アクセスありがとうございます。  専門的な文献・史料を読み取る能力がなく、読了の雑感といったあたりにございます。  




 15冊

・「荒井猫田遺跡」(郡山市遺跡ガイドブック) 郡山市発行 2009年刊行 (2016/11)

 鎌倉期の「南部の館跡A」と室町期から戦国時代にかけての「北部の館跡B」を含む中世集落と街道に関する17次にわたる発掘調査の成果を分かりやすく一般向けにまとめて刊行された冊子である。
 鎌倉期の館跡Aは鎌倉北条氏の滅亡による篠川の北条氏拠点攻略にともない周辺の集落とともに衰亡し、その後北部の館Bへと人口の中心も移動したが、戦国時代のある時期以降に生活の痕跡を失って近世以降には耕作地化されていたという。
 これらの2か所の所在地については、おおむねビッグパレット福島とその周辺に所在していた模様であり、館跡Aについては西側の一部がビックパレットの南東部付近で残りの大半はJRの線路下にあり、館跡B(相生集でいう名倉館に比定)の方はスズキのディーラー付近に相当している模様である。また発掘調査の成果を記した説明板のレリーフがビックパレット北側道路付近に設置されているという。

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・「清水台遺跡と古代の郡山」(郡山市遺跡ガイドブック) 郡山市発行 2008年刊行 (2016/11)

 古代安積郡は中世の安達郡と田村郡をあわせた広大な領域を有し、JR郡山駅西側の清水台一帯には古代の郡役所である郡衙が所在していた。
 旧郡山町域は比較的市街地化されるのが早く、こうした遺跡は長らく地中に眠り続けていたが、発掘調査の成果としてこれらのことを一般向けに分かりやすくまとめた冊子である。
 「虎丸長者」や「うねめ」などの伝承ものこされる当遺跡は稲荷館(陣屋、郡山城の有力な比定地のひとつ)とは国道4号線を挟んで斜め向かいに所在しており、地理的にもこの地域の枢要性を裏付ける意味を持つものであろう。

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・「本庄市史 通史編U」 本庄市発行 1989年刊行 (2005/06)

 関東管領山内上杉氏、後北条氏、上杉謙信、後北条氏、関東管領滝川一益、後北条氏とその帰属を幾度も変えることにより一族の安泰を模索していた児玉党嫡流の系譜とされる本庄氏に関する記述が詳しく掲載されています。また、本庄氏の居城である本庄城についても十数ページを割いての記述があり、同時期の鈴木氏、吉田氏、久々宇氏、森氏などの在地領主の記述もあります。
 「通史編T」と同様に巻末に索引を付し、内容を反映した目次立ての工夫がなされていればもっと読みやすいのですが。

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・「本庄市史 通史編T」 本庄市発行 1986年刊行 (2005/06)

 児玉党本宗家の地元ということもあり武蔵七党児玉党の系譜、歴史、一族についての記述が詳しく掲載されています。ただ児玉党の系譜について各種の系図を引用して比較検討する個所が多いため、「市史」において推定している系譜がどの系図であるかが分かりにくいような気がします。
 また、児玉党の一族の共通の守護神である金鑚神社の勧請と関連して平安末期から鎌倉期の武士の館についても現地の図入りで示されているので、刊行年から20年の歳月を経ているものの訪城には大いに役立ちました。
 古河公方と関東管領上杉氏の関東における争乱の主要舞台であった「五十子(陣)城」の調査と考察に関する記述も詳しく中世史の歴史愛好者にとっては興味のあるところ。
 職業的な経験から、ソフトカバーの普及版などのものは別として、一般にはどちらかといえば郷土史、地方史を最初から通読するケースは少なく、所謂拾い読みの形が多いと考えられます。そうしたことからも巻末に索引を付し、内容を反映した目次立ての工夫がなされていればもっと読みやすいのですが。

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「玉川村史 通史編」 埼玉県編集発行 1991年刊行 (2004/11)

 小倉城と城主遠山氏についての記述が、詳細に語られている。現状では小倉城について理解するに当たり最も一般的な資料である。玉川郷、上田氏、在地領主などの記述もあり興味深い。現在継続中の主郭での発掘の成果の公表が待たれる所である。なお、別刷り付録および本文綴じ込みの形で戦前に記録された当時の貴重な縄張り図もあり70年前の様子を伝えている。

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・「新編埼玉県史 通史編2中世」 埼玉県編集発行 1988年刊行 (2004/06)

 鎌倉幕府の成立から後北条氏による関東支配の終焉までの中世武蔵国に関する政治支配体制、社会生活、産業、宗教、文化等の幅広い分に及ぶ地方史の通史。本編にも資料・古文書の一部は掲載されていて分かりやすい編集となっている。また本編とは別に抜粋された吾妻鏡、太平記、北条記(東乱記)などの記録や年代順に編纂された感状、印判状などの書状の類を収録した4巻からなる資料集があり興味の尽きることがない。鉢形城の絵図も付録でついてます。ただし私が見た本では付録の小田原衆所領役帳(後北条氏の軍役帳)が欠損不明となっていたのが残念。購入ではなく公共施設の蔵書を読みました、せめて通史だけでも手元におきたいと思うのですが。県立文書館に問い合わせたところ古い出版物なので販売は既に終了しているとのことでした。

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・戦い・祈り・人々の暮らし〜(嵐山博物誌第5巻「嵐山の中世」) 嵐山町編集発行 1997年刊行 2800円(2004/09)

 鎌倉街道上道が往還する嵐山町には菅谷館跡、杉山城、越畑城等の城館が残されている。これらの写真解説、復元イラストなども見ていて楽しいが、板碑、五輪塔のほか中世の人々の暮らしぶり、ものつくりの技術などが紹介され、一般向けにビジュアルに見開きで分かりやすく解説されている。嵐山町町制施行30周年記念出版のためオールカラーA4版2800円はかなり格安です。以前から是非手に入れたいと思っていたので、菅谷の埼玉県立歴史資料館に立ち寄った際に棚に並んでいるのを見つけたときは、給料前のときにもかかわらず即購入決定........財布の中の残金が1000円を切ってしまった。

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「小川町の歴史」(資料編2 古代・中世1) 小川町編集発行 1999年刊行 3000円(2004/09)

 地方史の資料編ですが、資料の原文に読み下し文がつき、さらに解説も付されており大変丁寧な編集となっています。中世古文書のテキスト代わりにもなりそうです。元号と西暦、干支の読替えのカードもついており便利です。なお、通史編の上巻は2800円とこれもまた破格の値段ですが、中世史の記述は約240ページと結構ボリュームがあるのですが、中世城郭自体についての記述は僅か6ページと少ないのは少し残念です。

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「坂戸風土記」(坂戸市史調査資料第1号) 坂戸市教育委員会編集発行 1978年刊行 (2004/09)

 地方史の資料編ですが、「新編武蔵風土記稿」「武蔵国郡村誌」「入間郡誌」の坂戸市に関する記述が網羅されており、梅沢氏によれば30ヶ所以上、坂戸市史によれば二十数か所にのぼる城館の存在を明らかにする資料として有用である。

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「中世の坂戸」 坂戸市教育委員会編集発行 1996年刊行 (2004/09)

 坂戸市に勢力のあった、「小代氏」「村山党勝氏」「浅羽氏」などの活躍を中心にして74ページのビジュアルな小冊子にまとめられている。「坂戸市史」自体を通読しなくても、坂戸市周辺の中世の歴史を大掴みに理解するには格好のテキストである。

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「小川町の文化財」 小川町教育委員会編集発行 2001年刊行 (2004/09)

 埼玉県比企郡小川町の文化財についてまとめた60ページのビジュアルな小冊子であるが、小川町という盆地にある独立性の強い地域文化圏を理解する上で非常に便利なテキスト。もちろん中世城跡の記述もある。

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・「滑川村史」 滑川村編集発行  1984年刊行(2004/10)

 滑川町に所在する中世城郭の解説が掲載されている。収録城跡は、羽尾城、山田城、谷城、月輪(大堀館跡)、三門館、水房館跡について詳しい解説が掲載されている。

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「寄居町史」 寄居町編集発行  1986年刊行(2004/08)

  長尾影春から始まる鉢形城の歴史的な経緯や後北条氏による領国支配、特に北条氏邦による鉢形城の支配などの様子が分かりやすく資料に基づいて記述されている。

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「坂戸市史」 坂戸市編集発行  1992年刊行(2004/09)

  現在坂戸市内に残されている中世城郭関係の解説がある。記載されている城跡は田波目城、塚越の住吉中学校西脇館、塚越西光寺館、大穴城をはじめ20ヶ所を超えるが確実に遺構として明確に視認できるものはこの4箇所を始めとして数箇所程度となってしまったのは大変残念である。消滅した浅羽城については遺構が残されていた当時の写真も含めてかなり詳細な記述がある

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「坂戸市史 中世資料編U」 坂戸市編集発行  1980年刊行(2004/11)

  現在坂戸市内に残されている中世の板碑の解説がある。それ自体が大きな研究テーマであるとともに、坂戸周辺の地方史のみならず中世の武蔵地域の歴史の解明にとって非常に重要な手がかりを与えるものである。市内には1992年現在で1022基もの板碑が確認されているということで、そのことからも中世武士団、在地領主の活動が大変活発な地であったことが窺える。

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