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関連ページへのリンク  2006/12/12のブログ 石戸堀の内 御所陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯4 印象4 総合31
所在地
埼玉県比企郡吉見町御所稲荷前146 息障院
歴史と沿革

源範頼の居館跡、近世初期の寺院の構堀あるいは開拓名主の屋敷堀
 あくまでも源範頼の館跡の比定地のひとつであるとされ、「吉見町史上巻」ではこのほかに「横見神社」付近あるいは「御所堀」との伝承地名が残る個所を挙げています。また、北本市の「石戸堀の内」を範頼の館跡とする伝承もあります。

■源範頼
(?−1193)
 平安末期から鎌倉初期にかけての武将。源義朝の6男で遠江国蒲御厨で出生したことから蒲冠者ともいわれる。受領名は三河守。義経と共に平家討伐を行ったが、頼朝の勘気にふれ伊豆修善寺に流刑となり殺害されたとも、横浜の大寧寺で自刃した、伊予の河野氏を頼り死去した、北本石戸宿で没した、この地で蟄居し建保5年(1217)に死去したとの諸説があるようです。 吉見との関わりは範頼が安楽寺の稚児僧として匿われていたと伝わることによるものです。 なお、その子孫は吉見氏を名乗り、範頼以降は範円(範国)為頼(吉見氏)−義春義世の5代にわたりこの地に居住したとも伝わります。 また後世の戦国時代に松山城主として登場する上田氏は吉見氏の末裔との説もあるようです。(「岩波日本史大辞典」「吉見町史上巻」「吉見町HP」などより)

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

四方を堀で囲まれた方形館の形式
 かつては四方に土塁を伴う構堀が所在していたことが窺がえますが、現在では西側の畑との境に所在する空堀跡のみが堀跡とされています。全体の大きさは東西約120m、南北約100mの規模で、ほぼ息障院の境内地の領域であると推定されています。
 なお「吉見町史上巻」でも指摘しているように、およそ要害の地とはかけ離れた平地の居館であり、水害対策の見地からも吉見丘陵の地に居館を構える方という方が推定としても無理がないように思われます。

文化財指定
1925年3月31日埼玉県史跡、1962年10月1日同旧跡に指定替
訪城年月日
2006/12/12
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/12 )
凸「伝源範頼館」とはいうものの
 治承・寿永の乱の中では勝者側の人物である源範頼の館跡と伝わっていますが、義経、頼朝などと比較すると、明らかに目立ちにくい「歴史的人物」です。
 伝承の真偽はさておき、館跡と伝わる真言宗息障院の周囲に驚くほどに明確な堀跡が現存しています。 ただし東側の部分は用水路の改修のため、現在は殆ど原型を止めていません。 南側も延長にして30mほどの堀跡が遺されていますが、やや整備されすぎたという印象があります。 北側の県道271号線沿いの堀跡は用水路も兼ねている為に、明らかに後世の改修が加えられているように見受けられます。
 これに対して西側の部分については、ことによると畑の根切りの役目もあるかも知れませんが、比較的手が加えられていない様子が窺えました。 館の規模はおよそ東西120m、南北100mの矩形を呈していますが、「吉見町史」の記述では後世の寺院としての構堀、あるいは開拓名主層の屋敷の構堀であるという可能性も示唆していました。


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真言宗息障院の南側空堀跡
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( 2006/12/12 撮影 )
訪城アルバム
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■1■西側からの全景 
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 畑との境部分に空堀跡が遺されています。本来は遠景を撮りたかったのですが、撮影ポイントが見つからず実に中途半端な画像となりました。
 なお、この日は免許証の更新のついでに寄り道をしたものですが、始めから生憎の雨模様でこのときも小雨が降ったりやんだりのはっきりしない天候でした。
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■2■西側の空堀跡@ 
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 北側の県道271号線側から見ると緩やかなS字カーブ(折)を描いています。 然し、防御上の役割を意図したものにしては余り積極性を感じることができません。 後世の寺院の構堀であるとしても当然一定の防御性は考慮されるべきであると考えられるので、この中途半端な曲がり具合が些か理解に苦しむところです。
■3■西側の空堀跡A
 南側の先端に近い部分から撮影したもので、この画像からも右側の境内地部分の方が幾分高くなっていることが分かり、かつてはこの空堀跡に並行して明確な土塁が設置されていた可能性を感じました。 空堀の大きさはこのあたりで幅約2間、深さは1mから1.5mという規模です。 後世では水害対策や畑の根切り溝の役割も果たしていたような印象も少なからずありますが、本来的には空堀であったものと考えてよさそうです。
■4■西側と南側の空堀跡の交差部分
 館跡の南西の角に相当する個所で、景観に対する配慮の違いからかその整備状態が大きく異なっています。 この画像からも郭内の方が土塁跡などの影響から幾分地盤が高くなっていることが分かります。
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■5■南側の空堀跡 画像クリックで拡大
 寺院の境内地の整備に伴い改修されている様子が窺えますが、このように堀底から東側の方向を眺めてみると実に意外なほどの深さで整備されているのでありました。
 堀跡の東側の先端部が先細りの地形であるため結果的に遠近法的な画像となってしまいました。 従って長く見えるようでも、その長さは30mほどに過ぎません。 こうしてみると南側の堀跡も幾分緩やかにS字状ののカーブを描いているようにも見えます。
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■6■真言宗息障院の山門と石碑など
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 現地解説板によれば正式な寺名は真言宗智山派岩殿山息障院光明寺とのことで、天平年中に行基、あるいは大同年間に坂上田村麻呂により開かれたとも伝わっています。 本尊不動明王坐像は平安末期から鎌倉期にかけてのの定朝の作風を示すとされる埼玉県指定文化財。平将門の乱の調伏を祈祷した功により息障院の号を下賜されたといわれています。
■7■室町期と推定される茅葺の地蔵堂
 館跡は大正14年3月31日付けで埼玉県の史跡に指定され、「..源範頼がここに居館を構え、その後頼定為頼(吉見氏)−義春義世の5代ににわたり居住。 しかし、義世が永仁4年(1296)北条貞時に殺害されたのちの足跡は不明」とされています。(旧版「埼玉の文化財」より)
画像クリックで墓地の画像へ
■8■息障院本堂と鐘楼
 画像クリックで境内の墓地の画像へ
 現在の息障院は江戸時代の前期(あるいは明徳年間とも)に吉見観音で有名な安楽寺の近くから移転したもので、それ以前は源範頼の館跡であったとされています。 慶安元年(1648)には寺領として御朱印20石を拝領していました。(「新編武蔵風土記稿」「吉見町史上巻」より) 近世初期には幕府の直轄領として、代官中川八郎左衛門(天和2年-1682年-に年貢滞納のため切腹し家名断絶、武田氏の旧臣である今井氏の出身、墓所はこの息障院に所在)の陣屋跡がこの北方に所在したものと推定されています。
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■9■息障院入口の館跡石碑(左手前)
 画像クリックで息障院の現地解説板へ
 本堂までの参道の長さは南北方向に約100mの規模となっています。 然し、南側の堀跡はこの場所よりも40mほど北側に所在していますので、憶測としては元々は二重堀の構造であったということも考えられますが、現状ではその形跡を窺い知ることはできません。
画像クリックで猫たちの会話へ
■10■ネコのカップルに睨まれた..東側水路
 源範頼館跡と伝わる真言宗息障院東側の用水路脇にて日高市の旗塚以来ネコのカップルに遭遇。
 2匹のネコと当方の間には幅2mほどの用水路で隔絶された絶対的安全距離。
仲良く寄り添ってのんびりと日向ぼっこ..ではなく、小雨模様なので人に喩えると相合傘という風情にて。
  この会話の詳細は
  ⇒
2006/12/13のブログへ
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■11■北側の用水路部分
(かつての堀跡)@
 このかつての堀跡と推定される用水路でも西側の空堀跡と同様の緩いS字カーブが確認できますが、この意図するところがいまひとつ不明です。 拡大画像では境内側の土塁跡の地形が確認できます。
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■12■北西側の用水路と空堀の交差部分
 館跡とされる北西の角部分で、「画像2、3」と「画像11、13」の用水路(かつての北側の堀跡と推定)が交差しています。
 堀底の位置関係を見ると、明らかに「黄色い線」の用水路部分が、「青い線」の空堀部分の下に所在することが分かります。
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■13■北側の用水路部分
(かつての堀跡)A
 県道271号線に面したかつての堀跡は近世以降に用水路としてある程度改修されている模様です。 このためその大きさは目測によれば少なくとも幅約3間、深さ2m以上となります。然し県道側の部分については、その建設に伴い一定の路盤が構築されていますので、旧来の規模については現状の様子から窺い知ることは難しいようです。
■14■北側の用水路部分
(かつての堀跡)B
 画像「13」の個所から更に西側に進むと改修された墓地の辺りからは完全な用水路としての地形であることが明確になります。 また県道部分が路盤の造成により1メートル近く高くなっていることも分かります。
交通案内

・真言宗息障院の境内
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 横見郡御所村の項に「居所蹟 相伝う蒲冠者源範頼の城蹟なりと、岩殿観音縁起に範頼幼少のころ平治の乱に没落し、岩殿山に遷り彼地に成長す、兄頼朝志を得て、後範頼當所を領して此所に居と云...」と記され、吉見の地に居住したとの説を有力視しています。
■武蔵志
 「武蔵志稿」のなかで、源範頼が安楽寺観音堂の開基の一人として伝わるという記述が見えます。然し直接この館跡に関する記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「吉見町史上巻・下巻」(1978/吉見町) 

・2007/02/11 HPアップ
・2007/02/17 代官中川氏の記述等を追加

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