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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/30の日記 浦山城 設楽氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県皆野町大字金沢字加増
歴史と沿革

若林和泉守の居跡?
 「増補秩父風土記」の金沢村の項には「字浦山若林和泉守の居跡有、出牛郡境なり。」と記されているのみですが、「埼玉の中世城館跡」などに記されている城館跡はおそらくはこの若林館を指しているものと思われます。しかし「秩父志」には幕末の儒学者若林嘉陵についての詳しい記述はあるものの、同館跡や中世の若林氏に関連する記述は見当たりません。また「鉢形北條家臣分限録」にも若林名の人物は記されてはいません。

確認できる遺構
不明
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■四方を標高400mから600mほどの山岳に囲まれた旧金沢村の加増付近は身馴川の河岸段丘の緩斜面が幾分右岸にひらけた地形を形成しており、館跡はそのほぼ中心部に所在しているものと思われます。また、館跡北側の小山川に向かって館跡の南西それぞれから幅20m深さ10m弱の二本の沢筋がのびているために、南側の岩尾根がづづく山岳地帯を除いて三方向が天然の渓谷により囲まれた要害の地を形成しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/30
訪城の記録

( 2006/03/30 )
峡谷の館跡
 遺構については「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)という資料集によると堀跡が存在しているかも知れないという程度の情報のみ。小山川(身馴川)の上流が川幅20m、深さ15m以上という深い谷を刻む南側の右岸にやや開けた河岸段丘に所在しているようです。今回は珍しくテンションを上げ多少早出をしてきたこともあり、めずらしく時間に余裕があり、館跡と思しき一帯を徒歩にてぐるっと一周することに。
 その結果、北側の小山川に向かって南西から幅20m深さ10m弱の二本の沢筋がのびて、南側の山岳地帯を除いて三方向が天然の渓谷により囲まれた要害の地となっていることを理解。具体的な所在地や堀跡などの遺構の確認には至らなかったものの、おそらくはバス停の身馴川橋と加増の間付近であるとと推察され、このあたりには館名と同名の旧家も所在している模様でした。
 さて、小山川という名称にどうも少しだけ聞き覚えがありよくよく地図を調べてみると、遥か下流は利根川へと続き、その流域には児玉党関連の栗崎館、東本庄の館、北堀堀の内などの館跡や、上杉氏と古河公方の争いで歴史的にも有名な五十子陣城などが流域に所在しているあの小山川であったことに初めて気づいたという次第。小山川の上流域は水量豊かでゆったりとした下流域とは全く異なる流れの速い深い渓谷が刻まれていたのでありました。

記念撮影

 この付近がおそらく館跡と思われる一帯ですが、仮に一部堀跡などが残されているとすればとすれば、右側の竹林の南側あたりではないかと思われます。
 けれども、宅地を通らずに進むべく道のないことと、竹林の繁殖具合を勘案して遠方からの見学だけにとどめました。

( 2006/03/30 撮影 晴れのち曇 )
訪城アルバム
■1■身馴川(小山川の上流)
 館跡の北辺には身馴川の渓流が思いのほか深い谷を刻み、渓谷の深さは15mほど、谷幅は約20mくらいあります。
■2■由来のありそうなバス停の名前
 平日一日あたり片道8本ほどが運行されている町営バスの停留所の名称は、いかにもいわくのありそうな「加増」という地名で、「新編武蔵風土記稿」でも金沢村の小名として記されています。しかし、「秩父志」では「加曽尾」と記されて
■3■館跡西側の沢筋
 この自然の沢筋は身馴川(小山川の上流名)と直角に合流していますので、館跡にとってはあたかも空堀の役目を果たしているように見えました。水量は3月ということもあり極めて少ないものの、谷の幅は約20mと広く、深さは10mほどの規模がありますので空堀の代用としては十分な防御機能がありそうです。
■4■傾斜地を平坦にする工夫
 秩父地方の山間の集落に比較的良く見ることのできる石積みで、斜面の多い土地柄ならではの生活の知恵のひとつ。年代的にはそれほど古いものではなさそうでしたが1.2mほどの高さがありました。
■5■
 身馴川橋付近に所在する古学派伊藤仁斎の流れを汲む在野の儒学者・教育家若林嘉陵(若林懋、字を徳倫、通称は重太夫とも 1759-1839)を顕彰する石碑。
 その母は金崎村名主・宮前佐右衛門の娘で、嘉陵は幼少より手習いを躾けられ堀川学派の井上金峨の弟子となりますが、寛政期には郷里に戻り若林塾(遊龍園)を興し河越藩主松平家の招聘を断り生涯この地においてその門人の育成に当たったということです。この若林家は金沢村の名主をつとめた家系で、現在もこの地には子孫の方が居住されていらっしゃる模様です。
      (「秩父志」「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)より)
■6■館跡付近に所在する旧家
 平坦のように見えても北側の小山川に向かって土地全体が10度ほど傾斜しているのがよく分かります。従って建物の建築に当たっては「4」のような石積みの工夫がかなり以前から行われていたものと考えられます。
交通案内

・皆野町営バスの「身馴川橋」と「加増」のバス停の間の河岸段丘付近
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 

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