/10/28 )
大型の板碑と館跡よりもひときわ目立つ立派な旧家
 内田ケ谷の水田の中にポツンと所在する大福寺の辺りが多賀谷氏の館跡とされていて、周辺の水田よりも1mほどですがその境内地周辺が高く造成?されていましたが直接関係のありそうな地表上の遺構は確認できません。境内の本堂参道左脇には歴史を感じされる板碑群が安置されていましたが、寺院自体は現在無住の様子のようで参拝の方の人影などもなくひたすら静寂に包まれていました。
 北西側には付近の神社を合祀した多賀谷神社が所在し、派手さはないものの重厚な神社建築様式を味わうことができます。
 また、大福寺の北西に所在する民家の屋敷門が余りに立派なためにその存在感の大きさに圧倒され、つい中世城館跡を探訪していることを忘れてしまいました。さらにその屋敷の東側には近世の構堀と思われる南北方向にのびる堀跡と土塁状の遺構が所在しています。

記念撮影
 多賀谷氏の居館跡に建立されたとされる真言宗智山派の大福寺には21基の板碑が所在し、そのうちの9基が平成4年度の整備事業によりこの場所に集められ覆屋が設置されたということです。 多賀谷氏の造立とも推定されている中央の大型の板碑は町内最古で天福2年(1234年)の銘があり種子と蓮座の間に大きな空間があり、右側面に祈年銘が刻まれるという独特の様式となっています。(年町指定有形文化財)
( 2005/10/28撮影 晴 )
訪城アルバム
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■1■
 「多賀谷旧記」によると多賀谷光義は信仰の念篤く郭内に稲荷明神などの社を勧請し、大福寺を再興。永享年間(1429年から1441年)の始め頃に結城の地へ移りすんだと伝わっています。
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■2■
 多賀谷光義は稲荷神社のほかにも弁天社、牛頭天王、熊野社なども祀ったとされていますが、大正4年に合祀され多賀谷神社となり主祭神は倉稲魂命。
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■3■
 大福寺境内の北西方向には写真のような立派な屋敷門を構えた代々名主を務めたものと思われる屋敷が現存しています。屋敷門の建造自体は比較的新しいようですが、その規模は間口約12間、奥行き2.5間、棟までの高さ6メートル以上もありそうな豪壮なものです。
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■4■
 大福寺の由来と多賀谷氏などについて簡潔に解説された説明版。騎西町はこうした丁寧な説明版が中世城館跡のみならず各種の文化財などが所在する寺社の多くに設置されているので、初めて訪れたものにとっては大変ありがたいことです。
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■5■
 多賀谷氏との関わりを示唆する大福寺の板碑群についての解説が記されています。
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■6■
 多賀谷氏館跡の名残なのでしょうか、大福寺の境内と参道は周辺の水田よりも1m以上地面が高い位置に所在していました。
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■7■
 「3」の屋敷門の所在する場所の東側の屋敷林と畑の境にはこのような構堀とおもわれるものも残されていました。この場所も多賀谷氏館跡の北側部分に含まれるようですが、多賀谷氏との直接の関連はないものと思われます。
交通アクセス

・国道122号線の西側、田ケ谷小学校の南東600m
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