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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/28の日記 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合24
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町上種足
歴史と沿革

佐々木氏、小田氏の城館跡か
 古文書によれば種垂の地鎌倉時代の弘安期には鎌倉の御家人伊賀氏の所領であったことが示されています。また「新編武蔵風土記稿」には古城蹟に関する記述がなく、19世紀の始めに福島東雄が著した地誌「武藏志」によると「古城 上種足村の畑のなかにあり今は地形が崩れてはっきりしない 八幡・天神・稲荷の社残るのみである、これは新堀佐々木氏の支城だあり...」と記されています。また、小田顕家の菩提寺である川里町の雲祥寺の寺伝によると、騎西城主小田顕家(天文8年、1539年死去)は養子の助三郎(忍城主成田長泰の弟朝真=小田伊賀守と称する)に家督を譲り種足村の百石(地名)に隠居したとされています。
 城址公園の周辺には堀向、枳(からたち)、百石、城ノ内、八幡山、天神などの城跡と関連する地名が遺されているということです。

確認できる遺構
堀跡か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■遺構の範囲は城址公園を西端として東西750メートル、南北最大で400mの広範囲に及んでいるとのことです。水田の低い部分と比べて1m以上高くなっている部分もありますが、どれが当時のものでどれが後世のものか判断がつきかねます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史考古資料編2」(1999/騎西町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/10/28
訪城の記録

( 2005/10/28 )
城址公園とはいうものの
 一応「種垂城址公園」が目印ですが、城跡全体として見た場合にはこの場所から東側の方に大きく広がっているようです。公園の南側には折のついた堀跡と思われる小さなU字溝が隣家との間に残され、また付近の墓地には比較的状態のよい板碑も存在しています。北側に流れる用水路も当時の堀跡の名残のような気もしますが、耕地の整理などにより面影を探すのは些か難しいのかと。城址公園の南端の1.5mほど小高く盛り上がった神社跡はかつての郭跡のようにも思えますが。
 「種垂城址公園」という名称ですので演出過剰に整備された様子を予想していくと城跡としての外形的な印象が全く目に入らないこともあり些か拍子抜けします。しかし、現地には解説版とどちらかといえばやや目立たない印象の石碑が設置されており、訪れた人がこの場所が戦国時代の城館跡であったことを知ることができます。歴史的な文化財を後世に伝えるにあたっては、全く基本的なことではありますが騎西町の中世城館跡と推定されている個所には同地に所在する寺社の解説とあわせて全てこのような解説版が設置されています。一見至極当たり前のようにも思えますが、他の自治体などと比較しても設置に要する費用などのこともあり、実はなかなか大変なことなので関係者の努力に敬服。

記念撮影
  ポカポカした秋の陽だまりの中で城址公園の南側に隣接した墓地には近世の墓石などと一緒に歴史を感じさせる長さおよそ1.2メートルの阿弥陀如来(異字体)と勢至菩薩、観世音菩薩から構成される阿弥陀三尊の梵字が刻まれた一体の板碑が祀られていました。通常年号刻まれている位置に「弘」の文字が確認できますので板碑の造立時期に当て嵌めると弘安期(1278〜1288年)あたりかと。 

( 2005/10/28撮影 晴 )
訪城アルバム
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■1■
 現在は「種足」と書いて「たなだれ」と読むそうですが、歴史的な城跡としての表記は「種垂」と書くようです。
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■2■
 現地に設置されている解説版。
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■3■
 「もう少し単純な形で文字が大きいと撮影しやすい...」などと勝手に思ってしまった「種垂城址」の石碑。光線の加減もありますがそれにしても読みづらい位置に小さな字で刻まれていました。
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■4■
 南側から見た種足城址公園の様子。左側のU字溝の埋設された細い水路が「6」の写真のように城址公園の南側で複雑に折れ曲がります。
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■5■
 八幡神社が所在したとされる南側に突き出した個所は、樹木に覆われ周辺よりも1m以上地面が高くなっていました。このことからかつての郭の跡のようにも思えますが確証はまったくありません。
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■6■
 城址公園の南側で「4」の写真の先ほどの水路は短い距離の間を折をつけたように民家の敷地との間を蛇行していました。整備された公園の中なのですっかり安心していたためにまともに顔面が蜘蛛の巣と遭遇してしまいました。
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■7■
 城跡の範囲とされる北側部分にはカーブした農道と用水路が所在していますが、かつての堀跡と関係しているかどうかは分かりませんでした。左側に僅かに写っているのが城址公園の樹木です。なお、「百石」と呼ばれている所はこの左手の辺りのようです。
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■8■
 東側から眺めた城址公園で、当然ですが手前の収穫の完了した水田も城跡の範囲であるということです。
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■9■
 前の写真の遠景。
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■10■
 城址公園の東側に所在する天神社の祠が祀られている個人のお宅の屋敷林の遠景でこの場所がたぶん「天神」と呼ばれる辺りで、その後ろ側が「百石」と呼ばれている辺りのようです。
 城跡の範囲は思いのほか広くもっと先の東側の方まであるようです。この1mほど低くなっている水田は堀跡などの名残なのでしょうか。
交通アクセス

・県道38号線東側の環境科学国際センター、県立騎西養護学校南の種足城址公園を目指す 
MapFan Web の案内図です  


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