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関連ページへのリンク 2007/01/10のブログ 伝源範頼館 御所陣屋 石戸堀の内
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合28
所在地
埼玉県比企郡吉見町大字大串字台山
歴史と沿革

大串次郎重親の館跡との伝承
 「新編武蔵風土記稿」によれば大串次郎重親の館跡と伝わる場所であるとのことですが、そのことを傍証するような史料は残念ながら見当たらないようです。30年近く前に編纂された「吉見町史」によれば、「大串陣屋」と称された約1ヘクタールの台地が所在し、江戸時代からは下氏が居住したと記されていますので堀跡状の地形は近世の屋敷の構掘の一部とも考えられます。
 武蔵七党横山党の系譜とされる大串次郎重親は畠山氏重忠の家臣としてその一字を拝領したものの、「平家物語」によると寿永3年(1184)の宇治川合戦に加わったものの馬を流され重忠に助けられるという逸話が遺されています。また、「吾妻鏡」では文治5年(1189)の源頼朝の奥州平定の先陣の中に長野三郎重清、本田次郎、榛沢六郎、柏原太郎らとともに大串小次郎の名が記され大串等が藤原国衡の首級を挙げたとされています。
 しかし元久2年(1205)の二俣川合戦では烏帽子親でもあった恩人の重忠を討つ側にまわったと記されています。(「武蔵武士」-渡辺世祐・八代国治共著/大正2年初版/有峰書店新社刊-にその旨の記述ありますが原典については不詳)またその後の史料には大串氏の名を見ることはできないとされています。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

堀跡状の地形あり
 「堀跡」状の地形は北側の堤防に沿う形で東西方向に約60m以上の長さを有し、 南側の部分での深さは最大4m前後はあろうかという状況と比べて、北側は河川改修の影響かどうかは不明ですが現状では僅か2mほどの規模にて。 最大幅は目測では上面で約8mほど、東西の両端では幾分縮小されて6mほどかと。 中央部分では南側の宅地(郭に当たる個所か?)部分が、幾分南側に折のように凹んでいるという印象もあります。 なお西側部分には明らかに産廃らしき残土が埋め立てられているために堀跡状地形は行き止まりに。 埋め立てられた部分も含めた規模から推定すると本来は東西方向に100mほどの長さを有していたのかも知れません。

文化財指定
訪城年月日
2007/01/10
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/10 )
竹薮の中の溝状地形
 「台山」という小字地名の残る「伝大串次郎館」と推定される個所は、改修が行われた市野川の堤防が所在する河川敷の竹林付近で堤防上からもよく見えるような場所にて。 徒歩橋から東へ約200メートルとの情報を頼りに堤防上をトボトボと歩いていくと、探すまでもなく直にそれらしき竹林が所在しているのが目に入ります。 このしっかりと根の張った規模の大きな竹林の存在が、時として市野川の洪水を防ぐ重要な役割を担っていたものとも思料。 目印は「荒子下公民館」と堤防北側に広がる「善長寺」という名称の1間半四方ほどの小堂宇と墓地の堤防を挟んだ南側付近にあたります。
  1月とはいえ竹が密生していることから北側からはとても入り込めるような状態ではないので、河川敷の通路を下りて川沿いの南側からまわりこんで接近。 河川改修による堤防の築造以前は2、3件の民家の敷地となっていた模様で、現在も常緑低木の生垣なども残され一見何の変哲もない河川敷に残された民家跡地の風景かと。 付近には耕作の用に供されていると見られる畑やビニールハウスなどの資材も散見。
 然し、竹林と竹藪越しに奥のほうをじっくりと凝視すると、若干視力不足の自分にも分かるくほどに明確な地面の盛り上りのようなものが見え隠れ... こうなると、他所様の元宅地(現在は河川敷のため、おそらくは国土交通省の所管かと推定)ではありますが、低頭しつつ生垣の切れ目の定口から失礼を仕候。 近くでよくよく拝見すると、高さ1mほどの「土塁」というよりは寧ろ「塚」のような盛り上りを形成。 念のためその塚の規模を調べようと天辺付近に進むと北側には大きく切れ落ちた急斜面が出現。この地形はどう見ても「堀跡」と呼ぶに相応しい地形に相違なく。 なお西側部分には産廃らしきものが埋め立てられているために堀跡状地形は行き止まりとなっていますが、 埋め立てられた部分の規模から推定すると本来は東西方向に100mほどの長さを有していたのかも知れないなどと勝手な想像が広がっていくのでありました。
 なお、この竹林と篠竹の藪の中で何とかその形状の特徴を表す画像を撮影しようともがき苦しんでいる間にも無情にも刻々と時間は過ぎ去っていったのでありました。 かつての台山付近は土砂の採掘によりほとんど消滅していますが、現在でも明確にそれと分かる1mほどの微高地を形成していました。 これらの「堀跡状地形」の存在が単なる用水路などではないことは先ず間違いのないところですが、その具体的な時代背景などについては何ともいえないのであります。

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東側からの景観
堀跡状の地形が竹林と堤防の間に
( 2007/01/10 撮影 )
訪城アルバム
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■1■西側からの景観
 河川の氾濫とともに近世以降の河川改修や堤防の築造に加えて土砂の採掘などによりその景観は大きく変わっているものと思われました。
 然し、中央の竹林の中には下記の画像のように大規模な屋敷の構堀のような地形が隠されていたのでありました。
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■2■意外に深くて急傾斜
 この辺りが最も堀跡が深い個所で大まかな目測では4m前後の規模はあるようです。この部分では傾斜もきつく立ち枯れた竹に摑まらないと堀底へ降りることができず。
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■3■幅約8mの規模を有する堀跡
 最も堀幅の広いところではこれだけの規模がありますが、堤防上からでは藪が視界を遮っているのでまったく分かりません。上の「2」の辺りから西側の様子を撮影したもので西端部分は残土に埋もれておりました。
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■4■南側の景観
 近年まで民家の宅地であったらしく、2軒ないし3軒ほどの人家の所在した形跡が各所に見られました。河川敷の中ではありますが農業用の資材などが置かれていることから、現在でも農耕地として利用されているようでありました。
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■5■金蔵院毘沙門堂 画像クリックで解説板へ
 天文年間の武州松山城をめぐる攻防の時戦火に遭ったために現在は小さな寺域と堂宇が残されているだけですが、「新編武蔵風土記稿」によれば「当寺は大串次郎重親創立とされ、毘沙門はその本尊で。当時は七堂伽藍備わり、別当を大串山知足院隆福寺と号せし...」と記されています。
 館跡から見て北西約400mほどの距離に所在しています。
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■6■永和の宝篋印塔 画像クリックで解説板へ
 大串次郎重親の墓と伝わる永和2年(1376)の宝篋印塔で、「沙弥隆保」の銘が刻まれています。年代から見れば150年近くの開きがありますが、平成11年に実施された同塔の保存修理により人骨の納められた13世紀初頭の中国の白磁四耳壷、12世紀後半の大甕の存在が再確認されました。上記「5」の応永年間のものとともに埼玉県指定史跡となっています。地図サイトいつもガイド
交通案内

・市野川に架かる徒歩橋を渡り左岸の堤防を200メートルほど東進した河川敷の竹林付近。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 大串村の項に「大串次郎重親陣屋跡 村の東にあり、少しく高き所にして、今は農民の居家となり、その界限詳ならず」と記されています。
■武蔵志
 大串村の項に「毘沙門堂 当村は大串次郎住し所にして毘沙門は守護の本尊なり..大串次郎が住し跡見えず」と記されています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「吉見町史上巻・下巻」(1978/吉見町)
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治共著/大正2年初版/有峰書店新社)
吉見町公式HPの「観光・文化財」より 

・2007/04/17 HPアップ

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