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関連ページへのリンク  2006/12/12のブログ 伝源範頼館 石戸堀の内
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合26
所在地
埼玉県比企郡吉見町御所1(横見神社境内付近)
歴史と沿革

源範頼館跡の伝承地のひとつ
 同じ旧御所村に所在する構堀の遺された息障院と同様、「吉見町史上巻」に源範頼の館跡の候補地のひとつとの記述がありまので、以下にその概略を引用します。
 「息障院から北に150m程の所に式内社横見神社があり、安楽寺の巡礼坂の東下でもある。神社の下の石組みは古墳の遺構(「横見神社古墳」−注)であり、古墳時代にはすでに低湿地ではなかった。この地をもって範頼の館跡とする俚伝があったとし大正14年3月に息障院が埼玉県の史跡と指定される以前に、県の館跡の標識が建てられていたとの話なども伝わるがそうした事実はないものと考えられる。土塁・空濠等の痕跡もなく、まわりに対してやや高い一画をなしているとはいえ、息障院と同様に要害にはおおよそ縁の遠い地形である」(「吉見町史上巻」375頁より)
 このように、範頼の館跡としては、ほぼ否定的な見解が示されています。 なお、その後鎌倉期から南北朝期にかけてこの地域を支配したと推定される吉見氏との関係も不明なようです。 また近世の始めには幕府の直轄領であったため、代官中川八郎左衛門(天和2年-1682年-に年貢滞納のため切腹し家名断絶、武田氏の旧臣である今井氏の出身)の陣屋跡がこの南側の畑付近に一時所在したものと推定されています。

確認できる遺構
空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

要害の地に非ず
 吉見丘陵東側の低地に所在していることから「吉見町史」も指摘するように要害の地とは無縁な土地柄です。源範頼との関係・「御所」の地名がもたらす伝承などが次第に増幅していったものかもしれません。

文化財指定
訪城年月日
2006/12/12
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/12 )
見事な空堀が、然し..
 「埼玉の中世城館跡」などの情報からすると、延喜式に記される横見神社の辺りが該当地の模様。また源範頼の館跡との伝承も。 「新編武蔵風土記稿」の記述によれば代官中川八郎左衛門の居館もこの付近に所在したとのこと。
 横見神社の境内には古墳の跡と見られる土壇が存在し、南側と東側には深さ2m、幅約3間ほどの水堀跡も。 北側には用水路が現存しているものの神社側が1メートルほど高く、西側でも水田との比高差が1メートル以上を測るようです。
 正確な所在地の問題、歴史的経緯に関する問題、そして現存する遺構の取り扱い...と随分贅沢な悩みですが、いずれにしてもこれらの遺構と城館跡との歴史的関係がいまひとつ不明にてなどと考えている間に、このあと再び雨脚がいくぶん強くなり始めてしまい即座に撤収開始を。

■追記(2006/12/13)
 翌日吉見町の担当課に確認したところでは、現状では御所陣屋とこの横見神社との関係は不明で、また現存する堀跡状地形の歴史的背景も不詳とのこと。 御所陣屋の所在地についてはこの横見神社が「御所」の北端に当たるのでこれより南側の地域に所在したと推定されるとの見解でした。 また、この場所とは別に安楽寺の北西方向に「御所堀」といわれる伝承地名が存在し、範頼の館の候補地のひとつとされています。


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北西側から眺めた水田との人工的な比高差の目立つ
横見神社の社叢
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( 2006/12/12 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで「稲荷塚古墳」へ
■1■横見神社 画像クリックで稲荷塚古墳へ
 「延喜式内横見神社」と刻まれた石造りの「神額」が掲げられた典型的な明神鳥居が南側の道路沿いに建立されています。
 この南側の道路は新しく作られたもののように思われますが、鳥居の手前の道路から神社奥の水田境までの距離は多目に見ても70m程しかありません。 従って館跡、屋敷跡の規模としては些か狭隘な地形です。
画像クリックで横見神社本殿へ
■2■東側の杉木立から見た横見神社社殿
           画像クリックで横見神社本殿へ
 明らかに古墳上(「横見神社古墳」)に社殿が建立されていることが見て取れます。 基壇部分と水田面との比高差は最大で2.5m前後の規模を有しています。然し如何せん東西に民家などが所在していることもあり、境内地自体は然程広くはなく下記の明確な堀跡状の地形の存在と対比すると実にアンバランスな印象があります。
■3■神社北側の水路付近
 堀跡のようにも思える用水路で画像からは分かりにくいのですが、神社側からの深さは人の背丈を軽く越えています。 なおやや遠くに見える丘陵は吉見丘陵北東端の通称「ポンポン山」(「高負彦根神社」)付近かと思われます。
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■4■南辺の堀跡状の地形の東側部分
 「古墳に伴うもの」「中世の館跡に伴うもの」「近世以降の境内地の水害対策に伴う水路」と多岐にわたり想像は広がる一方ですが、何れもこれだというような決定的な要素を欠いています。
 この堀跡状の地形は、この先で90度曲がって北へと向きを変えて境内の東側の民家との境沿いに北進して「3」の用水路に接続しています。
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■5■南辺の堀跡状の地形の西側部分
 幅約3間、深さ約2mという比較的大規模な堀跡状の地形ですが、稲荷塚古墳の個所を除いた西側以外の三方を囲まれた境内地の規模は東西方向で約60m、南北方向で40mほどしかありません。
 ただの「不詳の堀跡」にしておくのは些か勿体無い立派な堀跡状地形なのでありました。
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■6■横見神社(西側より) 画像クリックで拡大
 向かって左側が横見神社の社叢で、右側の小高い個所は稲荷塚古墳。
■7■吉見丘陵
 停車した農道は有効幅員が約1間ほどのため、すれ違いはほぼ困難...雨上がりの夕刻とはいえ、急いで逆光の吉見観音で有名な安楽寺の所在する丘陵地帯を撮影。
 大字御所は標高50mから80m吉見丘陵の東側の低地に所在していますので、周辺はかつては水害にも見舞われやすい「要害」とは縁遠い地理的条件です。
 後日国土地理院の地形図で確認したところでは、水田の低地と丘陵の比高差は30m前後のようです。
交通案内

・横見神社境内
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 横見郡御所村の項に「陣屋蹟 當郡の御代官中川八郎左衛門が居し所なり、八郎左衛門は天和の頃家断たり、今其の蹟すべて畑となれり」と近世の代官陣屋の記述があり、当該陣屋はこの横見神社の南方に所在したとされている模様です。
■武蔵志
 源範頼、吉見氏などの伝承に関する記述はありますが、この横見神社とその遺構に関する記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」・「吉見町史上巻・下巻」(1978/吉見町) 

・2007/02/17 HPアップ

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