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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態9 探し易さ5 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯5 印象5 総合36
所在地
埼玉県比企郡吉見町南吉見字城山ほか
歴史、人物、伝承

県内有数の古城跡
 鎌倉公方を中心とした軍記物である「鎌倉大草子」(著者・成立年代不詳)によると、応永23年(1416)上杉禅秀の乱における鎌倉六本松の合戦で「松山城主上田上野介討死」と記されていることから松山城の歴史的な存在が推定されています。然し他に傍証するような史料がないことからその事実関係については必ずしも明確であるとはいえないようです。
 大永・天文年間以降には関係する資料が豊富となり、上杉氏と後北条氏の争奪戦を中心としてその歴史的な経緯が明らかとなります。武州松山城の攻防をめぐっては永禄、元亀年間には武田信玄、上杉謙信の名もたびたび登場しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻で前田利家・上杉景勝の軍勢により落城したとされています。
 天正18年の武州松山城をめぐる攻防については「関八州古戦録」「岩殿山正法寺縁由」「天正庚寅松山合戦図」(「寛永諸家系図伝」編纂時の資料とされる)などの史料が存在するもののその詳細については不明な部分が多いようです。

登場する主な歴史上の人物
■新田義貞
 「新編武蔵風土記稿」によると地元の伝承として「正慶3年(1334)に上野から鎌倉へ攻上る際に仮の要害を構えた」と記されていますが、あくまでも数多の義貞に関する逸話のひとつとして捉えるべきものかもしれません。
■上田氏一族
 永禄から天正年間にかけて松山城主として上田朝直(案独斉)上田憲定の名が頻繁に現れます。秀吉の関東侵攻の際には城主の上田憲定は小田原に篭城し、家臣の難波田因幡守、木呂子丹波守らが二千人とも二千五百人ともいわれる僅かな手勢で防戦したとされています。
■難波田弾正(法名善銀〜1546) 扇谷上杉氏重臣、松山城代
 難波田城主であった難波田弾正善銀は扇谷上杉氏の重臣として後北条氏の侵攻に対抗しますが、天文15年(1546)の河越城をめぐる攻防で討死を遂げます。松山城攻防の際の風流歌合戦の逸話を遺す。
■大田資正(1522-1591)
 天文・永禄年間に後北条氏と上杉氏の騒乱の間隙を付いて松山城を奪取したとされ、本城の岩附城を拠点として岩附太田氏の全盛期を迎えることとなります。
■松平氏(桜井氏)
 徳川氏関東入府後には松平内膳正家広が松山城主として1万石を領しますが、慶長6年(1601)その弟である左馬介忠頼の代に浜松城主として5万石に加増転封され以後武州松山城は廃城となりました。

凸発掘調査
 平成15年から翌年にかけて行われた惣郭と主郭の部分的な発掘調査によれば扇谷・山内両上杉氏の争いの時期のものが多く出土し、16世紀半ば以降の後北条氏段階での出土遺物が少ないとされています。

確認可能な遺構
主郭、二の郭、春日郭、三の郭、惣郭、兵糧倉、物見櫓台、土塁、空堀、竪堀、小口
地理的特徴

比高差に拘らず天然の要害
 最大比高差はおよそ40mに過ぎないものの吉見丘陵の南端部分の崖地に所在するとともに、かつては市野川の流れが吉見百穴の付近まで大きく蛇行しいてたこと、現在の「大沼」に至る北東部分の低地が湿地帯であったことなどを考慮すれば、現在のイメージよりも遥かにその要害としての機能がすぐれていたことが窺えます
 西側の最高地点に主郭を配し、直線上に二の郭、春日郭、三の郭が並びその周囲には多くの腰郭、竪堀が築造されています。また各主要な郭は東側の方が約2mほど標高が低く普請されており防御に対する巧みな工夫の跡を見ることができます。このほか「天正松山合戦図」からは、地形上では最大の弱点とされる北東部と東側の丘陵続きに「北郭」「外郭」「根古屋郭」などが普請されていたことが推定されています。
 武州松山城の絵図には「武蔵松山古城図」(浅野文庫/広島市立中央図書館所蔵)、「松山城蹟図」(新編武蔵風土記稿/国立公文書館内閣文庫所蔵)、「松山城図」(池田家文庫/岡山大学付属図書館所蔵)、「松山城跡之図」(川越松山遊覧図誌/国立公文書館内閣文庫所蔵)などが伝わっていますが、精密さにおいては「松山城蹟図」(新編武蔵風土記稿)が群を抜いているという印象があります。

文化財指定
1924年3月31日 埼玉県指定史跡
訪城年月日
2007/01/10、01/13、02/23、04/19
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/10 )
半世紀近く前の登城以来
 本来は後日改めて再訪する手筈にて。然るに西側の雲が殆どなかったことから日没までの時間的なゆとりも幾分あるのではと考え、予定変更して「武州松山城」の夕景撮影に赴いたという次第。 けれども最終的には何故か自然に足が搦め手の石段を登り始めて、ふと気がつけば本郭の石碑の前にて見事日没と相成り候。
 近くまで赴くことは今までに幾度も。 しかし、実際に麓部分まで訪れたのは実に四十数年ぶりのことにて。
以前訪れたというものの何分小学生当時の記憶ゆえ、「百穴」と「城跡」はもう少し離れていたような曖昧な印象を持っていたのでありました。 現実には両者の距離はまさしく指呼の間で、子どものときの記憶は殆ど当てにはならないことを痛感。
 それにしても南側から撮影するとかつての外郭跡でに所在する短大の建物が些か目障りにて。このため結果的には市野側の右岸の堤防から撮影した方が比較的よろしいようですが、如何せん日没間際のためそこはかとなく黄昏の侘しさが漂うのでありました。


( 2007/01/13 )
2つの最高記録を樹立
 忘れ物をしたために現地に到着したのは既に午前10時過ぎ。このため吉見百穴の公営駐車場をスタートしたのは既に午前10時20分。 この段階で、明確な遺構の存在する部分に限定して探索時間は最低でも正味3時間を想定。 他に周囲からの遠景などの撮影に要する時間を考慮。 夕刻から別の所用もあり午後2時過ぎには撤収を完了する計画。然し 結果的に笹郭周辺に時間をかけ過ぎたため、下山したのが午後13時45分で正味3時間25分(毎度のことながら当然昼食抜き)。 このあと更に市野川の下流側から遠景を撮影し、当時は天然の要害を形成していたと推定されている東側の湿地帯の名残とされる「大沼」を訪れ、のんびりと泳いでいたカモを驚かせているうちに時刻は何と午後14時10分。

 一方、撮影した画像は〆て147枚分と、過去最高を記録したため後々の整理が...天候は始めの内は無風の晴天、しかし正午過ぎころからは「晴れ時々曇り」となり時間の経過と共に「曇り時々晴れ」という空模様に変貌。 郭上では時折数メートルの北風が吹きつけ、この時点では命の次に大切な撮影メモが飛ばされそうな様相に。 さて当日は土曜日であることに加えて然もある程度著名な城跡ということもあり、在城中に合計5人に遭遇いたした次第でこれも過去最高記録を達成。 そうしたなか70歳前後と思しき熟年のご夫婦から、崖下に所在する「岩室観音堂」への道を尋ねられた。 こちらの位置は「二の郭」で向こうの方は「本郭」という位置関係。
このため、直線距離にして約25mほどの空堀越しの会話。 年配者にとっては「足元」の問題もあることから、来た道を戻り階段を下りて北側の崖下へ向かうように伝達。 時折風が強く吹き付けてくるため、些かの怒鳴り声にてようやく意思の疎通に成功。

 もちろん近道として下記の画像のような「惣曲輪」西側の崖下りという手もなくはないものの、枯葉と凍結気味の岩場を含む滑りやすいルートであるため見た目よりは著しく危険な様相。  とはいえ自分はといえば念のために昇り降りを試行...上部の些か危険な個所を過ぎれば下降もそれほどは困難ではないものの矢張り高齢者には余りお奨めはできないルートである模様かと。 仮に市野川沿いの難所と推定される崖下を無事に通抜けられたとして、この個所から狭い岩の間を這い蹲って攻め上るとすると、三方向から矢玉や石が降ってくるという仕掛けを想定し...思わず4百年以上前の戦没者の霊に合掌。

クリックで城内からの画像に拡大
岩室観音堂裏側の谷筋のルート
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( 2007/01/13 撮影 )

 「国の史跡指定」の申請がこの夏に予定される城跡との情報でありますが、各郭の上り下りは積もった枯葉と腐葉土と化した地面のために、通路部分とされている個所でもかつて整備された丸太の階段は腐食が進み足元は危うげに。  また逆に整備されすぎて「鉢形城」のような景観となるのも些か困りものに御座候。 かくて 3時間半の在城により中世城館の魅力を余すことなく十分堪能させていただきましたが、「郭」⇒「堀跡」⇒「竪堀」⇒「堀跡」⇒「郭」の反復行動により悲しいことに体力の衰え顕著な我が身としてはもう膝がガクガクに。

( 2007/02/23 )
見学の下見
 雨模様のなか団体見学の下見という些か仕事がらみ。 3度目の訪城ということもあり、凡その郭群の名称と配置くらいは頭の中に入っておりました。 このため予定していた東側の大手口方面から本郭を目指すルートは、小雨のなか傘を差しての登城にも拘らず些かも滑ることなく極めて歩きやすいコースであることを確認。

( 2007/04/19 )
寄せ手は総勢14名
 前日までの悪天候が予想以上にものの見事に回復してくれたことが正にうれしい誤算。 高齢者を中心とする集団のため、仮に傘をさした状態で武州松山城を無事に案内するこということになればまさに至難の業となることは必定。 下見のときと同様に予定通り東側の大手口からアプローチしたこともあり、本郭の登り道も含めて事故などもなく無事に往復。
 さて以前から疑問に思っていた本郭の「コンクリートの土台跡」については、昭和30年代の年代に不審火により焼失した神社跡であるとの情報を入手できたことも本日の収穫のひとつなのでありました。

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武州松山城主郭物見櫓跡の石碑
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( 2007/01/13 撮影 )
訪城アルバム
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2007/01/10 撮影 以下同様
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凸1 市野川西岸からの遠景
 左手に腰郭状の平坦地(旧「岩窟ホテル」の上部)が確認できます。手前の低地との比高差は約40mほどの規模を有します。
凸2 主郭南側から二の郭方面(以下同様)
 左手前部分が城跡の最高地点となる「物見櫓跡」で相互に張り出すという構造のため、この堀底道では四方から矢玉の雨が降り注ぐという仕掛けに。

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凸3 主郭と笹郭の間
 西側の搦め手口から幾つかの腰郭を制圧して攻め登ってきても主郭(左側)と笹郭(右側)の二方向から挟み撃ちされるという構造。
凸4 主郭東端の櫓台跡
 主郭の北東部分は一段高く築かれ、さらにその上に東側に細長く突出した部分が城跡の最高地点を形成する標高57.9mの物見櫓台跡。

2007/01/13 撮影 以下同様
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凸5 岩室観音堂
 四国八十八箇所を参詣したと同じご利益があるとの説明書きのある観音堂。 この奥から城内の惣郭へと進むことも可能ですが、些か足元が滑りやすいのが難点かと。「新編武蔵風土記稿」によれば、「本丸跡より、市野川の涯へ下る峡道あり、地勢巌窟の如し、その中腹は即岩室観音堂の所在なり」と記されています。
凸6 笹郭と西側の腰郭
 搦手口を防御する笹郭とこれを取り巻く腰郭が、画像の右手の山腹に穿たれた主郭へと続く細道を上方から監視するとともに側面から二段構えの攻撃を可能にしています。

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凸7 笹郭南側の竪堀群跡
 笹郭、太鼓郭の南側には大小の竪堀が所在し大規模なものは延長50m以上のに及ぶものもあり、そのまま麓を走る県道27号線の脇まで続いています。 笹郭経由でこの地点まで移動したものの、降り積もった枯葉のため足元はかなり危ういのでありました。
凸8 本郭と笹郭
 「3」の画像と全く同じ個所を東側から撮影してもので、左側が笹郭で右側が主郭の斜面となります。

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凸9 本郭と二の郭の土橋部分
 冬季とはいえ枯葉がうずたかく積もっているため始めは主郭から二の郭へのルートが分からず、とりあえず太鼓郭の脇から堀底道を進んでおりました。ふと何気なく前方を眺めると何と見事な土橋が存在しておりました。
凸10 本郭より二の郭方面
 「2」の画像とおおむね同様の撮影ポイントですが、こちらは郭の辺縁部ぎりぎりの位置から撮影したものです。「東松山市史」などによると、各郭は木橋により連絡していたという考え方も有力な模様です。

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凸11 兵糧倉跡
 近世の絵図などには「兵糧倉」との具体的な記載は見られません。然し「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」さらに「吉見町史」などによれば、何れもこの辺りで炭化した米が確認されたと記されています。なお「武蔵志」ではより具体的に「西の四番の地 兵糧曲輪と見えたり 焼米多」と記されており、このことからそのように呼称されているのかもしれません。
凸12 惣郭西側部分
 現存する郭の中では東西約80m、南北約40mという最大の規模を有する個所ですが、東側の半分ほどの区域は現在も農耕地として利用されています。

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凸13 二の郭より本郭物見櫓台跡
 二の郭側に食い込む形で突き出した主郭の物見櫓台部分で、この地形を取り巻くように二の郭が凹の形で張り出しています。 このためこの堀底を進むと常に側面攻撃や背面攻撃を受ける地形となっています。
凸14 二の郭と東側の土塁
 二の郭の東側に張り出した部分には春日郭側に向けて恰も櫓台のような高まりを見せる地形が所在しています。この二の郭もまた主郭と同様に春日郭などにより囲まれる形式となっています。

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凸15 春日郭
 主要な郭群の中で最も複雑な形状を見せる郭となっていますが「天正松山合戦図」には記されてはいません。「新編武蔵風土記稿」の挿絵によると「春日社」がこの画像の奥の方に所在していたことから、この名称で呼ばれるようになったものと考えられます。
凸16 三の郭と土塁跡
 三の郭西側には土塁状の高まりを確認することができます。なお画像の左側に一段高い春日郭の一部と比較すると、その地表の高さの違いを見て取ることができます。

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凸17 三の郭と春日郭
 この堀底道をそのまま進もうとすると両郭先端部の腰郭から側面攻撃の挟み撃ちに遭遇することとなります。画面の左側が三の郭、右側が春日郭の斜面に相当します
凸18 三の郭と春日郭の土橋
 左の「17」の個所から南へ50mほど進むと空堀を区切るようにしてこの土橋が形成されています。また単なる土橋ではなく、堀に水をたたえる役割のものであるという考え方もあるようです。

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凸19 大沼
 かつては湿地帯として天然の外堀の役割を果たしていたと推定されている地域の南東側には大規模な灌漑用水池が築造されておりました。この水量を以ってすれば丘陵続きとされる北東および東側の地形的な弱点は克服されるものと考えられます。
凸20 西側の搦め手方向からの遠景
 画像の右側の斜面が半ば切れ落ちたような格好となっていることが見て取れます。近世の絵図によれば市野川の流路は現在よりも城跡を取り巻くように流れていたことが描かれており、おそらくこの辺りには一面に深田が広がっていたものと思われます。

2007/02/23撮影 以下同様
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凸21 惣郭中央の陥没地形
 岩室観音堂の東側に当たる惣郭の中央には直径8mほどの大規模な井戸跡状の地形が健在ですが、戦時中の軍需工場建設による地下坑道掘削に伴う陥没跡ということのようです。
凸22 主郭北側の小口
 比高差4mほどの急な坂小口となっていますが、東側の腰郭からの側面攻撃を受けることを除くと、現在の地形からは小口そのものとしては余り大掛かりな工夫の形跡が見られない単純な構造に見えます。

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凸23 大手口北側土塁跡
 右側の「20」の土塁のラインよりも20mほど西側に所在する大手口の土塁の一部と考えられますが、後年の畑の耕作の拡大などにより画像の手前側が消失しているように思えます。
凸24 大手口
 東側の大手口には高さ2.5mほどの土塁が行く手を阻んでいます。また、大手口に到達するまでの約50mの間は画像左側の三の郭と北側直下の腰郭から側面攻撃を受け続けることとなります。

交通案内

・吉見百穴南隣の丘陵地帯
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 横見郡根小屋村の項に「松山古城 連山の端にあり、是を望めば孤山の如し、麓に市野川を帯び、南に深田あり、巌石直立す、古は頂上よに池水をたたえしが、今は埋みたり、天然の要害なり(以下省略)」と、その地勢の特徴にについて詳細な挿絵とともに記述されています。
■武蔵志
 「松山古城」としての由来のほかに周辺の地形の特徴を記した「松山古城之図」が描かれていると同時に、「兵糧曲輪」(西の曲輪)で「焼米」がよく見つかるという旨が記されています。
■「岩殿山正法寺縁由」
 天正18年の攻防戦について「当城の留守居難波田因幡守..比企藤四郎、そのほか軽率所民駈集の都合弐千人立篭る。前田利家は大手に向かい、上杉景勝は搦手より寄られ、其余諸将大道寺父子、城々の降兵等城の四辺を取り囲み、諸手一同に鬨の声を作り、大鉄砲を放懸ければ、塀も櫓も打崩れ、当城は既に危うく見えたりける時に、住観房は上田の家臣藤四郎方に居合いければ数多の士卒の討死させんも不憫なりと思い、僧の事なれば和睦の媒となり、上田の幕したは降参して城を敵に明け渡し」とその様子を伝えています。(「吉見町史」より引用)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「吉見町史上巻・下巻」(1978/吉見町)・吉見町の公式HP・「戦国期の松山城」(リーフレット/吉見町立埋蔵文化財センター)
「東松山市史資料編第1巻」(1981/東松山市) 

・2007/04/30 HPアップ

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