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■1■西側からの全景
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畑との境部分に空堀跡が遺されています。本来は遠景を撮りたかったのですが、撮影ポイントが見つからず実に中途半端な画像となりました。
なお、この日は免許証の更新のついでに寄り道をしたものですが、始めから生憎の雨模様でこのときも小雨が降ったりやんだりのはっきりしない天候でした。
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■2■西側の空堀跡@
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北側の県道271号線側から見ると緩やかなS字カーブ(折)を描いています。 然し、防御上の役割を意図したものにしては余り積極性を感じることができません。 後世の寺院の構堀であるとしても当然一定の防御性は考慮されるべきであると考えられるので、この中途半端な曲がり具合が些か理解に苦しむところです。
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■3■西側の空堀跡A
南側の先端に近い部分から撮影したもので、この画像からも右側の境内地部分の方が幾分高くなっていることが分かり、かつてはこの空堀跡に並行して明確な土塁が設置されていた可能性を感じました。 空堀の大きさはこのあたりで幅約2間、深さは1mから1.5mという規模です。 後世では水害対策や畑の根切り溝の役割も果たしていたような印象も少なからずありますが、本来的には空堀であったものと考えてよさそうです。
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■4■西側と南側の空堀跡の交差部分
館跡の南西の角に相当する個所で、景観に対する配慮の違いからかその整備状態が大きく異なっています。 この画像からも郭内の方が土塁跡などの影響から幾分地盤が高くなっていることが分かります。
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■5■南側の空堀跡 画像クリックで拡大
寺院の境内地の整備に伴い改修されている様子が窺えますが、このように堀底から東側の方向を眺めてみると実に意外なほどの深さで整備されているのでありました。
堀跡の東側の先端部が先細りの地形であるため結果的に遠近法的な画像となってしまいました。 従って長く見えるようでも、その長さは30mほどに過ぎません。 こうしてみると南側の堀跡も幾分緩やかにS字状ののカーブを描いているようにも見えます。
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■6■真言宗息障院の山門と石碑など
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現地解説板によれば正式な寺名は真言宗智山派岩殿山息障院光明寺とのことで、天平年中に行基、あるいは大同年間に坂上田村麻呂により開かれたとも伝わっています。 本尊不動明王坐像は平安末期から鎌倉期にかけてのの定朝の作風を示すとされる埼玉県指定文化財。平将門の乱の調伏を祈祷した功により息障院の号を下賜されたといわれています。
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■7■室町期と推定される茅葺の地蔵堂
館跡は大正14年3月31日付けで埼玉県の史跡に指定され、「..源範頼がここに居館を構え、その後頼定−為頼(吉見氏)−義春−義世の5代ににわたり居住。 しかし、義世が永仁4年(1296)北条貞時に殺害されたのちの足跡は不明」とされています。(旧版「埼玉の文化財」より)
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■8■息障院本堂と鐘楼
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現在の息障院は江戸時代の前期(あるいは明徳年間とも)に吉見観音で有名な安楽寺の近くから移転したもので、それ以前は源範頼の館跡であったとされています。 慶安元年(1648)には寺領として御朱印20石を拝領していました。(「新編武蔵風土記稿」「吉見町史上巻」より) 近世初期には幕府の直轄領として、代官中川八郎左衛門(天和2年-1682年-に年貢滞納のため切腹し家名断絶、武田氏の旧臣である今井氏の出身、墓所はこの息障院に所在)の陣屋跡がこの北方に所在したものと推定されています。
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■9■息障院入口の館跡石碑(左手前)
画像クリックで息障院の現地解説板へ
本堂までの参道の長さは南北方向に約100mの規模となっています。 然し、南側の堀跡はこの場所よりも40mほど北側に所在していますので、憶測としては元々は二重堀の構造であったということも考えられますが、現状ではその形跡を窺い知ることはできません。
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源範頼館跡と伝わる真言宗息障院東側の用水路脇にて日高市の旗塚以来ネコのカップルに遭遇。
2匹のネコと当方の間には幅2mほどの用水路で隔絶された絶対的安全距離。
仲良く寄り添ってのんびりと日向ぼっこ..ではなく、小雨模様なので人に喩えると相合傘という風情にて。
この会話の詳細は
⇒2006/12/13のブログへ
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■11■北側の用水路部分
(かつての堀跡)@
このかつての堀跡と推定される用水路でも西側の空堀跡と同様の緩いS字カーブが確認できますが、この意図するところがいまひとつ不明です。 拡大画像では境内側の土塁跡の地形が確認できます。
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■12■北西側の用水路と空堀の交差部分
館跡とされる北西の角部分で、「画像2、3」と「画像11、13」の用水路(かつての北側の堀跡と推定)が交差しています。
堀底の位置関係を見ると、明らかに「黄色い線」の用水路部分が、「青い線」の空堀部分の下に所在することが分かります。
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■13■北側の用水路部分
(かつての堀跡)A
県道271号線に面したかつての堀跡は近世以降に用水路としてある程度改修されている模様です。 このためその大きさは目測によれば少なくとも幅約3間、深さ2m以上となります。然し県道側の部分については、その建設に伴い一定の路盤が構築されていますので、旧来の規模については現状の様子から窺い知ることは難しいようです。
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■14■北側の用水路部分
(かつての堀跡)B
画像「13」の個所から更に西側に進むと改修された墓地の辺りからは完全な用水路としての地形であることが明確になります。 また県道部分が路盤の造成により1メートル近く高くなっていることも分かります。
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