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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク  2007/01/08のブログ 二ノ宮山 伊古谷沼 岡部氏陣屋 伊古郭の神戸沼 山城沼砦
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字和泉字山崎
遺構まがいの地形
なし(古墳)
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

物見砦に相応しい丘陵地帯
 埼玉森林病院が所在する丘陵の東端部分で水田との比高差は最大でも20m弱という程度の規模。 しかし、北側の江南町へと抜ける往還とともに小川から熊谷方面に抜ける古道につながる往還も見下ろすことのできるという立地条件は「物見」の条件としてはなかなかのものと思われます。南北方向の斜面は思いのほか急な個所も確認され、地形状の特性は十分に評価できるものの、如何せん堀切などが所在すべき周辺には病院関係の建物を含む宅地化が進行しているため最早確認の手立てがありませんでした。

訪城年月日
2007/01/08
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/08)
両上杉氏等の争乱の舞台
 古河公方と管領上杉氏との抗争、長尾景春の乱、長享年中の両上杉氏による抗争、後北条氏の武蔵中北部進出による越後上杉氏などとの抗争など何れの時代にかかわりを持ったのかについてはは史料・伝承の類もなく全く知る由もありません。 その中で、後世の記録ではありますが、唯一「豆相記」や「甲陽軍鑑」に山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、東方に隣接する滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述が存在。 この記述を信頼するとすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性も無きにしも非ずといったところです。
 しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠くものであります。


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物見の砦に相応しく
( 2007/01/08 撮影 )
訪城アルバム
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■1■旧江南町から熊谷方面 画像クリックで拡大
 正面の山は約1.5キロメートル北側に所在する標高105.1メートルの高根山と2ヶ所のゴルフ場を含むリゾート施設。
■2■山崎古墳
 丘陵の先端部には直径8メートル高さ1m弱の古墳なども所在する歴史の古さを感じさせる佇まいであります。
 この地には2基の古墳が所在し、「町史」によれば直刀、鉄鏃が出土したということですが生憎確認できたのはこちらの1基だけでした。
■3■近世の墓石
 江戸時代中頃の明和および後期の寛政年間のもので、真ん中の無縫塔を含め何れも仏門関係の方の墓石のようです。
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■4■カントウタンポポ(たぶん)画像クリックで拡大
 丘陵上の南側に面した日当たり良好な畑の端にて「カントウタンポポ」が咲いているのに出くわしました。2月下旬ならいざ知らず、遅咲きというべきか早咲きというべきかその判断に迷う所です。
 「セイヨウタンポポ」と比べて繁殖力の弱い在来種の「カントウタンポポ」を間近に見たのは本当に久しぶりなのでありました。
 一番判り易い見分け方としては、「総苞外片」(花の基部にある緑色の部分の下の方)が反り返らないのが「カントウタンポポ」とされています。
交通案内

・二ノ宮山の北約1kmに所在する埼玉森林病院東側の丘陵地帯
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
 

・2007/03/29 HPアップ

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