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木之本塁
関連ページのリンク  2005/07/23の日記  東方城  庁鼻和城  増田氏館  伝幡羅太郎館  宮ヶ戸堀ノ内
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態6 探し易さ5 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合28
所在地
埼玉県深谷市原郷1975
歴史と沿革

資料・伝承もなく委細不明
 「木之本塁跡」として深谷市の史跡として指定文化財になっていますが、歴史的な背景や全体の規模については不詳のようです。然しやはり周辺の同様の遺構の状況から判断して、室町時代から戦国時代にかけて当地を支配していた深谷上杉氏に関連する遺構であると考えるのが自然ではないかと思います。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

古河公方勢力に対する深谷城防衛線のひとつか
 現在確認できる遺構は東西方向に約80mほど伸びた高さ1mから1.5mほどの土塁とその土塁の西端に接する形で遺されている高さ5mほどの古墳時代後期の円墳です。もちろん円墳はそのまま物見櫓台のようにして利用されたと考えられます。
 庁鼻和城の外郭の北東起点と推定される場所から約北東に約200m、東方城の西側の熊野神社からは西に約300mという2つの城跡に挟まれた場所に所在していますので東方城、あるいは庁鼻和城の一部または出城のような存在であったのでしょうか。さらに云えば2つの城跡自体も指呼の間ですので、この木之本塁跡が2つの拠点の間をつなぐ役割もあったようにも思いますが、15世紀の半ばに深谷上杉氏の拠点が庁鼻和城から深谷城に移転した後の普請のようにも思えます。
 また、北西1.2キロには伝幡羅太郎館が、北東1キロには宮ヶ戸堀ノ内が所在しこれらの拠点と連携して本城である深谷城を防御し、利根川の対岸からの古河公方勢力の攻勢に備えていたものと想定できるのではないでしょうか。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第20集 東方城跡」(1988/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)   

文化財指定
深谷市史跡指定 1991年11月3日
訪城年月日
2005/07/23
訪城の記録

( 2005/07/23 )
古墳と土塁の合体
 東方城の西端から僅か300mほど西側に位置していることからその関連性が浮かび上がりますが、深谷市の発掘調査報告書などではそうした東方城自体の歴史的背景についても不明であるとしているようですので、この木之本塁跡に至ってはほとんど不明なようです。
 さて、一応は深谷市の史跡として指定文化財になっていることなどによるものと思われますが、この時期にもかかわらず雑草なども刈り取られていてほどよく整備されていると感心することしきり。最初に目に付いたのは高さ4mほどのどう見ても古墳としか見えない小山で、それが延長約80mほどの土塁の西側部分と合体していました。
 本当は古墳のためにも登らないな越したことはないとは思うのですが、念のため古墳かどうかを確認するために「よっこらしょ」などと云いながら痛む左足を引きずりつつその天辺に登らせていただくと、やっぱりどうみても円墳のような印象です。ふと反対側に比較的きれいな標柱が設置されているのが目に入ったので、その場所まで下りていくとはっきりと「木之本古墳群3号墳」と記されてありました。木之本古墳群と東方城の所在地が重なっているということと、このあたりに保存状態のよい古墳が残されていることはなんとなく知っていましたが、まさかこの場所に古代と中世の土木技術作品が統合され古墳と土塁が仲良く同居しているとは思いもよらず (^^;

Best Shot?

 
 この直前に訪れた東方城の1号塁跡などが民家の屋敷林の奥の方に所在していたこともあり、もう少し分かりにくい場所にあるのではという先入観のため、道路沿いの場所にいきなりあったにもかかわらず、まさかこんな分かりやすい所にあるはずが無いと思い込み見過ごして通り過ぎてしまいました。
 古墳の南側から土塁の方を撮影したものですが東西に伸びる土塁が古墳の方向に向けて約90度の角度で曲折していることが分かります。
 ( 2005/07/23 撮影 曇 )
交通アクセス

・JR深谷駅より東へ徒歩30分ほど MapFan Web の案内図です  


( 2005/07/23 撮影 )

■土塁と古墳が合体しているあたりの画像で、この場所に深谷市の史跡指定の標柱が設置されているのですが、やや傾きかけ落ち葉などのため文字も「深谷市指定文化財 史跡 木・・」と全部読めません。
 しかし、東方城の1号塁跡 (何故か民家のブロック塀に立てかけてありました) や2号塁跡 (予め知らないと文字が判読できない) よりははるかに状態が良さそうです。部外者ではありますがせっかくこれだけ手入れがなされているので、標柱の整備もと欲が出てきてしまいます。
■土塁のの東側部分はしだしい低くなり東端では高さ1m弱となってやや折のある部分も見受けられました。
 本当に手入れが行き届いていましたので夏場であるにもかかわらず土塁の状態が明確に見て取れるということは大変にありがたいことです。
■土塁から3号墳のある西側方向を眺めたもので、このあたりの土塁の高さは約1.5mほどありますが東へ行くほど低くなっていきます。
 土塁の方向は基本的には東西方向に延長にして約80mほどの長さがありますが、この古墳と合体することから写真の右端のところで南の方角に折れ曲がっています。
■深谷市ののHPによれば、「木之本古墳群3号墳」で所在地深谷市原郷1976、古墳の高さは現存高で5m、面積は594uの円墳でだいたい南側から撮影したものです。
 1969年11月3日に深谷市指定文化財として史跡指定を受け、現在は深谷市の市有地となっているようで大変きれいに保存されていました。
 
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