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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/28の日記 種垂城 小沼耕地遺跡 多賀谷氏館 道智氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町大字戸崎字元屋敷・城附
歴史と沿革

鎌倉期戸崎氏の居館から戦国期の城郭へ
 「新編武蔵風土記稿」の戸崎村の条には「小名 城下 城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允というものの居蹟なりと云う」との記述があります。
 「吾妻鏡」の寿永3年(1184年)の項には戸崎右馬允国延が下河辺行平、愛甲季隆らと源頼朝の鹿狩りの射手として供奉し、また建久5年(1195年)の源頼朝の東大寺供養にも武藏武士の一人として随兵に加わっていることが記されています。
 また騎西町の調査によれば13世紀と17世紀以降の焼き物などの遺物が確認されており、「騎西町史 通史編」では土塁と堀跡の一部も検出されたこととあわせて、鎌倉期に戸崎氏の居館として使用され室町時代から戦国時代にかけて城郭へと変化していった可能性を示唆しています。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「騎西町史 考古資料編1」などによれば、西端の竜宝寺から東端の諏訪神社までの対角線上で東西400m、南北400メートルの範囲が城館跡とされています。なお、西方2.5キロメートルには道智氏館、南西1キロメートルには多賀谷氏館、北東1キロメートルには加須市の明願寺館が所在しています。
 また、周辺は昭和14年の土地改良事業により削平されたために明治初期の迅速測図などに記載されている土塁跡は消失しているとのことです。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史 通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史 考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史 考古資料編2」(1999/騎西町)
「騎西町史 中世資料編」(1990/騎西町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/10/28
訪城の記録

( 2005/10/28 )
明治の頃には土塁なども存在...
 城館跡の遺構は西側が竜宝寺あたりで東側が諏訪神社あたりと推定される城跡です。現在はそれぞれの場所で周辺の水田の面より1m程度高くなっているというだけで土塁や堀跡などの意向を目にすることはできないようです。なお、諏訪神社への道は水田の車1台がやっと通行できる程度の畦道となっていますので3ナンバーでの進入はかなり厳しいので、大きな車で来てしまったときには竜宝寺の駐車場に駐車させてもらって徒歩で赴くのがベターかと。また諏訪神社の社殿前には戸崎城についての図入りの分かりやすい解説版が設置されていて、城跡めぐりをするものにとっては大変嬉しい存在です。
 地域によっては文献などの手がかりとなる資料も殆どなく現地にも何の表示もない事例もも少なくなく、本当にこの場所でよいのかと辺りをうろついてどう見ても不審者に思われてしまうようなことさえあります。集落などの中を歩くときには、できるだけ遭う人ごとに会釈などを繰り返しながら城跡めぐりをしているのですが、現地解説版があれば少なくとも怪しまれることだけはなさそうです。

記念撮影

 戸崎城の東端部分に相当すると推定される、この信濃から勧請されたと思われる武御名方命(タケミナカタノミコト)を主祭神とする諏訪神社の境内は周辺の水田よりも1m以上も地面の高さが高くなっていて西側の竜宝寺の方から眺めるとあたかも島のように見えました。
 石灯籠が苔むして全く人気のない境内ですが、折からの秋の夕日が眩しいぐらいに差し込んでゆったりとした時が流れていました。ただし道路は狭く境内の手前には車止めがあるので、畦道をバックすることになりました(^^; 
( 2005/10/28 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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 文禄年間(1592-96)の開山と伝えられている曹洞宗金佳山竜宝寺の東側からの遠景。戸崎城の土塁跡はこの手前の方に存在していた模様ですが現在は水田や畑が広がるだけで、そういわれればそうなのかという感想が...なお、右側に見える盛り土は近年の工事関係の残土のようです。
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 竜宝寺とその文化財などについて解説したものですが、戸崎城についても少しだけですが記されていました。
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 竜宝寺の山門の両脇には二体の仁王像がありますが、しっかりとアルミサッシュの建具が取り付けられた堂宇の中に箱入りとなっていました。最近は時世を反映してかこうした事例が多くなってきているように見受けました。
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 この竜宝寺も本堂前には浄財を預け置く所が見当たらず、とりあえず左側の水子地蔵菩薩の方にお参りしてきました。そういえば最初の子が無事に生まれていれば、もうすでに25歳になっていたはずです。
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 城館跡の東端に相当すると推定されている蕎麦畑越しの諏訪神社の境内。蕎麦の方は夏の遅い時期に蒔いたらしく収穫まではまだ1週間以上かかりそうな様子でした。
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 諏訪神社社殿に設置されている図入りの現地解説版。たいへん丁寧で分かりやすい解説版でしたので感謝をこめて150円ほどの賽銭を。
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 写真でも分かるように諏訪神社の境内地は周辺の水田面よりも1m以上高くなっていました。この地形がそのまま中世城館の遺構ということではなさそうですが、いずれにしても歴史的な時間の流れを感じされる光景です。
交通アクセス

・国道122号線を騎西羽生方向へ、「ふく茶屋」先の市町境の信号を右折し300m先の右側が竜宝寺。
MapFan Web の案内図です  

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