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関連ページへのリンク 2007/01/10のブログ 大串次郎館 御所陣屋 伝源範頼館 石戸堀の内
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23
所在地
埼玉県比企郡吉見町田甲
歴史と沿革

源範頼の館跡の比定地のひとつ
 「吉見町史」によれば地元の郷土史家の記した史料によると堀跡、土塁が残されていたとの記述があるとのことですが、残念ながら現在それらの形跡を確認することは殆どできません。また、同書によれば御所堀と呼ばれる北側からは製鉄跡の金糞が出土していることや地元には範頼の馬場が所在したとの言い伝えも遺されていることと要害としての立地条件などを総合して範頼の館跡として有力視しています。

確認できる遺構
決して遺構とはいえない浅い開析谷など
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

丘陵の平坦地と開析谷
 吉見丘陵北部の「御所堀」との伝承地名が残る広大な平坦地に所在し、僅かな開析谷の形跡とおそらくは後世のものと推定される堀跡のような低地が残されています。

文化財指定
訪城年月日
2007/01/10
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/10 )
伝承地名を唯一の頼りとして
 「伝源範頼館」のひとつとされる吉見丘陵北部の田甲地区に所在する「御所堀」を目指して、西に吉見丘陵を眺め方角を確かめつつ東側の大里比企広域農道を北上。 「農道」という名称とは全く裏腹に東松山と熊谷を結ぶ幹線のひとつとなっているので、大型車の通行が激しく些か左折すべき個所を行き過ぎる仕儀と相成りました。
  大体の方角は見当がついていることから、適当なところから左折して多少南へ戻り道幅の広そうな坂道を西上すると、導かれるようにして「ポンポン山無料駐車場」へと到達。 此処で改めて方向および現在位置を確認し、「御所堀」との地名が残る一帯へと徒歩にて訪問。
 現地は大きなビニールハウスが立ち並ぶ農業関係の研究施設が所在。 源範頼の馬場跡とされる地元の伝承と、地元の郷土史家の編纂した史料にかつては土塁・堀跡などが所在したとの記述があるとはいうものの、まことに遺憾ながら現在はそうした面影は全く認められず。 念のため付近をうろうろと歩き回り浅い開析谷と思われる辺りなどを記念撮影して探索を終了。

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堀跡の名残か台地を侵食した開析谷か
( 2007/01/10 撮影 )
訪城アルバム
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■1■堀跡では無さそうな低地 画像クリックで拡大
 詳細な経緯は分かりませぬが、宅地の造成などの結果、このような堀跡のような低地となってしまった畑であるというのが無難な解釈のようです。
 然し画面左側の道路との比高差が1メートル以上もありますので、以前は水田などを含む別の用途であった可能性もあるのかもしれません。もしもそうだとするとこの辺りにかつての堀跡が埋まっていそうな気配もしてくるので愈々以って優柔不断に...
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■2■無関係な画像
 「御所堀」近くに所在する歯科医院で、そのユニークな名称が気になりましたので撮影させていただきました。
 なお「ポンポン山」この御所堀と呼ばれる地域の東側に所在する式内社である高負彦根(たかおひこね)神社の裏山の俗称で北側の台地先端部分には比高差20m前後の垂直に近い急傾斜の岩壁が所在しています。
   画像クリックでこの付近の案内図の看板へ
交通案内

・常盤社会福祉会吉見学園の南側付近
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 御所堀についての記述は一切ありません。
■武蔵志
 同上

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「吉見町史上巻・下巻」(1978/吉見町) 

・2007/04/21 HPアップ

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