アクセスありがとうございます。 専門的な文献・史料が読めませんので単なる歴史関係書籍の雑感となっております。
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 1 刀と首取り  2 雑兵たちの戦場  3 飢餓と戦争の戦国を行く  4 信長の戦争
 5 真説・川中島合戦  6 目からウロコの戦国時代  7 鉄砲隊と騎馬軍団  8 織田信長合戦全録
 9 信長の親衛隊 10 吉良上野介を弁護する 11 戦国15大合戦の真相 12 謎解き本能寺の変
13 明智光秀−つくられた謀反人 14 石田三成−智の参謀の実像 15 騎兵と歩兵の中世史 16 戦国の地域国家
17 なぜ日本は敗れたのか 18 小田原合戦 19 地形で読み解く合戦史 20 戦国武将あの人のその後
21 扇谷上杉氏と太田道灌 22 戦国期東国の大名と国衆 23 後北条領国の地域的展開 24 戦国時代の終焉
25 武蔵の武士団 26 後北条氏と領国経営 27 北条早雲と家臣団 28 平家物語あらすじで読む源平の戦い
29 源平合戦の虚像を剥ぐ 30 弓矢と刀剣 31 保元・平治の乱を読み直す 32 いくさ
33 南朝全史 34 足利直冬 35 戦国大名の日常生活 36 後北条氏
37 絵解き戦国武士の合戦心得 38 武田信玄像の謎 39 戦国大名の危機管理 40 刀狩り
41 真説関ヶ原合戦 42 江戸の旗本事典 43 大名の日本地図 44 徳川将軍の意外な裏事情
45 徳川将軍家の15代のカルテ 46 合戦の日本地図 47 戦国北条一族 48 実録・戦国時代の民衆たち
49 信州史ノート戦国大名と信濃の合戦 50 土一揆の時代 51 日本軍事史 52 鉄砲と戦国合戦
53 軍師 山本勘助 54 山本勘助 55 戦国時代の大誤解 56 戦国10大合戦の謎
57 偽書武功夜話の研究 58 日本の一級史料 59 バカ殿さまこそ名君主 60 十七歳の硫黄島
61 硫黄島 62 信玄の戦争 63 古戦場 敗者の道を歩く 64 謎解き日本合戦史
65 鉄砲と日本人 66 戦国鉄砲傭兵隊 67 信長は謀略で殺されたのか 68 戦史ドキュメント 桶狭間の戦い
69 武田信玄 70 上杉謙信 71 信長と消えた家臣たち 72 今川義元
73 一向一揆と石山合戦 74 真田幸村 伝説になった英雄の実像 75 真田幸村のすべて 76 関ヶ原合戦と大坂の陣
77 絵解き 雑兵足軽たちの戦い 78 負け組の戦国史 79 動乱のなかの白河結城氏 80 史伝 伊達政宗
81 会津 芦名四代 82 北武蔵西上州の秘史 83 室町期南奥の政治秩序と抗争 84 島津義弘の賭け
85 名参謀 直江兼続 86 直江兼続のすべて 87 戦国の村の日々 88 人事の日本史
89 合戦の文化史 90 兵と農の分離 91 手にとるように日本史が分かる本 92 戦国時代用語辞典
93 武田信玄合戦録 94 新説 桶狭間合戦 95 考証 織田信長事典  96 桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった
97 戦国の合戦 98 長篠の戦い/二木謙一 99 長篠の戦い/藤本正行 100 武田勝頼のすべて
101 戦国史の怪しい人たち 102 雑兵物語 103 戦国時代は裏から読むと面白い! 104 戦国の軍事史への挑戦
105 鳥羽伏見の戦い 106 戦国合戦の舞台裏 107 箕輪城と長野氏/近藤義雄 108 図説太田道灌/黒田基樹
109 本能寺の変/藤本正行 110 戦国「常識・非常識」大論争! 111 百姓から見た戦国大名/黒田基樹 112 中世を道から読む/齋藤慎一
113 義に生きたもう一人の武将石田三成 114 信長の天下所司代/谷口克広 115 信長が見た戦国京都/河内将芳 116 応仁・文明の乱/石田晴男
117 山名宗全と細川勝元 118 戦国武将 敗者の子孫たち 119 蝦夷と東北戦争 120 国司の館
121 戦国武士の履歴書/竹井英文 122 関ヶ原合戦は「作り話」だったのか/渡邊大門 123 真実の戦国時代/渡邊大門編著 124 


123冊

( 2019/11/20 現在 )







  123 真実の戦国時代
      渡邊 大門 編著/柏書房/2015年刊行/2000円 (2019/11)  

 「戦国大名論」「戦国大名の諸政策」「戦国大名と戦争」「天皇・将軍と戦国大名」「戦国期の宗教と文化」の5部から構成された一般向けの論考集であり、合計19名からなる研究者の小論からなる。
 各テーマについては夫々の分野における研究史概説のような傾向も散見されることから、かつての定説、画期的な提言(惣無事令など)の今現在の評価など興味深いテーマも少なくない。また一次史料と二次史料、軍記などについて要点を押さえた解説が記された「史料とは何か」「戦国期の武士の官途」などの項などは、一般読者(ある程度日本史に興味と関心を有する)にとっては具体的事例に基づく整理が示され理解がすすむものと思われる。その一方で、「戦国時代と合戦」「戦国時代の城郭」などの部分については、紙幅の関係からだろうか些か食い足りないという傾向が無くもないように思われたのだか。
 総じて参考文献の掲載数も豊富であり、関連する分野についてもう少し更に調べてみようという向きには役立ちそうに思われる。
 なお編者である渡邊大門氏による論考は巻末の「戦国時代の女性と結婚」のみである。

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  122 関ヶ原合戦は「作り話」だったのか−一次史料が語る天下分け目の真実
      渡邊 大門 著/PHP研究所/2019年刊行/900円 (2019/11)  

 後世に編纂/記述された二次史料についてはあくまでも参考に留め、同時代に記された一次史料により従来の司馬遼太郎などにより形成されていた関ヶ原合戦のイメージを払拭するという趣旨で記述されている。些か違和感のある表題でもあるが、もちろんこれは「関ヶ原合戦」自体を作り話であると指摘している訳ではない。
 直江兼続の「直江状」の真贋論争、合戦の帰趨となったとされる小早川秀秋による裏切りのタイミングとその背景、毛利輝元の果たした役割、宇喜多勢の家臣団分裂に伴う脆弱性、五大老・五奉行の役割などについて白峰氏、光成氏などに見られる最近における研究動向を分かりやすく解説しており読み飽きるということはなかった。
 歴史好きな一般の読者を意識した新書という出版形態でもあり、「関ヶ原合戦入門」ともいうべき内容を伴う好著であろう。
 もっとも筆者独自の見解を披歴するというよりも、寧ろ関ヶ原合戦に関する研究史といった傾向を強く感じるのだが、これについてはこの著者の個性によるものなのかも知れないとも思う。

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  121 「戦国武士の履歴書−戦功覚書の世界」戎光祥選書ソレイユ006
      竹井 英文 著/戎光祥出版/2019年刊行/1800円 (2019/11)  

 上野國里見郷出身の里見吉政が晩年である寛永5年(1628)に記したとされる「里見吉政戦功覚書」を軸に据え、同人の仕官先、活動など足跡をたどり、その生涯について明らかにした労作である。所謂二次的な性格を有する史料でもあることからその覚え書き自体の記述が全て客観的な史実/事実であるかどうかという疑問も否定できない側面もあるが、そこに記されている歴史的な背景については概ね史実に近いものがあるという。
 同人は一般には無名ではあるが、武田、上杉、北条、織田、徳川などの大勢力に翻弄され続けた戦国時代末期の上野にあって、最終的には徳川氏重臣の井伊家に仕え石高1000石という上級家臣として生き残ることに成功した稀有な武士の一人である。
 なお、里見吉政は天正10年の武田氏滅亡に際して上野の名山城(当時は古城か)において兵を挙げ、旧武田領国の混乱に乗じて安中領へと侵攻した国衆小幡信定に対抗し安中氏の寄騎として活躍した模様である。
 著者は東北学院大学準教授/1982生れの若手歴史学者であり、「杉山城問題」についても文献史学の領域において活発な提起を行っており、「戦国の城の一生」という著作もある。

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  120 「国司の館」
      田中 広明 著/学生社/2006年刊行/2200円 (2016/5)  

 官位を表したとされる装身具である腰帯具(革帯の飾り)、国司の日常生活の場としての居館、古代牧の姿を武蔵長堀遺跡の発掘などの考古学的調査研究をベースにして、古代律令制黎明期から9世紀半葉にかけての東国における古代地方官人の姿を描き出すことにより武蔵、下総、常陸などの古代東国の実像に迫り平将門の乱の時代背景へと迫ろうとする意欲作。
 8世紀を中心に盛んに行われた「征夷」が当時の東国社会に大きな疲弊をもたらし、荘園整理令がもともと無理のあった荒地や休耕田などをターゲットとした急激な勅旨田開発の足元をすくい荘園経営を停滞させ古代律令制の崩壊を決定づけることを示唆している。
 「日本三大実録」「日本記略」を基礎資料とした、9世紀中葉から11世紀中葉にかけての「国司襲撃事件」一覧が印象深い。
 考古学分野の研究者によく見られる慎重な言い回しが多用されていることもあるのかもしれないが、専門用語の解説も不足していることから「入門的なテキスト」としては分かりにくい筋立てとなっている。
 著者は埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員である。

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  119 「蝦夷と東北戦争」(戦争の日本史3)
      鈴木 拓也 著/吉川弘文館/2008年刊行/2500円 (2016/5)  

 奈良時代から平安時代初期にかけての当時の律令国家が行った「征夷」の政治的背景を論じた著作であり、「 戦争の日本史」のシリーズ第3巻として刊行されたものである。
 「征夷」については、当時の律令国家が中国の制度を模倣することから始まり、「中華思想」に影響を受け東夷、北荻に相当する征服されるべき未開の周辺国家として捉えられ、強硬な軍事的侵攻の正当性の論拠とされたことを明示している。
 当時において建設された城柵の一覧、征夷軍編成の一覧、軍団の編成などについても述されており興味深いものがある。
 陸奥の地はこの一方的な侵略である「征夷」に始まり、前9年・後3年の乱、平泉への侵攻、秀吉による奥州仕置き、時代はくだり戊辰戦争の悲劇、先の大戦での東北出身者の夥しい人的被害、そして高度経済成長のしわ寄せを経て福島での原発事故へとつながる。
 こうした国内における差別構造が、すでに古代において醸成されていたとも思える皮肉な歴史の流れに心を痛めざるを得ない。
 多賀城などを始めとした古代城柵などを介してある程度古代史に親しんでいる読者にとってはわかりやすい内容かもしれないが、「続日本紀」等の引用文献に関する基礎的な解説が少ないこと、少なからず時代が前後するような個所も見受けられ一般の読者にとっては親切さを欠く傾向が窺える。
 ただしこの内容でこれだけの分量の本となれば、やはり巻末に登場人物、事件、事項などに関する一定程度の索引が欲しいと思うのは欲張りすぎであろうか。

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  118 「戦国武将 敗者の子孫たち」(歴史新書y)
      高澤 等 著/洋泉社/2012年刊行/890円 (2015/12)  

 著名な武田勝頼、真田信繁(別名真田幸村)、明智光秀、石田三成、今川氏真のほか豊臣秀勝、松平信康らの系譜について系図(血脈)などを中心にしてその末裔の消息について記している。
 男系の系譜は敗者としての所以から断絶しているものがほとんどであるが、女系の方では徳川幕府あるいは朝廷につながる子孫を残しているという「意外な事実」を明らかにして、末裔の墓石などの記述もあり歴史分野の読み物としては面白く読み進めることができる。
 著者は家紋研究および家系研究における在野の専門家であることから、これらの関連する膨大な資料を駆使して新たな視点を提示していることは頷けるものであるが、一般に歴史史料としての妥当性に問題を抱える寛政重修諸家譜を参考文献とするなど、史料批判に耐えうるものであるかどうかについては疑問の余地があるのかもしれない。
 また巻末参考文献一覧と引用史料が必ずしも一致しないなどの不備も見受けられる。

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  117 「山名宗全と細川勝元」(読みなおす日本史)
      小川 信 著/吉川弘文館/2013年刊行/2200円 (2015/03)  

  表題のとおりり15世紀中葉に発生した有名な応仁の乱における中心人物となった山名宗全(持豊)とその娘婿である細川勝元が相闘うこととなった経緯について詳述した一般向けの書籍である。山名家および細川家の系譜を辿り、その分国支配や守護代並びに有力国人衆の動向、合力した畠山氏、斯波氏、大内氏などについても詳しく論じ、その後における両家嫡流のの衰亡の行方などについても分かりやすく記されている。
 本書が記された当時における時代背景を考慮すると、社会主義的史観優勢時においていかにに本書がその当時における少数派でもあった保守的歴史観を代表する性質のものであったかが想起され興味深いものがある。
 本書は約半世紀前の1966年に人物往来社から刊行されている。その後1994年に新人物往来社から刊行された新装版を底本として再刊されたものであり、再刊にあたり誤記誤植等が訂正されているという。

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  116 「応仁・文明の乱/」(戦争の日本史9)
      石田 晴男 著/吉川弘文館/2008年刊行/2500円 (2015/02)  

  応仁・文明の乱を中心にして、足利義教、足利義政の治世を東国における鎌倉公方(後の古河公方)の動向も踏まえつつ当時の政治情勢とその前後する争乱について、同時代に記された公家・大寺院の僧侶らの古記録を元にして多面的に記された好著である。
 また、主要な守護大名である山名氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、大内氏などの家系略図をふくむ政治動向なども嘉吉の乱の中心である赤松氏に関する論究不足を除けば概ね網羅的に記述されている。
 しかし、一部に人名の誤植と当時の古記録の引用に拘泥するという手法に拘泥する余り、より平易な表現をするという姿勢を書いている個所が散見される点が残念である。
 争乱を軸にした政治史という観点からの制約からか、当時における守護領国制の実像(脆弱性)、守護代と御内人ともよばれる守護直臣、在地の国人勢力間での土地支配の実態、大きく衰亡していく公家・大寺院などの領家の所有する荘園支配の弱体化などの視点については必ずしも十分とはいえないように思われる。
 巻末に付された同時代の古記録をふくむ多くの参考文献と当時の略年表の存在は実にありがたいものがあるが、さらに人名索引、事項索引などが付されれば理解を深める観点からは申し分ない。

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  115 「信長が見た戦国京都−城塞に囲まれた異貌の都」
      河内 将芳 著/洋泉社/2010年刊行/860円 (2011/05)  

  洛中洛外図などの絵画史料、京町衆(惣、町組など)の自治の再評価、信長と日蓮宗の関係などの諸点から戦国期京都の実態を解明した労作である。戦国末期の京の町衆、町筋についての基礎的理解に役立ち、収録されている信長の京都宿所一覧(二条御新造、本能寺などの普請時期を含む)も理解されやすい。
 惜しむらくはは町衆の財力を支えたと推定される商業生産活動などの実態、その多くが法華宗の檀徒として帰依した背景、理由などに関して論及不足も見うけられるが、新書としての体裁の限界かも知れない。

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  114 「信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝」
      谷口 克広 著/中央公論新社/2009年刊行/760円 (2011/05)  

  後の京都所司代の先駆けとなった村井長門守貞勝の事績について、「信長公記」を始めとして「言継卿記」「言経卿記」「兼見卿記」など当時の公家日記等から復元した労作である。邸普請では、足利義昭邸、二条御新造、本能寺などの建設、改修等を指揮した旨が明らかにされている。
 本題からは逸れるが、貞勝自身の邸については本能寺の門外にあったとする「惟任謀反記」の記述を引用しているのみである。しかし仮に本能寺近くに貞勝の邸が所在したとすれば、信忠が在泊していた妙覚寺まで注進できるはずもなく大きな謎が残る。また吏僚に対する知行が無いとすれば、それに代わる処遇内容が気になるところだが、これに関しては特段の示唆は見えない点も気がかりである。

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  113 「義に生きたもう一人の武将 石田三成」
      三池 純正 著/講談社/2009年刊行/1300円 (2011/04)  

  石田三成の肖像画の信憑性にたいする疑問に始まり、抹消された石田三成一族の屋敷跡の謎が意味するもの、三成が関与したとされる蒲生氏郷急死、関白秀次失脚、千利休切腹などについてはこれを冤罪として否定。状来の石田三成像の打破に対する著者の意気込みが窺える個人伝記ではあるが、年貢割合の裁定に関する個所では三成の善政として過大評価のきらいも見受けられる。。
 その反面において、一般書としての限界はあるものと思われるが、史料引用に際しての著者自身の史料に対する解説・評価に関する記述が少ない点が気にかかる。
 また本書の大半を占める関ヶ原合戦の章では、藤井尚夫氏による研究・論考の引用が多用され著者独自の視点を欠く部分が散見されなくもない。

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  112 「中世を道から読む」(講談社現代新書新書)
      齋藤 慎一 著/講談社/2010年刊行/840円 (2011/03)  

  中世後期の古文書に見られる「路地不自由」の文言から、中世社会における街道の実態とその交通事情を解きあかした好著。「路地不自由」の含意は物理的な遠さだけではなく、河川の渡河事情やその時の政治情勢に依拠するところが多く、また当時においては橋桁による架橋よりも船橋の設営や浅瀬、渡船による渡河が多かったことを実証している。また峠道の機能とその管理実態にも推論をめぐらし、中世後期における鎌倉街道の衰退と近世の街道へと繋がるとされる後北条氏による新しい街道の整備を明示している。
 新書形態の制約から、船橋の構造図や舟運時のメカニズム、川幅の限度等に対する言及については不足の感も残る一方で、著者のフィールドワークの成果である愛宕山城、荒砥城の詳細な縄張図も収録されている。

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  111 「百姓から見た戦国大名」(ちくま新書)
      黒田 基樹 著/筑摩書房/2006年刊行/7000円 (2011/03)  

  藤木久志氏らの指摘による戦国期における慢性的な飢饉が横行していたとの説を受け、これに伴う戦国期前の村落相互の争いの激化を調停する存在として領域の一円支配を束ねる戦国大名・国衆が登場してきたとする見解を提示され、従来の天下統一史観や領国間の権力闘争という側面のみに捉われることのない学説の背景と経緯についても平易な文体で紹介をされている。
 無論、「村」の有する独立性(警察権、立法権、徴税権)に関する論考等に関しては既に藤木氏らにより明らかにされてきた部分が大きいものと思われるが、村落の支配者(領主)である家中(大名の家臣団)が形成されていく理由のひとつとして、大名権力による家中(村落)間の争論・武力行使裁定機能に着目している点は興味深い。
 このような視点から戦国大名・国衆を定義づけるとすれば、「個々の村を基盤に糾合し成立した権力で、領国を形成し、家中と称される家臣団を有し一元的な成敗権を付託されていた」存在であったともしている。
 また戦国大名と国衆の具体的な相違、村落共同体内部での階層、家中と称された家臣団構成などについての論及の不足は新書版としての体裁、テーマ等との関係上からやむを得ないものと思われる。

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  110 「戦国常識・非常識大論争!」(歴史新書y)
      鈴木 眞哉 著/洋泉社/2011年刊行/860円 (2011/02)  

  頑迷な歴史学者達が主張する「定説」を真っ向から批判した「戦国軍事史への挑戦」の続編ともいうべき著作であるとともに、長年の同氏の戦国史における諸見解を集大成したものともいえる。
 武功夜話(「前野家文書」とも)偽書論争に始まり、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」などのノンフィクション分野の著作に関する疑義、実在しなかった武田騎馬隊、織田信長の鉄甲船製造と鉄砲の活用、本能寺の変における黒幕説の否定、信長・秀吉軍の兵農分離の実情などのテーマについて質疑応答の形式を介し傾聴すべき主張を論述している。
 格別目新しい内容が掲載されている訳ではないが、著者が「まえがき」において記しているように、それだけ長年流布されてきた俗説・定説が看過できない存在であることは論を待たない様である。

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  109 「本能寺の変−信長の油断・光秀の殺意−」(歴史新書y)
      藤本正行 著/洋泉社/2010年刊行/860円 (2011/02)  

  著名な歴史的事件である本能寺の変に関して流布している様々の「陰謀説、黒幕説」に対して否定的な見解を示し、あくまでも明智光秀本人による単独犯行であると結論付けたもので、「信長は謀略で殺されたのか」の続編ともいうべき著書である。
 取分け藤田達夫氏が提起する足利義昭黒幕説(「証言本能寺の変」「謎とき本能寺の変」など)に対しては多くの頁をさき、その論拠の軸となる上杉景勝家臣河角越中守忠清より直江兼続に宛てられた古文書解釈については明らかな誤読であるとの異論を提起されている。
 また、光秀の後裔の方が「本能寺の変 427年目の真実」で論じた信長による徳川家康誅殺に乗じた犯行との新説に対しても、急激に膨張した織田領国内部での軍事情勢と機密保持の観点などから状況証拠とと憶測に基づくものに過ぎないと論じている。
 「信長公記」に記された「是非に及ばず」については、同書の用例などを引用してある種の「諦観」とは捉えず「生き延びるため戦うのみ」との決意であるとの解釈を提起し、著者の鋭い指摘が随所に散見されるが、あらためて事件の真相究明に関しては信頼すべき一次史料等の絶対的な不足を感じられずにはいられない。

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  108 「図説太田道灌」
      黒田基樹 著/戎光祥出版/2010年刊行/1800円 (2011/01)  

  関東は古河公方と足利管領が対抗した享徳の乱、山内上杉氏とお扇谷上杉氏の長享年間の抗争、又その間隙をついて関東西部に叛乱を起こした長尾景春がつづきいち早く戦国時代の幕を開けることとなった。そのさなか道灌は駿河今川家の家督相続を支援するとともに、山内上杉氏家宰職として長尾景春の乱を平定し、上杉家一族による関東の安定支配すすめるべく武蔵、相模、上野、下総の戦場を駆け巡り勇名をはせたが、讒訴のため主家である山内定正によって誅殺された。
 上記のような関東戦国史前期の概要を記すとともに江戸城、岩附城、川越城築城の経緯、各地に伝わる道灌伝承・逸話などについても取り上げについても論究されており、さながら太田道灌小事典といった趣もあります
著名な長文にわたる「太田道灌状」は原文(読み下し文)と対訳付。
巻末には道灌ゆかりの遺跡一覧案内も付され読者の利便性を尊重しています。

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  107 「箕輪城と長野氏」(中世武士選書)
      近藤 義雄 著/戎光祥出版/2011年刊行/2300円 (2011/01)  

  昭和60年に上毛新聞社より刊行された同名の著書を一部改定したもので、戦国期の長野氏の事績について記された関する数少ない文献の一つです。
 長野氏の生い立ちに始まり、上州一揆の盟主としての勢力拡大期、これにともなう西上野の豪族の動静、長野業政の家臣団とその構成、箕輪城を中心とした主な城郭の配置とネットワーク、業政死去以降の武田信玄の進攻に伴う長野氏滅亡に至るまでの経緯、箕輪城の築城とその変遷などについて、限られた残存史料をもとにして分かりやすく論述されています。西上野の戦国史の概要を知る上でも欠かすことのできない好著です。

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  106 「戦国合戦の舞台裏」−兵士たちの出陣から退陣まで− (歴史新書y)
      盛本 昌広 著/洋泉社/2010年刊行/860円 (2010/09)  

  「軍需物資から見た戦国合戦」につづくもので、「松平家忠日記」「三河物語」「信長公記」などの史料に基づき、戦国合戦の陣触れ、兵役、行軍、渡河、陣取り、陣立て、陣中法度、陣中見舞い、退陣にいたるまでのその行動や規範・慣習など多岐にわたり具体的な実例をあげ著述された好著である。
 著者には別途「松平家忠日記」に関する貴重な著作もあり、併読することが望ましいものと考えられる。

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  105 「鳥羽伏見の戦い」−幕府の命運を決した四日間− (中公新書)
      野口 武彦 著/中央公論新社/2010年刊行/860円 (2010/07)  

  大政奉還により公武合体派を巻きこみ長州戦争敗北による退勢の巻き返しを図った徳川幕府(徳川慶喜)は、薩摩藩の陽動作戦による挑発行為にのせられて薩摩藩邸焼討ちを決行する。慶喜は維新暫定政府の議定に加わるべく大坂より軍勢を整え、薩長等が堅い守りを固める京都への再上京を図る。幕府側は会津、桑名等の譜代藩と幕府歩兵隊等を供先として京都に向かわせるが、僅か4日間の戦闘において薩長側の迎撃に有効な反撃もできないままに大坂城へと退却し滅亡の一途を辿る。
 通説では刀槍を中心とした旧式の装備しか持たない幕府軍が、近代装備の薩長連合軍(新政府軍)の集団戦法に一方的に敗北したとする。しかし著者は「慶明雑録」の記述から、幕府伝習隊がフランス製の元込式シャスポー銃を装備し実戦に使用していた可能性を指摘し、決して幕府側の装備が旧式であったことが戦いの敗因ではなかったことを強調している。
 また、初戦から大阪城への敗退に至るまで5度の勝機を逸していた可能性を明らかにし、戦術・戦略における敗北という側面も示唆している。

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  104 「戦国軍事史への挑戦」 (歴史新書y)
      鈴木 眞哉 著/洋泉社/2010年刊行/860円 (2010/07)  

  現在戦国時代の合戦に関して一般に通説とされているものが、如何に根拠のあいまいな史料・推測にもとずくものであるかについて、筆者の長年の研究成果である戦闘報告書(軍忠状、注文)の統計分析という手法により、浮かび上がらせた意欲作。
 「軍記」「合戦譚」に示されている内容が如何に実態から遊離したものであるかについて解明し、研究者、メディアなどに対しても厳しい指摘が随所に散見されている。
 検証は戦国大名の動員力、部隊編成の疑問にはじまり、兵種区分とその比率、兵士の装備、兵士、の招集と訓練、等に対する数多くの疑問を提起され、益々戦国軍事史自体の謎は深まってゆく。
 そうした半面において、徒に分からないことばかりが増えてしまい、その結果、一般読者としては益々「戦国合戦の具体的イメージ」を描けずに、ひたすら当惑せざるを得ないという一面もあるようです。

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  103 「戦国時代は裏から読むと面白い!」 (青春文庫)
      小和田 哲男 著/青春出版社/2007年刊行/552円 (2010/06)  

  戦国時代の始まりと終り、敗者側からみた戦国大名の興亡などを軸に記されているが、文庫版という制約などから30以上もの項目について記されているため、全体として大まかな内容に過ぎるという印象が残ります。とりたてて目を見張るような新説が記されている訳でもなく、可もなく不可もなく通勤電車の車内で読むには恰好の一冊。
 但し、戦国大名の成長過程を論じる部分で「守護−守護大名−戦国大名」というコースをだどった一族として常陸の佐竹、甲斐の武田、駿河の今川、能登の畠山、近江の六角、豊後の大友、周防の大内氏、薩摩の島津の各氏をその事例としてあげる中に、「越前朝倉氏」を同様の一族に含めているが、同氏はあくまでも越前斯波家の守護代である。

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  102 新版「雑兵物語」 
      かも よしひさ 著/パロル社/2006年刊行/1400円 (2010/06)  

  「雑兵物語」は江戸時代における戦陣訓のひとつとして流行したことにより当該伝本・写本の類が極めて多いとされるが、通説では編著者として松平信綱の第五子高崎城主松平信興が有力視され、明暦3年(1657)から天和3年(1683)の間の成立とされている。足軽、鑓担ぎ、馬取り、夫丸、若党に代表される士分未満の雑兵の戦場における兵器取扱い、心得を当時の関東地方の方言を用いて平易、簡潔に記述している。
 当該出版物は1994年に享年62歳で他界された舞台美術家、イラストレーターかもよしひさ氏による現代語訳版「雑兵物語」の新版で、前版は1980年に講談社より刊行された。25頁にわたる「絵解雑兵物語」、30頁近い跋文「雑兵物語を訳して」が付され、正統派古典ともいうべき「岩波文庫版」よりもよりも一般読者により分かりやすい内容構成とすることが意識され、1980年代という時代を背景とした非戦の思いを込めその今日的意義を提起。岩波文庫本が底本とした浅草文庫本を用いず、最も形式の古い東京国立博物館本を底本としている。

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  101 「戦国史の怪しい人たち」 (平凡社新書)
      鈴木 眞哉 著/平凡社/2008年刊行/760円 (2010/06)  

 戦国時代を中心に輩出された数多くの著名人等に関する出自、高名譚の怪しげな事例について、「天下人」(戦国の三傑、石田三成、明智光秀、大野兄弟など)、「講談・大衆文芸」(尼子十勇士、真田十勇士、剣豪、忍者など)、「歴史の裏側の世界」(後南朝、影武者、降和、姉小路氏、北畠氏など)、「よく分からない人たちの世界」(毛利新介、服部小平太、原大隅、和田兵部、安田作兵衛、山路将監、島左近など)の四分野に分けて略述されています。
 「あとがき」にも記されているように、こうした話題を気軽に読んでもらおうというのが本書の趣旨とされているのですが、何分にも正味200頁ほどの新書サイズに比して、余りに登場人物が多すぎる(恐らく150名以上か)という事情により頭の整理に四苦八苦の連続となるような始末。また同氏の著書の場合には、出典、参考文献類が豊富に提示されていることも誠に有難いのですが、古典籍・古記録などに簡易な解題を付していただけると助かるのであります。

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  100 「武田勝頼のすべて」 
      柴辻 俊六・平山 優 編著 /新人物往来社/2007年刊行/2800円 (2010/06)  

 平山優、黒田基樹、丸島和洋各氏ら中堅・若手研究者による武田勝頼の事績に関する多様な角度からの論考集であり、また掲載巻末に収録された「武田勝頼家臣団事典」「参考文献目録」「武田勝頼年表」等は「信玄」の場合と異なり、関係類書も少ないことから貴重な刊行物でもあり、新書・文庫の体裁では望むことのできない充実した内容を伴うものといえます。
 高遠城主としての勝頼、勝頼時代の一門衆、滅亡後の武田氏、上野支配の変遷と構造、駿河・遠江支配など興味深い論考も多い。
 このように全体としては真摯かつ充実した内容であるにもかかわらず、出版事情に伴うものと思われるが、小和田哲男氏の「長篠・設楽原合戦の史的意義」の項は、同氏に代表される主張である「信長の戦術革命論」が、著者自身が藤本正行氏の指摘等を提示せるを得ないように、そ主張の脆弱性が垣間見られてしまい恰も蛇足のような感のある小文となってしまったところが残念に思われます。

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  99 「長篠の戦い」 (歴史新書y)
      藤本 正行 著 /洋泉社/2010年刊行/840円 (2010/06)  

 「桶狭間・信長の奇襲は嘘だった」に続く信長シリーズの第2弾。信長の事績に関する第一級資料である「信長公記」の諸本を丹念に調査した著者による「長篠合戦論」の集大成。
 要所要所において「信長公記」とその意訳を示しつつ、未だ「通説」として語られることの多い織田・徳川勢の一斉三段射撃説(巷間では「戦術革命」ともいわれる)について、当時の火縄銃の構造・性能、鉄砲隊の編成、連吾川沿いの地形等から虚構であることを明快に論述されています。
 巻末に付された「長篠合戦における織田の銃隊の人数について」(1975)、「長篠の鉄砲戦術は虚構だ」(1980)の論考におけるその先見性には改めて瞠目させられます。

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  98 「長篠の戦い」 (学研M文庫)
      二木 謙一 著 /学研/2000年刊行/570円 (2010/06)  

 1989年に刊行された「長篠の戦い」を文庫化したもの。主に「改訂増補長篠日記」、「改正三河後風土記」の記述をもとに必要に応じて「信長公記」、「甲陽軍鑑」、「当代記」、「武徳編年集成」等を引用し小説風に読みやすく記述されています。徳川勢による鳶ノ巣山砦への奇襲を前段とし、連吾川での武田勢の攻撃方法については所謂「騎馬軍団」とはせずに、「長柄鑓」を中心とした突撃であるとの推定。ただし3列に配された鉄砲3千丁による一斉射撃説については、列単位の循環移動方式ではなく定位置での交替立射方式によるものであろうと推定。
 攻め手である武田勢と同様に不安定な小河川沿いの段丘でそういった射撃方式が現実に可能だったのかどうか、また信長勢の一部を除き一斉交替射撃という集団訓練が為されていたのかどうかなどの疑問は残りそうです。なお、同様に合戦の死亡者数についても、「大日本戦史」等を例示し、武田勢1万人、織田・徳川勢の死傷者数6千人としていますが、両軍のその後の軍事行動を考慮した場合には共に過大な数値であるように思われます。

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  97 「戦国の合戦」 (学研新書)
      小和田 哲男 著 /学研/2008年刊行/790円 (2010/06)  

 戦国史専門の著名な歴史学者の執筆による戦国の合戦論で、図解も多く大変分かりやすい内容となっています。ただし残念なことに、従来の鉄砲伝来の通説(1543年)を否定しつつも戦国時代の時代区分の指標とする、桶狭間合戦における梁田出羽守の活躍を不動の史実として言及する、自焼・自落の事例を考慮しない戦国時代の武士の忠誠心に関する過大評価、賤ヶ岳合戦時の大垣から木之本への豊臣秀吉軍の移動時間を「川角太閤記」の記述を引用し時速10km以上とする(仮に身ひとつで走破したとしても、甲冑や武具などの輸送はどうしたのか、到着時の肉体的な疲労はどうなのか)などの疑問を生じる記述も少なくありません。また長篠合戦での鉄砲3段打ちについては、これまでの一斉射撃説に対する批判を受止め、3人1組のグループ方式による3段打ち説を支持する立場を明らかにしています。
 なお武田氏の軍役状のひとつ、「大井左馬允高政」宛ての定書に現れる「手明(てあき)4人」のみを士分(徒侍)と断定していますが、この「手明」については雑兵や不明とする諸説もあるようで、箇条書きの最後部に記されていることからもなお議論の余地があるのかも知れません。
 末尾の「戦国合戦の新視点」と題した16の合戦については、紙数不足が目立ち、なかには新視点とは言い難い従来説の踏襲、或いは他者の見解を引用したものも少なくありません。合戦数を絞り込み通説と新説について、より具体的な史料等(できれば史籍解題、解説を含む)に基づいて自らの見解を論述するという形をとったならば、一層魅力的な巻末となったものと考えられます。

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  96 「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」 
      藤本 正行 著 /洋泉社/2008年刊行/760円 (2010/05)  

 戦国史上最も著名な合戦とひとつとされる桶狭間合戦。信長の事跡に関する基礎史料として評価の高い「信長公記」(太田牛一/著)の詳細な分析にを基に、「信長の戦争」(講談社学術文庫)等の上梓により、かつての通説であった「迂回奇襲説」を否定し今や定説となった感のある「正面攻撃説」を唱えた著者の執筆。
 小勢の信長が今川の大軍を正面から撃破するという構図をの分かりにくさに関して更に史料を基に検証し、「正面攻撃」を是認しつつも、近年に見られる「甲陽軍鑑の記述を援用した乱取状態奇襲説」(黒田日出男氏)、「梁田政綱の情報収集を前提とした正面奇襲説」(小和田哲男氏)、「鎌倉往還別働隊挟撃説」(橋場日月氏)などの諸説を史料に基づき詳細かつ強烈に批判され自説の正当性について明らかにされています。
※桶狭間合戦の項が収められた首巻には太田牛一の自筆本が存在せず、後世の写本に見られる「天文21年という誤記」という事情について、著者自身は否定されていますが「信長公記」の記述の信憑性を損う側面のあること自体は全面的に否定できないものと考えられます。
※尾張統一後の信長と駿河・遠江・三河の太守である義元の兵力に関し、状況により動員できる戦力は異なるものなどとして、戦力格差の論及という点についてはやや不足気味であるように感じられ、抜駆けしたとされる佐々・千秋勢3百人を壊滅させた今川方の前衛部隊等がいとも簡単に破れ去るのかという問題も残るように思われます。

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  95 「考証 織田信長事典」 
      西ヶ谷 恭弘 著 /東京堂出版/2000年刊行/740円 (2010/05)  

 織田信長の人間像、尾張統一から本能寺の変に倒れるまでの事績、信長の一族とその子孫、本能寺の変をめぐる諸説の4章から構成され、項目立ての事典というよりも寧ろ読み物として通読しやすい内容となっています。
 なお書名は「考証」と銘うっていますが、分かり易さに力点を置いているためか時折引用史料が明示されていないような個所が散見され、それが著者の見解なのか史料の解釈或いは引用によるものなのか不明な場合も見受けられます。
 興味深い記述としては、ひとつには元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちについては、その発掘調査の成果からはあくまでも日吉神社を含む山麓の坂本一帯に限定した焼き討ちであろうとの説を提示され、また羽柴秀吉の羽柴姓の由来については、長良川の渡河点である墨俣の「橋場」というユニークな説も示唆されています。
※117頁 「天文16年(1547)と推定される父信秀による美濃攻略敗退時の歴々5千人討死」(「信長公記」)との記述には明らかに疑問符が付くものと考えられますが、この点について特段の見解は示されてはいません。
※桶狭間合戦での信長が直卒した兵力を兵300人とし、これによる義元本陣への正面攻撃としてますが、「信長公記」では善照寺から中島へ移動する時点で2千人に満たないと記されています。
※巻末の項目索引、信長所縁の墓所・廟所の一覧、引用資料・文献一覧は便利ですが、史料・文献に関しては成立年代を含む書誌情報・解題を含む著者としての解説・評価が欲しいところです。

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  94 「新説 桶狭間合戦」 
      橋場 日月 著 /学研/2008年刊行/740円 (2010/05)  

 日本史上有名な桶狭間合戦に至る背景について、信長の父の織田信秀の時代から多様な史料を元に駿河今川氏と尾張織田氏の対立抗争の図式について論及しています。
 父信秀法要での信長の非礼に関する逸話を反信長勢力に対する家督相続権主張のクーデターと推定し、守役平手政秀の諌死を商業港である津島支配をめぐる主導権争奪に伴うものとするなどの提起に始まり、今川氏と織田氏の対立軸を伊勢湾を中心とした商業交易の覇権争奪にあると結論付ける興味深い新説が示されています。
 このため桶狭間合戦における今川義元の戦略目標について、大高城入場後に海路を取り尾張の熱田・津島の諸港に上陸し経済的打撃を与えるものであったとする斬新な主張となっています。
 また、桶狭間合戦における織田方の勝因についても、迂回奇襲説を退け近年定説となりつつある正面攻撃説に疑問を提起し、信長本隊(約2千)と鎌倉往還経由の別働隊(主将柴田勝家ほか約3千)との義元本陣挟撃作戦であろうという大胆な推理を展開しています。
※別働隊の存在とその行動に関する史料考証について、「沓掛での楠木の倒壊を熱田神宮の神佑」等に依拠するなどの不透明さはありますが、兵力的に劣勢な織田勢が丘陵上に布陣し地形上の優位を保持していた義元本陣に対して正面攻撃を仕掛け勝利するという難問に対する有効な推論のひとつと評価すべきでしょうか。

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  93 「武田信玄合戦録」 
      芝辻 俊六 著 /角川書店/2006年刊行/1400円 (2010/05)  

 笹本正治氏の語るユニークな武田信玄像とは対極的で、穏やかで分かりやすい語り口が読者の共感を誘います。信玄堤の築造、軍用道路としての棒道に関する信玄の関わりを肯定的に捉え、山本勘助の存在についてもより実在説に近い立場で解説。
 「甲陽軍鑑」の扱いについても、その全てを否定することなく資料的な裏付けを伴う記述については、適宜取捨選択の上評価をするという立場。
 武田氏家臣団分析に関し詳細な解説を加えつつも、その軍事的動員能力について概数でさえもを明示していない点、川中島合戦の意義とその戦死者数に関する疑念等に関して十分な論究が為されていないことなどが残念に思われます。なお、巻末に収録されている「武田信玄の侵攻年表」は有難い存在です。

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  92 「戦国時代用語辞典」 
      外川 淳 編著 /学研/2006年刊行/1600円 (2010/05)  

 甲冑、武具の図解に始まり軍勢の編成、合戦の実像、文化、信仰、経済などの多岐にわたる構成内容となっており入門書としてお買い得の一冊。記述内容の詳細な部分については議論の余地もありそうですが、そうした些細な問題を別にすれば、単なる辞典として活用するよりも通読をした方が一層の面白味が湧いてきます。
 巻末索引の実用性と精度、本文中に図解を求められる個所の目立つこと、参考文献の一覧表示以外には逐一出典を明記しないなどの不都合な側面もありますが、上記の販売価格帯を考慮すれば致し方の無いものなのでしょう。

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  91 「手にとるように日本史が分かる本」 
      岸 祐二 著/加来 耕三 監修 /かんき出版/2007年刊行/1400円 (2010/02)  

 2001年に出版されたものの改訂版で、日本人の起源からバブル経済の崩壊まで124のテーマに分けて略述されています。「まえがき」を加来氏が記していることは確かなのですが、本文の記述内容について監修者がどの程度関わったのかという部分がいまひとつ不明瞭な印象。それほど穿った見方をしなくとも、著名な監修者の名前にあやかった販売促進の意図が透けて見えるようにも。尤もそうしないと売れないという現実的な問題もあり致し方の無いところなのかもしれません。
 こうした傾向の本にありがちな致命的とされるような大きな誤りは見られず、日本史について大まかな理解を得るには手っ取り早い項目立てとなっており、巻末に項目索引が付されているのは良心的でさえあります。通勤の電車内などで読むには恰好の著作といえるかもしれません。
 ただし管理人はブックオフ川越店開店記念セールの100円均一で購入しております。

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  90 「兵と農の分離」 (日本史リブレット)
      吉田 ゆり子 著/山川出版社/2008年刊行/800円 (2009/12)  

 天正3年(1575)の長篠合戦の前日鳶巣砦で討死を遂げた武将の一人に、下伊那郡阿智村浪合を在所とした波合備前(胤成)という人物に着眼。主にこの人物の足跡と、主家である武田氏滅亡後のその子孫の仕官先を等の経歴を辿ることにより信濃地方における兵農分離という社会構造変革の実態の解明に迫る地道な論考です。
 残念ながら下総における千葉氏、原氏一族との具体的関連・経緯の事実関係等が気にかかりますが、さすがに100頁ほどの小冊子には収まりきらないようで、これらに関する論述は示されてはいません。

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  89 「合戦の文化史」 
      二木 謙一 著/講談社/2007年刊行/960円 (2009/10)  

 「合戦の舞台裏」(1979/新人物往来社)を底本とした旨が、奥付の見開きページに記されていることか示すように、ややテーマが異なるものの近年に出版された「日本軍事史」(2006/吉川弘文館)と比べますと、ややアカデミズム要素の強い古典的歴史観を基調にしているように思えてなりません。
 こうした事情から逸話とは明記しているものの、「賤岳合戦記」の記述をもとに戦国合戦の実態について述べた個所など、些か読者の誤解を招きそうな印象も拭えない部分もあります。
 また近世における集団的戦闘技術が衰退していく過程についての説明が十分とはいえず、大手出版社の刊行する「学術文庫」に相応しい内容なのかという疑問さえ湧いてきます。尤もこうした点はあくまでも、1970年代の「合戦研究史」におけるひとつの到達点として捉えるべきなのかも知れません。
 無論、古代律令制での軍制、室町期足利将軍家の直属親衛軍、長久手の合戦で討死を遂げた森長可(もり ながよし)の遺言状、首実検の作法、戦国武将の葬送儀礼など有職故実の専門家ならではの興味深い記述も含まれています。

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  88 「人事の日本史」 
      山本 博文ほか 著/毎日新聞社/2005年刊行/1600円 (2009/09)  

 3本の書下ろしを除きますと、基本的には毎日新聞社より刊行されている「週刊エコノミスト」(2003年10月7日号から2004年9月7日号)に掲載されていた内容を単行本化したもので、巻末には3名の共著者による対談集も掲載。
 歴史上の人事について些か強引に現代の実践的経営学の観点に関連付けるという編集形態であるため、時代を追った内容であるにも拘らず結果的には飛び石のような項目立てとなってます。
 なお、中近世の部分についてはどうにか追い付いて行けるのでありますが、古代史に関しては取分け古代天皇制、律令制の辺りは最も苦手な分野のひとつなので、引用文献が殆ど示唆されていないことに対するストレスを感じつつ、歴史辞典・年表等を手元に置きながら読み進むという情けない状態に陥った次第。無論、中世への橋渡しとなる古代政治史に対する初歩的知識が大幅に欠如していることを再認識するという契機ともなりました。
 このため、どうしても戦国期の位階・任官に対する戦国大名の拘泥に関する記述、近世の旗本の出世コース、出世から縁遠かった長谷川平蔵(「鬼平犯科帳」の主人公)の焦燥感などが強く印象に残ってしまうという結果に。
 出版社在庫整理等に伴うバーゲンブック購入のため、超格安にて入手したうちの一冊。

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  87 「戦国の村の日々」 
      水藤 真 著/東京堂出版/1999年刊行/2200円 (2009/08)  

  16世紀初頭文亀元年(1501)に自らの領地である和泉国日根野荘(いずみのくに ひねのしょう)へと下向し、都合4か年にわたりその直轄支配を試みた前関白九条政基(さきのかんぱく くじょうまさもと)の日記である「政基公旅引付」(まさもとこう たびひきつけ)に関する考察を中心とした詳細な論考集です。
 荘園・村落の支配構造の階層性、和泉国守護細川氏および隣国である根来寺との年貢、反銭、公事、罪人の処罰(検断権)などの領地支配権を巡る様々な確執などの実態を明らかするとともに、その一方において戦国時代前半においての混乱・動揺する領主権のもとで、兵農未分離であった在地の人々の二重成(ふたえなし)、正当な領主権を主張する荘園領主と守護に加えて隣国の根来衆との狭間で翻弄された村人らの日常生活を丹念に探究しています。
 実子を室町幕府管領細川政元の養子(後の細川澄元)として縁組を果たし、幕府中枢と極めて深いかかわりを有し幕府からもその正当な領主権を保障されたはずの上級貴族階層でさえも、当該幕府権能の低下の進行を背景として領地支配の実効支配が困難となっていった旧領主権の崩壊過程をも明示した労作です。

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  86 「直江兼続のすべて」 
      花ヶ崎盛明 編著/新人物往来社/2008年刊行/2800円 (2009/06)  

 下段の著書と同様に大河ドラマ「天地人」の放映にあやかって出版された新装版。11名の郷土史家等の執筆により構成されるという事情から、兼続の出自、御館の乱などの個所でやや重複する個所が多いこと、謙信の後継者決定の顛末に関する記述の相違、歴史小説的な記述と文献史学的な論考など虚実が入り混じった部分も散見され、幾分まとまりを欠く傾向のあることは否めないものと思われます。
 ただしそうした側面を除くと、景勝時代の領国支配の充実や経済政策の推進、越後一揆の経過など、むしろより多様な観点から記述されているために、主人公である直江兼続の人物像、事績等を知る上では有用な要素ともいえるのかも知れません。
 また、巻末に収録されている人物事典は天正3年「上杉軍役帳」、文禄3年定納員数目録を始めとする有力家臣の軍役、石高の経過等が簡略に纏められており、越後、会津、米沢と領地が変わるたびのその石高の増減が当該家臣にたいする評価として捉えた場合にはなかなかに興味深いものがあります。
 

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  85 「名参謀 直江兼続」 
      小和田 哲男 著/三笠書房/2008年刊行/1300円 (2009/06)  

 大河ドラマの「天地人」を意識した出版物で、しかも著者は戦国史の分野では著名人なのですが、残念ながらその内容については「直江兼続」について述べられている個所よりも、上杉謙信、石田三成、戦国時代全般などについて書かれた部分が多く全体としては浅く広くという印象が否めませんので、このため直江兼続の生い立ちや事跡などについて詳しく知りたいという場合には肩透しとなる内容で、如何にも出版元の都合で編集されたという印象が強く感じられます。
 また必ずしも著者自身の責任ではありませんが、もともとが80年代前半頃から現在に至るまでの歴史関係の雑誌等に寄稿された多様な文章から構成されているために、明らかに全体としての統一性を欠く傾向も見られます。
 

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  84 「島津義弘の賭け」 
      山本 博文 著/中央公論新社/2001年刊行/724円 (2009/06)  

 島津義弘というと関ヶ原合戦における撤退戦が余りにも著名です。しかし筆者は島津家文書の整理に関った立場に基づき、豊臣氏の九州平定時から文禄・慶長の役を経て関ヶ原合戦に至るまでの島津家内部の動向を当該資料等に沿って極めて詳細に考察しているところにこの本の魅力があるものと思われます。
 同書によれば島津家の領国は秀吉の軍門に下った天正から慶長年間においては、太閤検地の実施を背景として上方政権を受容することで島津家の生き残りを考えた義弘と(著者はこの豊臣氏に対する義弘の姿勢を「賭け」と表現しています)、これに冷ややかな目を向ける島津家家臣団の頂点に立つ義久との二頭体制により運営されるという極めて不安定な状況であり、合わせて文禄・慶長の役の過重な軍役により領国は極限にまで疲弊していたことが浮き彫りにされます。
 こうした状況を背景として有力家臣の叛乱や粛清が相次ぐこととなり、関ヶ原合戦当時には島津家の総力を上げて合戦に臨むというような状況とは余りにも程遠いものがあったという経過が実に分かりやすく述べられています。 

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  83 「室町期南奥の政治秩序と抗争」 
      垣内 和孝 著/岩田書院/2006年刊行/6900円 (2008/11)  

 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏等の有力領主階層に関する15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究しています。
 戦国史前期における南奥の政治体制を包括的に理解する上で数少ない好著です。

 

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  82 「北武蔵西城州の秘史」 
      川鍋 巌 著/上毛新聞社/2006年刊行/5250円 (2008/10)  

 神流川沿いの戦国期中世城郭を巡る戦い。このあたりの地域の歴史的経緯に関する基本的理解が全面的に不足していることを痛切に感じる昨今であります。
 関東管領上杉憲政失脚の契機となったとされる天文21年(1552)2月の金鑚御嶽城の攻防。通説(俗説の要素もあるような)では山内上杉氏支配下の安保全隆父子が数千の兵で立籠もり、これを後北条氏側が数千騎の大軍で攻め寄せて城兵数千人を討取ったとされています。
 基本的な疑問として、まず挙げられるのは双方の兵力数。 とりわけ安保氏側の兵力の総数。 根小屋である麓の城下を含めたとしても、まず数千人が起居できる広さを有してはいないこと。現実に狭小な尾根筋を利用した山城である御嶽城に籠れる兵力は、谷筋に展開する平場を利用したとして多くとも数百人程度が限度であると考えられます。数千人が討死を遂げたとの部分については「太平記」のようなものと理解すれば片付けることもできますが、数千人という兵力については、半ば当時の上野国全体の動員兵力に相当する規模に符合するものと推定されます。
 この通説の根拠の一つに、後に身延山第15世となる日蓮宗の僧侶日叙の「仁王経科註見聞私奥書」(身延文庫蔵)という史料が存在しています。 これによりますと、この写本の奥書に記された内容は上野に居住していたとはいえ、基本的には戦火を避けた「疎開先での伝聞」に基づくものであるという性格を有しているものと考えられます。次に数の多いさまを表現する場合に、「数千」という比喩的な表現を多用しているという特徴が窺えます。具体的には僅か六百字ほどの奥書の文中で、「北条氏康が数千騎を率いて攻め入った」、「数千人の城兵は一人残らず討死を遂げた」、「雑兵もまた数千人が水の手を切られて渇死した」、「戦火を避けて数千人が利根川の中州に避難した」などとの記述が頻出していることから、どうやら「数千」という数値が具体的数字を示す表現ではないものと考えて差し支えないように思われるのであります。
 さらに「金讃山が戦火のため一宇もの残さず灰燼に帰した」という旨の記述があります。この点については現在国の重要文化財に指定されている金讃神社多宝塔建立時期は天文三年(1534)とされていることから、些か歴史的事実とは齟齬をきたすと考えられる記述も含まれているようです。何れにいたしましても、この史料を引用する場合には、こうした以上の諸点に留意する必要があるものと考えられます。また後に武田信玄が西上州に侵攻し御嶽城をもその手中に収めた時に認めた、「甲斐・信濃の人数、千余りを城番として在城させた」という旨の太田資正宛の書状が存在しています。(「太田文書」) しかし、「某町史」等では以上のような数値をそのまま引用するだけではなく、「甲斐・信濃の人、数千余り」と解釈しているとしか思えない旨の記述があり、泥縄俄勉強の身としてはこの結果的にますます頭が混乱してくるのでありました。
 余りにも前置きが長くなりすぎましたが、こうした疑問を抱く契機となった著書であります。独学の郷土史家の方が纏められたものであるため全体構成が掴みづらい傾向は否めませんが、長期にわたる綿密な聞き取り調査等を背景とした大変な労作であることは間違いのないところです。 

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  81 「会津 芦名四代」 
      林 哲 著/歴史春秋社/1982年刊行/1600円 (2008/09)  

 9月上旬の入院の際に目を通していたうちの一冊で、初版から四半世紀以上の年月が経過しているにもかかわらず再版が継続されているという事情が示すように、戦国大名芦名氏について4代(盛氏−盛興−盛隆−義弘(盛重))の事跡を克明に叙述した他に類例を見ない好著であると思われます。
 芦名氏宗家のみならず四天王といわれた金上氏、松本氏、富田氏など重臣階層の動向も詳しく、また天正年間における仙道地方の情勢についても大内氏、片平氏、二本松氏の動向について要領よく記述され、さらに越後上杉氏との関係国境の国人衆たちの帰趨などもふくまれており、非常に多岐にわたる内容となっています。
 合戦時における兵力の動員力に関する記述に幾分疑問のある個所も見受けられますが、戦国時代における会津の名族芦名氏についてその歴史的存在を世に知らしめたいという熱意が非常に印象的で、全体の記述に占める割合は中興の祖といわれる盛氏に関する部分が全体の半ほどを占めていることから、著者のこの人物に対する傾倒ぶりも垣間見えます。 

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  80 「史伝 伊達政宗」(学研M文庫) 
     小和田 哲男 著/学研/2000年刊行/590円 (2008/08)  

 曾祖父の代からの事跡を追いつつ伊達氏の本拠地の変遷、田村氏との関係、人取橋の合戦、畠山義綱の事件、窪田の戦い、摺上原の合戦、大崎一揆の煽動、遣欧使節などひと通りの事項について述べられていますの。本文冒頭の14頁、206頁等の西暦表示について部分的に明らかな誤植が見られますが、伊達政宗の事跡を一般向けにできるだけ分かりやすく記述したという点では巻末に収録されている略年譜とあわせて入門書に相応しい内容となっています。
 引用史料について説明不足と思われる個所も散見されますが、元より専門書として執筆されたものではないので致し方のないところかも知れません。
 本書は「伊達政宗 知られざる実像」(1986/講談社刊)を文庫化したもの。
 

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  79 「動乱の中の白河結城氏」(歴春ふくしま文庫) 
     伊藤 喜良 著/歴史春秋社社/2004年刊行/1200円 (2008/08)  

 南北朝時代鎌倉時代末期から前半にかけて南奥で大きな勢力のあった白河結城氏についての動向を論じた南北朝期の政治史を専門分野とする著者の執筆によるものですが、専門的な論考集ではなく一般読者を意識した分かりやすい記述となっている点は実に助かります。
 以前より太平記の中における南朝の忠臣の一人である結城入道宗広に関する最期のくだりについてその極悪非道ぶりが余りに誇張されているという記述が気になっていました。この疑問に対して「とはずがたり」等を引用し、当時の畿内の人々が抱く東国・奥州の武士に対する一種の固定観念(偏見)であったという見解は的を射たものといえるのではないでしょうか。
 建武政権の「奥州小幕府」体制下において白河結城氏が評定衆の要職にあり、転戦中の宗広客死後も東国に下向した北畠親房に頼りにされる一方、巧みな舵取りを行い一族の繁栄をもたらした当主親朝の卓越した状況判断能力が浮かび上がります。
 同時に東国の常陸へと下向し、北奥の北畠顕信との軍事的連携を視野に入れつつ南朝の勢力回復を画策した北畠親房の無謀ともいえる執念の一端も垣間見え興味深いものがありました。
 

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  78 「負け組の戦国史」(平凡社新書) 
     鈴木 眞哉 著/平凡社/2007年刊行/760円 (2008/07)  

 勝ち組、負け組といった分類が流行った時期に出版されたもので、敗者の立場に立ちその敗因について結果論による通説を否定する姿勢が窺えます。
 その切り口としては確かに興味深いものもありますが、その反面において新書という体裁の制約からか、他の自書を引用する部分についてはその本を読むようにという表現を多用している点が極めて不親切であるように思えます。
 この結果、初めてこの著者の本に目を通す者にとっては馴染めない内容となっています。
 従来の通説を覆すことで有名な在野の歴史家の著書ですが、この著作に関しては残念ながら些か意図が不明であるように思われます。

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  77 「絵解き 雑兵足軽たちの戦い」(講談社文庫) 
     東郷 隆氏 著/講談社/2007年刊行/495円 (2008/04)  

 「戦国武士の合戦心得」(講談社文庫)の姉妹編で、源平の合戦から戦中にいたるまで下級戦闘員としての足軽・雑兵のな歴史的変遷を追うという体裁。
 しかし「太田道灌の馬足軽」の記述などを含めて史実としての信憑性に疑問を抱かせるような記述も散見されれます。
 そうした部分に目ぐじらを立てず、あくまでも戦国時代の雑兵・足軽をテーマにした歴史エンタティメントと割り切って読めば挿入されているイラストも秀逸なので飽きることはありません。

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  76 「関ヶ原合戦と大坂の陣」(戦争の日本史 17) 
     笠谷 和比古 著/吉川弘文館/2007年刊行/2500円 (2008/03)  

 必ずしも関ヶ原合戦の結末のみでは、その後の徳川家による幕藩体制の方向性が確立された訳ではなく、戦前においては複雑な対抗関係が存在したという分析に基づき本論が展開されます。著者によれば、その対抗図式として、「淀君−北政所」「武断派−吏僚派」「中央集権−地方分権」「豊臣政権内部の主導権争奪」「徳川家−豊臣家」という5つの対抗図式を示しています。
 また、関ヶ原以降3度の戦役を通じて、徳川−豊臣両家による二重公儀体制ともいうべき曖昧かつ不安定な権力構造を漸次解消していった過程、および関ヶ原合戦、2度の大坂の役の経過についても要点を押さえて分かりやすく記述されています。
 なお、重要な指摘については出典史料を明示し略述評価の上自己の見解を提示するという原則に徹する姿勢が貫かれ、一般書でありながらも読者にとってあらためて出典史料について始めから調べなければならないという不便さがかなり軽減されている点については大いに評価すべきものと思われます。

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  75 「真田雪村のすべて」 
     小林 計一郎 編著/新人物往来社/1989年刊行/2600円 (2008/02)  

 専門分野を分担し複数の著者による編著のため幾分重複するような記述が見受けられるものの、引用史料についても適宜明示がなされストレスなく読み進むことができます。
 また書名の通り幸村(信繁)の事跡にとどまることなく、真田一族の出自、とりわけ滋野氏との関わりについては興味深いものがあります。当人以外の真田家所縁の人々についての記述なども詳しく、真田家百科ともいうべき内容でもあります。
 些か版年が古くはなったとはいえ、未だに真田雪村の実像を解き明かすための基本的な入門書としての評価は変わらないものと考えられます。

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  74 「真田雪村 伝説になった英雄の実像」(PHP新書) 
     山村 竜也 著/PHP研究所/2005年刊行/720円 (2008/01)  

 戦国武将人気ベスト5に必ずランクインすると思われる著名人の伝記で、巻末には略年譜が付されています。新書版という出版形態であるため全体として引用資料についての解説、史料評価が不足気味であることについては、ある程度致し方のないところかも知れません。
 但しサブタイトルの内容とは裏腹に格別独創的な見解・持論が展開されているという印象が少なく、従来の諸説を踏襲したダイジェスト版のような内容であるように思われます。
 出版の事情などから抑え気味の観がある近世以降の軍記物や立川文庫などにおいてデフォルメされすぎた主人公の実像に迫るような側面が欲しいところですが、しかしこうしたことから逆に、真田信繁(幸村)の通説としての事跡を辿る「歴史的読み物」としては十分なのかもしれません。

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  73 「一向一揆と石山合戦」(戦争の日本史14) 
     神田 千里 著/吉川弘文館/2007年刊行/2500円 (2007/12)  

 著者は土一揆、一向一揆研究の第一人者であり、従来の民衆の権力に対する階級闘争的な側面を重視してきた通説に波紋を投じ、新たな一向一揆像の再構築を試みた意欲作です。とりわけ戦国期の本願寺が教団としての布教活動を拡大するために、常に足利幕府との協力友好関係を模索・維持することを基本方針としていたということを論証することに力点が置かれているように思われます。
 また同時代史料では一揆とは呼ばれていたものの、通常一向一揆とは呼称されていなかったとの指摘、顕如の石山本願寺退去後の鷺森合戦の捏造に関する考察、必ずしも本願寺内部や本願寺門徒が一枚岩ではなかったこと、加賀一向一揆に関するその背景と経緯、本願寺法主と一般の門徒の宗教的認識の違い、近世以降の布教活動により一向一揆像が次第にデフォルメされていったことの示唆など興味深い記述が多数存在しています。
 歴史観とはまさにその時代の思潮を反映するものであることをも再認識させてくれる好著です。巻末に本願寺関連の略年譜が付されているのでとても重宝ですが、事典としても利用できる内容でもありますのでこれに人物事項索引が加わるとさらに便利かと思われます。

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  72 「今川義元」(ミネルヴァ日本評伝選) 
     小和田 哲男 著/ミネルヴァ書房/2004年刊行/2400円 (2007/12)  

 地元静岡出身の著者による海道一の弓取とうたわれた戦国大名今川義元の評伝。義元以前4代前の範忠にはじまり、義忠(伊勢盛時−伊勢宗瑞−の姉妹を正室とする)、氏親、兄氏輝の事蹟、義元の実母寿桂尼の政治的手腕、大原雪斉の人物像などにも論及。駿河は石高も少ない小国であるにもかかわらず、今川氏の繁栄を支えた要素として金山収入、交易の存在を明示する部分は至って明快。
 尾張への侵攻は戦国大名としての膨張政策として不可避なものであり、その敗戦により今川領国が短期間で瓦解してしまうほどの脆弱性をもったものであったとの考察は戦国大名の支配の実態を考える上で誠に興味深いものがあります。
 義元以上に武将としての資質を欠くとされた嫡子氏真は大阪冬の陣が起きた慶長19年(1614)12月に77歳の長命で死去。桶狭間の敗戦時においてすでに家督を相続していたとされる氏真にとって、武田氏の駿河侵攻と滅亡、宿敵織田信長の末路、後北条氏の滅亡、関ヶ原合戦、豊臣家の衰退等を目の当たりにしていたことなります。出家の身となり徳川家から僅かばかりの扶持を受けていた氏真が、こうした諸行無常を果たしてどのように受け止めていたのか興味がわく所でもあります。なお、近世今川氏はこの氏真の孫が高家となり継承され、家名を残すという最低限の役割は果たせたこととなります。
 また、巻末には今川義元の年譜、事項索引、人名索引も付された丁寧な編集ですが、これで価格がより廉価であれば申し分のないところです。

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  71 「信長と消えた家臣たち」(中公新書) 
     谷口 克広 著/中央公論新社/2007年刊行/800円 (2007/11)  

 織田信長の家臣団研究に関する第一人者の著書。著名人だけではなくどちらかといえば無名に近い人物も含めて、合戦での討死、誅殺、粛清と様々な形で歴史からその名と足跡を消していった戦国武将の群像が描かれています。各項目が信長の天下布武に貢献し重用・利用された一人一人の家臣たちの墓標のようにさえも思えてくる、著者の彼らに対する暖かな眼差しが伝わる好著。傲慢、気まぐれ、短気、猜疑心旺盛という大変扱いにくい性格と考えられる信長に仕えていた家臣たちの忍従の日々に思いを馳せたくなる内容です。
 引用史料に関する解説・評価の記述に多少のバラつきが感じられる点を差し引いたとしても、余りある読み応えのある内容となっています。
 巻末には新書版にもかかわらず本書に登場する家臣の索引が付され、読者にとっては誠にありがたい丁寧な体裁。
 また一般に謎が多いとされる「本能寺の変」に対する著者の明快な見解、およびその背景に関する謀略説などの諸説とその批判についても略述されています。

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  70 「上杉謙信」(ミルルヴァ日本評伝選) 
     矢田 俊文 著/ミネルヴァ書房/2007年刊行/2200円 (2007/11)  

 著者は戦国期の越後は現在の我々が認識しているような水田が延々と連なるような豊かな土地ではなく、また他の東国においても見られるように平地の居館から要害としての山城へ国人領主の拠点が移動するに伴い集落も移動していたことをと指摘は興味深いものがあります。
 また、15世紀半ばの古河公方足利成氏にたいして越後守護である上杉房忠は幕府の命により関東への軍事的圧力を強めるとともに、信濃に対しても独立した動きを見せる村上氏、高梨氏を追討するように命じられ信濃守護である小笠原氏と同等の権能を保持していたことも明らかにしています。その一方で越後守護としての立場は自立した国人領主を統合する連合体の頂点に立つという立場であり、超越的な絶対権力を保持していた訳ではないともしています。
 すなわち景虎の父である為景の代においても、旧守護勢力である上杉一族である上条氏あるいは同族の上田長尾氏の勢力を凌駕するものではななかったとされ、そうした越後国内の政治状況は長尾景虎が越後守護あるいは関東管領職を継承する過程で、次第に越後国内における絶対的な権力の頂点に立っていたと指摘。奇しくも関東への侵攻が事実上挫折した天正3年2月に越後国内の軍役帳が成立した時点において漸く旧守護勢力である越後上杉一門の上に立つという到達点示すものとしています。
 一方この軍役帳に記されている兵力の総数は4千人にも満たないことから、戦国期の軍事動員に占める非戦闘員の割合の多さを物語るようにも思われます。しかしこの点について残念ながら具体的な見解を示してはいません。

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  69 「武田信玄」(歴史文化ライブラリー) 
     平山 優 著/吉川弘文館/2006年刊行/1700円 (2007/08)  

 武田氏研究の若手では近年その第一人者として評価の高い著者による最新の著書です。信玄の軍事・外交、税制・分国法・甲州金の産出、家臣団編成と軍役など多岐にわたる豊富な記述により構成。打ち続く天災・飢饉に加え国衆・土豪階層に対する軍役等の厳しさは、結果的に恰も自転車操業のような膨張政策を採用することを余儀なくさせたことが見えてきます。
 また、後北条氏と比べた場合その家臣団の貫高および軍役等に関する史料が近世の武田流軍学の興隆ぶりに反して意外に少ないという事実を改めて知らされた次第です。
 欲を言えば信玄堤に代表される治水事業については略図の掲載は不可欠かと。、また「高白斎記」「勝山記」「王代記」「塩山向岳庵小年代記」など引用の多い基本的史料については文中において解説することなく、序文あるいは巻末引用史料一覧などの形で提示の上史料としての評価を含めて解説いただけると読者にとってはありがたく思うのであります。

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  68 「戦史ドキュメント 桶狭間の戦い」(学研M文庫) 
     小和田 哲男 著/学習研究社/2000年刊行/540円 (2007/07)  

 藤本正行氏らの「信長公記」の検証を参考に、従来の通説とされていた迂回奇襲説を返上し、新たに「正面奇襲説」を唱えた「桶狭間の戦い」(1989)を文庫化したもの。文庫化に際して、「生の史料を引用」し著者の考察過程を提示したとの序文が記されています。
 しかし「奇襲説」に拘泥するあまり、「桶狭間合戦記」などに登場する情報戦に活躍したとされる梁田出羽守政綱の記述、佐々正次らの無謀な単独行動の評価を信長の陽動作戦と評価するなどの記述にはいささかの疑問も。また丸根砦の信長方の人数ついて、「改正三河後風土記」150名、「武徳編年集成」400名、「伊束法師物語」700名と大きな差異が見られるままに引用するなどやや不親切な印象があります。
 その一方で今川義元の軍事行動の目的を天下に覇を唱えるための上洛ではなく、丸根、鷲津、善照寺、中島、丹下の付城を攻略し鳴海、大高地域の支配の安定と拡大を図ることを目的としたという指摘には共感できるものがあります。
 巻末には引用した史料一覧が付されていますが同時代の一級資料とされる「信長公記」から幕末に編纂された「改正三河後風土記」、史料的な評価が難しい「伊束法師物語」「桶狭間合戦記」など合計にして23点の史料を引用していますが、読者の立場からはそれらの引用した「史料」の学術的な評価をより明確に提示されるとより円滑に安心して読みすすむことができるものと思われます。

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  67 「信長は謀略で殺されたのか」(新書y) 
     鈴木 眞哉 / 藤本 正行 共著/洋泉社/2005年刊行/780円 (2007/07)  

 いまや定説ともされかねない感のある「本能寺の変」における各種の謀略説を逐一批判的に検証したもので、とりわけ足利義昭を黒幕と指摘する藤田達夫氏の「謎解き本能寺の変」(講談社現代新書)、イエズズ会を黒幕とする立花京子氏の「信長と十字架」(集英社新書)の論調を史料の誤読など実例を挙げて痛烈に批判を展開しています。
 その一方で光秀の将兵として本能寺襲撃に加わったとされる「本城惣右衛門覚書」(天理大学付属天理図書館蔵)の記述、ルイス・フロイスの「日本史」に記された強かな戦国武将としての明智光秀像などをベースにして光秀の単独犯行説を改めて明言しています。
 然しその動機については史料不足という現実の壁が立ちはだかり、この二人の著者を以ってしても明言するまでには至らず、こうした背景が憶測を呼びこみ「謀略説」が多様な跳梁跋扈する一因となっているのでありましょう。

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  66 「戦国鉄砲・傭兵隊」(平凡社新書) 
     鈴木 眞哉 著/平凡社/2004年刊行/760円 (2007/06)  

 鈴木孫一、佐武伊賀守らに代表される謎の多い紀州雑賀の土豪集団の実像を各種の史料から明らかにした労作で、絶版となっている旧作の「紀州雑賀衆・鈴木一族」(新人物往来社/1984)の入手が困難な現在では戦国期雑賀衆に関する信頼できる数少ない入門書的存在。
 天文12年(1543)の鉄砲伝来を国産化の契機として捉えるという通説の実証的な否定に始まり、本願寺≠雑賀五荘郷≠本願寺門人≠雑賀衆であったとの解釈、雑賀荘、十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷などの雑賀五荘郷が実際には対立する関係にあり一枚岩でなかったなどの論証など興味深い記述も多く、雑賀衆の末裔と伝わる著者の意気込みが伝わる好著。巻末の「雑賀衆関係年表」および参考文献一覧も有用。

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  65 「鉄砲と日本人」(ちくま学芸文庫) 
     鈴木 眞哉 著/講談社/2000年刊行/1300円 (2007/06)  

 1997年に洋泉社から出版されていた単行本を文庫化にあたり改定したもの。著者は雑賀一族の末裔と自認され、在野の軍事史・戦国史研究者として従来の戦国史、とりわけ合戦のあり方や火縄銃が果たした役割に新たな視点を切り開いたユニークな執筆活動で著名。
 従来の教科書的定説である鉄砲伝来や長篠合戦における鉄砲運用のあり方などを否定することから始まり、「鉄砲が日本人にどのように利用されどのような影響を与えたか」を主眼として記された著者の主張の原点ともいうべき論調が凝縮された著作。引用・出典の文献を丁寧に明示し他の一般向けに記された「新書版」などの著作での論拠を調べるには好都合な形式となっています。
 小銃を中心とした火器の発達史およびその活用のされ方について欧米での実例を検証しつつ、その一方で我国の小銃の兵器としての扱われ方をについて時代を追って丁寧に解説。なお、城郭関連では一般に「山城⇒平山城⇒平城」という戦国期の築城の変遷について、織田信長の本拠地の変遷を例示して従来の通説を真っ向から否定している点も興味深いものがあります。

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  64 「謎とき日本合戦史」(講談社現代新書) 
     鈴木 眞哉 著/講談社/2001年刊行/740円 (2007/05)  

 古代から太平洋戦争に至るまでの日本人の戦闘行動・様式を中心にした軍事史の通史とでもいうべき内容です。
 なかでも日露戦争後に策定された「歩兵操典」に記された接近戦闘である伝統的とされる白兵主義観を根底から覆すこととなった意欲作。とりわけ軍忠状・感状などから負傷者の戦傷原因を調査し統計上から、刀・槍などの接近戦よりも、弓・鉄砲による戦傷が圧倒的に多かったことを明らかにし、少なくとも中世においては遠戦志向が主流であったとする実証的な内容。
 巻末の膨大な参考文献の一覧も有用。

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  63 「古戦場 敗者の道を歩く」(講談社+α新書) 
     下川 裕治 著/講談社/2007年刊行/800円 (2007/05)  

 山本勘助の実在、武田の騎馬隊、川中島合戦の戦死者数など史実と軍記物・小説の世界を取り違えているような部分はさておき、古戦場、史跡散策ガイドとしても活字と案内図が符合していないなど情報が不足気味で些か中途半端な内容。
 そのなかで唯一参考になったのは西南戦争の田原坂の合戦。「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」と歌に歌われたほどの著名な激戦。然し恥ずかしながら何と半世紀近くもの間、てっきり西郷軍側が田原坂を突破できず苦戦したことを表したものと誤解を。
 実際には熊本城に篭城した谷干城率いる鎮台軍を支援するために援軍に赴いた政府軍が田原坂の要衝に布陣した西郷軍に対して大いに苦戦したことをうたったものであるらしいことを初めて理解した次第です。

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  62 「信玄の戦争」(ベスト新書) 
     海上 知明 著/KKベストセラーズ/2006年刊行/780円 (2007/04)  

 戦国大名の兵士の動員力に対する過大評価、合戦の死傷者の人数、「騎馬隊」の存在等やや論旨の展開にに実証性と信憑性を欠く部分が目立つ印象があります。然し信玄の戦略における栄光と挫折の経緯の大半が「孫子」の軍略の採用に起因するものであるという仮説に徹底的に拘泥する姿勢にはある種の羨望さえ感じます。また永禄4年の川中島合戦における謙信の戦略に信玄が誘い込まれるという着想の部分にも大変興味深いものがあります。
 一見戦国史がテーマであるようでいながら軍事学、中国古典、ビジネス書の範疇にも含まれるジャンルの仕分けが難しい内容。 著者のスタンスや部分的な表現の品格などを含めて、国営放送の大河ドラマ「風林火山」にあやかって出版されたキワモノとの印象が見え隠れするため本来の着想の面白さが半減していることが些か残念に思われます。

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  61 「硫黄島」(光人社NF文庫) 
     R・F・ニューカム 著/文芸春秋/2006年新装改訂版刊行/762円 (2007/04)  

 日本軍の戦死者2万人に対して3万人近い死傷者と戦線離脱者を数えることとなった米軍の損害。記されている内容は決して新発見の資料によるものではありませんが、然しそのことが逆にノンフィクションとしてのリアリズムのインパクトを強める結果となっています。
 日本軍が敢えて従来の水際作戦を踏襲することなく、相手側により大きな損害を与えることを企図して米軍上陸後に地下要塞による徹底した持久戦を堅持する作戦を採用。
 このため米軍の上陸作戦の主力である海兵隊は当初の予想を遥かに上回る損害を被ることとなった様子が、戦争という極限状態のなかで名もない米軍将士を中心とした戦死の様子を淡々と書き連ねていくという手法により一層克明に描き出されています。
 国内初出は1966年弘文堂より刊行。

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  60 「十七歳の硫黄島」(文春新書) 
     秋草鶴次 著/文芸春秋/2006年刊行/800円 (2007/04)  

 太平洋戦争の陸上戦闘において、唯一米軍の戦傷者数が日本軍のそれをうわまったとされる硫黄島の戦い。この戦いに僅か十七歳で海軍通信兵として加わり重傷を負いつつも5%未満の生存者の一人となった著者自身の手記。当時の手記そのままではなく後年記憶や公開された関係資料を基に書き加えたものであるため、現代史の史料としては些か扱いにくい性格もあります。然し戦うべき武器・弾薬どころか食料さえもなく指揮系統を喪失し組織的戦闘が困難となった以降も降伏せず餓死・戦病死していった多くの兵士の姿が様子が偲ばれます。日本軍の将兵の無念さ、生に対する渇望が今なお伝わってくる、まさに涙なくしては読みすすむことのできない余りにも悲惨な戦争体験の記録であります。
 この硫黄島、そして沖縄と続く多くの尊い生命が失われた島嶼での戦闘が、後の米軍による原爆攻撃への遠因となった可能性につながることを考え合わせると複雑な心境となります。彼らの犠牲の意味をどのように評価すべきか、あるいは歪んだ国家権力に翻弄された僅か数十年前の歴史の持つ意味を含めて改めて問い直すべきなのかもしれません。

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  59 「バカ殿様こそ名君主」(双葉文庫) 
     山本博文 著/双葉社/2005年刊行/571円 (2007/03)  

 近世史料を専門家の著書である「武士は禿ると隠居する」(2001/双葉社)を加筆訂正したもの。下記の著作と比べると著者自身も語っているように史料的な実証性を欠く傾向は否めないことは事実。然しその一方で気軽に江戸時代の歴史にさほど関心がなくても当時の支配階級である武士の暮らしぶりに接するには飽きさせない分かりやすい内容構成となっています。
 巻末の幕府・藩の職制、時刻の表示、尺貫法換算表、通貨、将軍在位一覧表、用語集などは文庫の付録としてはかなりお得な情報。

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  58 「日本の一級史料」(光文社新書) 
     山本博文 著/光文社/2006年刊行/700円 (2007/03)  

 著者は近世史料を専門分野とする東大史料編纂所教授。かつて長州藩江戸お留守居役の福間彦右衛門の日記である「公儀所日乗」を元に著述した「江戸お留守居役の日記」(講談社学術文庫)で第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した経歴の持ち主。
 このため一瞥したところでは難解で面白くなさそうな日記・記録などの史料に関する話題が一般向けの新書ということもあり、大変に分かり易くかつ読者に史料に対する興味・関心を抱かせるという目論見にも殆ど違和感を感じません。「細川家文書」を始めとする地道な史料編纂に関わってきた著者の史料に対する愛情と控えめでさりげない博識の披瀝に自然な敬意を覚えます。
 史料編纂の過程で登場する「釈文」「書き下し」「翻刻」「謄写」「影写」などの具体的な意味とその役割の違いなどを再認識を喚起させてくれるとともに、文中の引用である明治期の先学、重野安繹(しげのやすつぐ)の「そもそも歴史書を編纂する材料は、古文書と日記が最上の史料である」との一次資料を重視する基本認識の正しさを改めて痛感します。巻末付録の近世資料に関する史籍解題も読者に対するきめの細かい配慮として役立ちます。

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  57 「偽書武功夜話の研究」(新書Y) 
     藤本 正行・鈴木真哉 著/洋泉社/2002年刊行/780円 (2007/03)  

 1980年代末から現代に至るまで国営放送局の大河ドラマや著名作家の作品に大きな影響を与えた「武功夜話」(「前野家文書」)に対して在野の戦国史研究者がその偽書としての可能性を徹底的に検証した好著。墨俣一夜城の虚構を「築城史料」からその縄張りの構造の非合理性を追求していく過程は圧巻で強烈な説得力を感じます。
 疑問の余地が大きくかつ後世の聞書きとされるような史料を画期的な新発見としてセンセーショナルに取り上げた出版社。・新聞社・放送局・歴史学者の責任は重く、未だ「戦国時代の一級資料として」その社会的な影響力が再生産されているという現実をみると恰も石器の捏造事件の構図を想起させられます。
 原史料の一日も早い公開と史料としての多方面からの検証が改めて求められると考えられます。

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  56 「戦国10大合戦の謎」(PHP文庫) 
     小和田 哲男 著/PHP出版/2004年刊行/457円 (2007/03)  

 著者は NHKの「その時歴史は動いた」などのゲストとしてよく登場する方ですが、事前の予想に違わず引用・出典の曖昧な個所が目立ち些か気になることもしばしば目にします。
  一般向けに書かれた内容であればこそ、歴史を語るからには引用文献などの出典を明確にしその学術的な評価を明示することが肝要かと思う次第です。
 具体例のひとつとして、有名な桶狭間の合戦についてまず旧来の定説であった迂回奇襲説を否定。 然し太閤検地の石高による今川・織田両軍の戦力分析を示しながらも、何故か従来の戦力比をもとにして「正面からの奇襲戦」というやや不可解な見解を提示。 しかし合戦後の論功行賞における簗田出羽守の情報収集に関する戦巧の記述についても、その出典(「備前老人物語」か)を明示せず文献としての評価を行わないなどの曖昧な姿勢。
  また有名な永禄4年の川中島の合戦時の武田・上杉両軍の戦死者数を多少割り引いてはいるものの合計8千人とする見解も甚だ疑問に。 仮に同数程度の損害を出しているとすれば当時の人口などから考慮しても最早軍役体制が崩壊するのみならず領国の維持さえ困難なほどのダメージとなるはずです。
  然し武田氏、上杉氏の双方とも翌年には上野や武蔵に派兵しているという歴史的経緯を考慮する限り、この数値には俄かには信じがたいものがあります。
  なお、単行本(1995)から文庫化(2004)されるにあたり所要の加筆訂正なども行われていない模様。

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  55 「戦国時代の大誤解」 鈴木 真哉 著/PHP出版/2007年刊行/700円 (2007/02)  

 今までの著作の中から美味しい部分を抜粋したような内容で、病院での待ち時間や電車の中などで気軽に読むには誠に好都合な47の項目から構成され、ひとつのエピソードがちょうど電車一駅分に匹敵するような体裁かと思われます。
 著者自身が前書きで述べているように、戦国時代を中心とした時代考証を無視したようなNHKの大河ドラマでの虚構を正していくという展開。然し残念ながらこれといって目新しい内容は見当たらず、また編集の都合上からかも知れませんが、余りにも多くのエピソードを詰め込みすぎたために個々の内容が要約されすぎた観も無きにしも非ず。大河ドラマ「風林火山」をあて込んでの「コバンザメ○○」の影が見え隠れしてしまうのは穿ち過ぎなのでありましょうか。

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  54 「山本勘助」 平山 優 著/講談社/2006年刊行/720円 (2007/02)  

 後世の近世以降に脚色された虚像を排し、あくまでも「甲陽軍鑑」に描かれた山本勘助の記述を丹念に調べ上げた労作で、山本勘助の実在・否実在論議よりも、そこに描かれた「山本勘助像」から何を読み取るべきかという方向付けを示す著作となっている。「軍師」としての山本勘助ではなく、あくまでも「足軽大将」としてのまた、「市川文書」に登場する「山本菅助」についてその文書の背景を詳細に解説すると共に、「山本勘助のモデル」としての可能性の高いことも示唆。
 「陣形」を含む布陣、「城取」(城郭の普請)の極意などの記述も多く、「城郭関連本」というべき内容も加味された内容でもあり新書価格ということもあり誠にお買い得な一冊。ちなみにこちらの著者の方は直接の面識はありませぬが当方の知りあいの知りあいにて..けっして身贔屓ではなく、下記の笹本氏の著作と比べて遥かに読みすすみやすい構成でより共感を得られる筆致となっています。

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53 「軍師 山本勘助」 笹本正治 著/新人物往来社/2006年刊行/2000円 (2007/02)  

 「甲陽軍鑑」に描かれた軍師山本勘助の存在に懐疑的な立場からの視点で著述されたものの代表作といってよいかもしれません。「甲陽軍鑑」により、その実在も含めてデフォルメされた人物が大河ドラマの主人公となっているという社会状況下において、「甲陽軍鑑」の矛盾した記述、明確な誤記などについて実例を挙げて整理していくという手法は誠に手堅く興味深いものがあります。
 このため読み進むにつれて武田信玄のカリスマ性を脚色するために「甲陽軍鑑」のなかで創作された非実在の人物というイメージが極めて濃厚な印象となってきます。
 結論としては徳川家康が唯一大敗した「武田信玄」の偉大さを、より脚色するために創作された架空の人物ということになるようです。武田氏研究の第一人者と評価されている方なので、学術的には一定の正当性を有するものと頭では理解しているものの、実証的な文献史学としての性格を前面に打ち出す余り、読み手にとっては想像力をかきたてるような要素に欠ける部分があるように感じられました。また、傍証する材料を欠くとはいうものの、「市川文書」に登場する「山本菅助」についての言及がやや不足している向きもあるようにも思われました。

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52 「鉄砲と戦国合戦」 宇田川 武久 著/吉川弘文館/2002年刊行/1700円 (2006/11)  

 火縄銃などの古銃研究の第一人者である著者が鉄砲の砲術とその流派、製造技術などのメカニズムについて考証した好著。これよれば我国で幕末まで3世紀もの長期間にわたり火縄銃が用いられたのは、一発必中の武芸として伝えられていったことによるものであり、火打石などの装填容易な銃よりも発射時の衝撃が少なく命中精度の高いことが求められたとのこと。
 なお、タイトルに「戦国合戦」と付してあるのは出版社の営業上の理由かもしれず、戦国期の鉄砲の伝播や流派についての記述はあるものの、戦国期の合戦そのものについての記述は少ないようです。
 敷衍すればこうした火縄銃を武芸として捉えるという発想は、工業技術力の問題があるにせよ、あくまで命中精度を優先し38式歩兵銃に拘泥したその後の旧陸軍の銃器に対する考え方の基本に繋がっていったのかもしれません。

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51 「日本軍事史」 高橋 典幸ほか 共著/吉川弘文館/2006年刊行/4000円 (2006/10)  

 弥生時代末期から現代に至るまでの兵力の動員と物資の調達を中心にすえた我国の軍事史の通史ですが、通読するよりも必要個所だけを参考にするという読み方の方が頭に入りやすそうです。太平洋戦争の兵器の開発と戦国時代の兵力の動員や装備の間には明らかに大きな隔たりが感じられます。
 読了しているこの時点なおいては、類書が殆どないだけに比較対照が困難であるため評価が難しいところですが、4人の共著という性格上から焦点がいまひとつ絞りきれていない観は否めないような印象もあります。

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50 「土一揆の時代」 神田 千里 著/吉川弘文館/2004年刊行/1600円 (2006/10)  

 15世紀を中心に畿内地方で頻発した土一揆。正長の土一揆、嘉吉の土一揆などそれぞれの土一揆により守護、幕府側対応も異なり、民衆蜂起の側面もあれば下級武士階層による強訴・略奪、さらには幕府内の権力闘争と関わっている事例もあるとのこと。40年以上前に高校の日本史の教科書に記述されていた説明とは大きな隔たりが。
 当時は全共闘全盛の世相を反映し、中世の民衆による支配者の圧政に対する階級闘争としての評価が底流にあり、やがては山城国一揆などの当時の封建支配機構に対する大規模な民衆の解放闘争のような捉え方をする潮流が支配的であったように記憶しています。
 さて、当時土一揆の向かう先は主に土倉、山門(荘園領主)などの当時における金融資本側。
さしずめ、現代の消費者金融と銀行業界といった所でしょうか。土倉、山門側も防衛のため幕府に政治資金(賄賂)を渡し軍事的な援助を要請し、徳政の限定やその施行に歯止めをかけるべく奔走..
 この辺りは現在の銀行業界を含む消費者金融業界と政界の繋がりのルーツのようで大変興味深いものがあります。それにしても、テレビのCMを見ていて腹が立つのは「ご利用は計画的に」「借りすぎにご注意」などの内容。大体において金銭感覚が計画的な人間は消費者金融を利用しません。クレジットカードの使用にしてもリボルビングなどは使わずに1回払いを厳守するはず。通常の消費者金融のCMを含めて自粛し、その分利息を下げるとか、所謂グレーゾーンの金利を撤廃するのが本来的社会正義というものであるはず。
 最近、債務者の自殺により生命保険で資金回収している実態が告発され次第に明るみに。告発し正すべきは、消費者金融に資金提供し直接は手を汚さずに利鞘を稼ぐ銀行業界の姿勢と政治資金としての還流のため動きの鈍い政界。金融業界の利潤を生み出す仕組みと政界の癒着の構図が、これだけ明確になりながらも、「土一揆」を起こさずに「自己破産」「民事再生」「自殺」による手段しか多重債務の呪縛から脱出する方法を持たない我々庶民の置かれた状況に関しての歴史的評価は、後世において果たしてどのように記述されていくのでしょうか。
 現在の我国に、北朝鮮のその独裁的な政治体制を批判しうる「民主主義国家としての矜持」が本当にあるのかどうか、「温故知新」の例えの如く小生にとってはそんな疑問を提起してくれる本です。

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49 「信州史ノート 戦国大名と信濃の合戦」 笹本 正治 著  一草社
 2005年刊行 1600円(2006/08)
 

  下記の「実録・戦国時代の民衆たち」の姉妹編とのことですが、ソフトカバーのため低価格。戦国時代の武将の中でも人気ベスト10には必ず登場するであろう武田信玄、上杉謙信の事跡と、かの有名な川中島の合戦の様子と共に、後北条氏を含む三大国の間で懸命にその生き残りをかけた真田昌幸を始めとするその一族の活躍などが記されています。このため、大変分かり易く興味を惹かれる一版向けの内容となっています。
 ただし近世初頭に武田氏の遺臣の子である小幡景憲により編纂された軍学書「甲陽軍鑑」に記された永禄4年(1561)の合戦の内容には多くの疑問が存在し、この記述について格別の注釈も無く引用されている点が気になります。
 「甲陽軍鑑」では、第一に上杉軍の人数が始めから絶対的劣勢であること(武田勢2万に対して1万2千)。謙信は同年3月関東を席巻して後北条氏を小田原城に包囲し、鶴岡八幡宮にて関東管領職を正式に受けて以後上杉氏を名乗っています。
 こうした謙信の威勢からすれば、関東の中小領主の帰趨の不安定さ、後北条氏と武田氏が甲相同盟、地理的な問題などが存在するにせよ川中島へ向かった軍勢は信玄との全面対決を行うには余りに少なすぎます。第二に両軍の戦死者が8千人(武田勢4630人以上、上杉勢3470人)、負傷者に至っては1万7千人(武田勢7500人、上杉勢9400人)とも記されていること。
 これでは合戦に参加した全員が死傷したに等しく、上杉側は計算上では壊滅以上の人的被害となり関東管領どころか越後の国主にさえとどまることさえ不可能な軍事的敗北となってしまいます。
 しかし、謙信は同年の11月、12月に武蔵、上野へ越山し再び後北条氏、武田氏と争っていることから考えると、その人的被害は常識的に考えれば恐らく10分の1未満でほどに過ぎないのではないかと推定すべきなのかもしれません。

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48 「歴史の闇に消えた 実録・戦国時代の民衆たち」 笹本 正治 著  一草社
 2006年刊行 2190円(2006/08)
 

 信濃・甲斐・越後の戦国時代に生きた一般民衆に関する生活の実像を分かり易く記述した労作。戦国時代の不順な気候と頻発する地震台風などの自然災害、戦乱の犠牲者としての民衆の実態、金山衆・番匠・杣や大鋸などの林業従事者の活躍、木綿・蕎麦・里芋の栽、培山の幸などの各種の産物、物流経済と商人たちの活動、善光寺、諏訪神社、戸隠神社などの信仰のあり方と政治権力との関係、民間信仰・占術などの民俗等の各分野わたる内容が記されています。
 なお、著者は「信濃」「甲斐」地方の中世後期の戦国史を専門とする歴史学者。

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47 「戦国北条一族」 黒田 基樹 著  新人物往来社
 2005年刊行 2800円(2006/07)
 

 刊行した出版社からも推察できるように、あくまでも一般向けの後北条氏5代の人物とその事跡を記述した通史として記述されています。しかし、本来は関東の戦国時代の領国支配などをテーマとした若手の歴史研究者であるために、やや専門的な色彩もあり所々に文章表現の固さなどが感じられます。
 このため後北条氏入門のつもりで読み始めると、多少面食らう可能性も無きにしも非ずの感があります。
 しかし、後北条氏一族に関する著者の最新の研究成果が随所に反映されていることから、戦国大名としての後北条氏を知る上ではまさに必読書のひとつです。
 なお、主要事項・人名の索引と関係年表などが巻末に付されていれば、小生のようなレベルのものにとっては申し分が無いのですが。

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46 「合戦の日本地図」(文春新書)武光 誠/合戦研究会 著  新潮社
 2003年刊行 790円(2006/07)
 

 源平の合戦から幕末の戊辰戦争に至るまでの北海道から九州を舞台にした広範な各地で戦われたとされる20の合戦について概説したもの。
 「中富川の合戦」「摺上原の合戦」など、全国的にはさほどは著名とはいえない記述内容に着目する部分もありますが、全体として通説に従う部分が多く見られることもあり、見新しさには欠ける感が。また合戦の勝敗を決定付ける要因の一つに現代でいうところの「県民性」を挙げている所がしっくりとこないといったような印象があります。また、
 源平の合戦と戦国時代とでは合戦は同じ合戦という名がついてもその史料の多寡や性格に大きな相違があるとともに、その軍制・兵器・合戦の形態に大きな差異があると考えられますので、そうした側面からはやはり時代区分を明確にした編集が求められるのではないでしょうか。
 また第7章の「日本の合戦は、強者が力ずくで弱者を滅ぼしたり屈服させて奴隷化するものでない」という記述は藤木久志氏の「飢餓と戦争の戦国を行く」 「雑兵たちの戦場」(ともに朝日新聞社刊)などの研究動向をどのように評価しているかについて気にかかるところでもあります。

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45 「徳川将軍家の十五代のカルテ」(新潮新書)篠田 達明 著  新潮社
 2005年刊行 680円(2006/06)
 

 徳川幕府歴代将軍15人の主な病歴と死亡原因などを推定したやや変わった傾向の内容。かつて学術的な調査により明らかとなった歴代将軍の遺体の身長とその身長と同じ大きさの位牌(三河の大樹寺)などから、歴代将軍の体格は大柄であったとの説もある8代吉宗を含めて何と全員が160cmに満たないとのこと。
 現代ならばさしずめ中学1、2年生程度の体格に相当し、これでは確かに威厳には欠ける傾向がありそうです。
 更に有名な9代家重と13代家定の障害について脳性麻痺の可能性のあることを示唆。これに加えて3代家光は虚弱体質で吃音障害、4代家綱も虚弱体質で軽度の知的障害、5代綱吉は極度のマザコンでホルモン異状による小人症の疑いなどのあること。
 これでよく二百六十余年の徳川幕府が続いたものと感心しますが、もっとも将軍そのものは政治力やリーダーシップを発揮する必要はなく、政務は老中以下の幕閣がこれを掌り、将軍職としては将軍家継続のためにひたすら後継者である子づくりに専念することが求められていたとしています。
 しかしそれすらも果たせずに短命で病没する事例も少なくなく常に後継者選びには難渋していたのが現実のようです。また、当時は衛生状態の悪さや予防・治療技術が未発達のため乳幼児の死亡率が極めて高く、11代家斉は57人の子がいたにも拘らず5歳未満で死亡したのが32人とのこと。
 なお、著者は整形外科医にして作家で障害者施設の園長も兼ねていることから、障害者に対する理解の深さを感ずる部分のある反面、時折医師としての視線の高さを感じる記述が見られます。

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44 「徳川将軍の意外な裏事情」(PHP文庫)中江 克己 著  PHP研究所
 2004年刊行 500円(2006/06)
 

 徳川幕府15代の歴代将軍の知られざるエピソードを収録。「徳川将軍百話」を底本にして、より一般向けに再編集された文庫本という性格上から、史料・文献について明示している個所は殆どなく読み進むにつれて次第にストレスが...またどちらかといえば無難な通説に従った内容という印象があります。歴史的著名人とされる家康・秀忠・家光・綱吉・吉宗・家斉・慶喜以外に着目するような人物を新たに見出すことを期待していたのですが、結果的には学生の時に勉強した時と同様に残りの8名についてはやはり印象の薄さは拭えないという結果に落ち着きました。
 一般に歴史上の人物の人格・性格についてはあくまでも推量によるところが多いものと考えられますので、その人物の考え方・人格などまでは正確に伝わることはないと思われます。
 同時代に生きている著名人でさえも、その人格はおろか言動でさえも事実として正確に伝わるかどうかは疑問である場合が多いようです。
 したがってその人物が何をなしたのか、何を書き残したのかという事跡としての客観的材料と、どのような他者がどう認識していたのかという主観的材料により再構成する以外にはありません。
 このため、こうした本についてはあくまでも読み物として書かれたものという感覚で読まないと面白くはないことに気がつきました。

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43 「大名の日本地図」(文春新書)中島 繁雄 著  文芸春秋
 2003年刊行 940円(2006/06)
 

 近世末期に存在していた一万石以上の280家にのぼる大名家と、その立藩から廃藩までの経緯をダイジェストで辿った内容。18世紀中頃までの改易・減風・転封などの目まぐるしいまでの変遷、相次ぐ天災・飢饉・財政危機などの苦渋の日々を再認識。また、幕末の政治変動の対応に右往左往する小藩の悲哀も随所に。大名家単位の索引と各藩の所在地に県名が表示されると藩史小事典として便利なのですが。

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42 「江戸の旗本事典」(講談社文庫)小川 恭一 著  講談社
 2003年刊行 667円(2006/05)
 

 徳川幕藩体制を支えた旗本・御家人の実情を史料に基づき、丹念に旗本・御家人の家計、作法、家督相続、役職、大概順などを解説しています。著者は三田村鳶魚( みたむら えんぎょ )の愛弟子の一人で、在野の旗本・御家人、近世大名研究の第一人者。
 「歴史時代小説ファン必携」と副題にかかげて一般向けに書かれたものとしているものの、そのレベルはけっして低くはなく実際にはある程度の歴史的知識が求められます。旗本と御家人の区分は曖昧なところがあり、旗本とは「@家禄万石以下(おそらく「未満」の意)で、A代々、家として将軍家へのお目見えを許される家格を持つ家」との説明は明解。石高・収入の目安として一石=1両=一俵、知行高に対する年貢率は玄米で約35%、知行取り(知行地支配のプライドとその得失)、蔵米取り(知行地のない収入保障)、現米取り(収入の最低保証)、扶持取り(1人一年玄米五俵の食い扶持)などの相違点の解説も興味深いものがあります。
 またさらに、幕末の激動期に彼ら直参の大多数が、武官としても文官としても十分にその職務を果たすことができなかったその歴史的理由が見えてきます。

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41 「真説関ヶ原合戦」(学研M文庫)桐野作人 著  学習研究社
 2000年刊行 570円(2006/04)
 

 西暦2000年といえば関ヶ原合戦から400年後という節目に当たり、こうした商業的動機から刊行された文庫書き下ろしの作品です。出版の動機は別として資料を基に丹念にしかも簡潔に関ヶ原合戦なおける謎を20のテーマに纏めた力作で値段の点でもお買い得。
 通常は余り語られることの少ない上杉景勝を中心とした奥羽方面の情勢、前田家と加賀・越前方面の情勢、関ヶ原合戦の前哨戦となった大垣、岐阜方面の軍事的展開などが分かり易く説明され、それらの地域での東西両軍の石高による戦力分析など興味深いものがあります。
 また、西軍の中核として最大勢力であった宇喜多勢のお家騒動による軍事力の弱体化についての推論も実証的であり、合戦の勝敗を決定付ける要因の一つとして浮かび上がらせるなどの記述も印象的です。

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40 「刀狩り」(岩波新書)藤木久志 著  岩波書店
 2005年刊行 780円(2006/03)
 

 豊臣秀吉の行った「刀狩り」に止まることなく、近世を通じての庶民の武器所有事情から、明治初期の「廃刀令」、さらに戦後のGHQによる日本の武装解除に至るまでその実情を検証しています。著者によれば秀吉の「刀狩り」はあくまでも身分制度を安定化するための帯刀する権利の限定と剥奪であり、近世以降も庶民の武器の所有は緩やかな規制に過ぎなかったとされています。
 また庶民が大量の火縄銃などの武器を所有していても、それを頻発する百姓一揆などの闘争の手段として使用した事例は少なく、かつ支配者の側との暗黙の了解が存在していたとも指摘。自力救済の手段としての武器使用を長期にわたって封じ込めてきた国民性こそ、平和憲法9条を有する国民に相応しい姿であることを示唆しています。

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39 「戦国大名の危機管理」(歴史文化ライブラリー)黒田基樹 著  吉川弘文館
 2005年刊行 1700円(2006/03)
 

 相次ぐ飢饉そして越後上杉氏の侵攻さらに武田氏の侵攻という関東情勢のなかで後北条氏の当主となった北条氏康が実施した領国経営のための検地、村請制度、公事赦免令、構造改革、撰銭の横行に対する通貨安定対策、徳政令、軍役改革等について検証しその領国経営の実態を明らかにした労作。

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38 「武田信玄像の謎」(歴史文化ライブラリー)藤本 正行 著  吉川弘文館
 2006年刊行 1700円(2006/02)
 

 武田信玄の肖像として、長い間信じられていた高野山成慶院の所蔵する絵画について、描かれている家紋、髷、絵師の落款、構図などの様々な要素からこれを別人の肖像画であると結論付けた著作。
 美術関係者を中心とした従来の主張に対して徹底的な批判が加えられている部分が多く、やや興味をそがれてしまう印象がありますので、武人肖像画の観賞の手引きとして読んだほうが面白いかもしれません。

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37 「絵解き戦国武士の合戦心得」(講談社文庫)東郷 隆 著  講談社
 2004年刊行 495円(2006/02)
 

 戦国時代の組討に始まり、鎧の構造とその防御性能や弱点、弓・鑓・刀・鉄砲の種類とその取り扱い、切腹の作法などに至るまで詳しくビジュアルに解説したもので、考証についての荒さに目をつぶればエンターティメントとしては実に楽しめる内容となっています。

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36 「後北条氏」(有隣新書)鈴木良一 著  有隣堂
 1988年刊行 1000円(2006/01)
 

 後北条氏5代の100年間にわたる通史の形をとった一般向けを意識した著作ですので、もちろん最近の後北条氏研究に関する成果は反映されていませんが、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の事蹟を始めとして、相模・武藏地域の支配の様子が分かり易く記述されています。
 全体として所領役帳、軍制、在地支配などに重点が置かれる半面、早雲の出自に関してはさほどの重要課題でないとして棚上げするなどのやや強引とも思われる部分もあります。
 もとより読み物としての面白さを期待する内容ではありませんが、個別化、専門分化する歴史研究に対する疑問を解消するという視点からも通史としての叙述の重要性を再認識しました。

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35 「戦国大名の日常生活」(講談社選書メチエ)笹本 正治 著  講談社
 2000年刊行 1700円(2006/01)
 

 甲斐武田氏の信虎、信玄、勝頼三代の歴史と領国支配の実像を一般向けに解説したもの。軍制、公租、経済・流通、家族関係、宗教、甲州法度など多方面にわたっています。
 ほかに躑躅ヶ崎館、新府城の歴史的経緯やその縄張りについても簡潔に記され、特に従来の定説では武田滅亡の直接の契機とされた新府城普請の戦略的合理性について勝頼の判断のその妥当性を語る部分は注目に値します。
 また、諏訪社、善光寺などの宗教的権威を自らの支配機構に取り込んでいく過程も興味深いものがあります。
 徳川氏が最終的に戦国の覇者となり、その過程で多くの武田家旧臣を徳川氏の家臣団に吸収し、小幡景憲が編纂したとされる信玄の活躍をクローズアップした「甲陽軍鑑」が江戸時代の軍学の代表的なテキストとして評価されたこと、神君家康が生涯一度だけ大敗した相手が三方ヶ原の信玄であったことなどにより信玄のカリスマ性はより高まったとし、その分、前後の信虎や勝頼が不当に低い評価が与えられることとなったとも。
 研究者としての立場を堅持しつつも、戦国大名武田氏に対する著者の愛着が伝わってくる内容です。

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34 「足利直冬」(人物叢書)瀬野 精一郎 著  吉川弘文館
 2005年刊行 1700円(2005/12)
 

 観応の擾乱、南北朝時代の混乱期に突如として歴史の表舞台に現われ、そして去って行った足利尊氏の長子とされる足利直冬の個人伝記です。
 直冬は尊氏の妾腹の子として諸説はあるものの嘉暦2年(1327)に生まれ応永7年(1400)に死去したとされるとのこと。尊氏からは遠ざけられ叔父の足利直義の養子となり南朝方の軍勢との戦いで軍功をあげ、正平4年(1349)長門探題として西国に赴くも、尊氏父子との不和から奇襲を受けて九州へと逃れます。その後、南朝方の征西府や守護層・国人層の複雑な対立の構図の中で、少弐頼尚などをはじめとして九州国人層の支持を集め、正平6年(1351)には尊氏より一時的とはいえ鎮西探題の職に任じられます。
 しかし、翌年の正平7年(1352)には尊氏方である一色氏と征西府方の攻撃により長門豊田城に脱出をはかり征西府などの南朝方と提携し大内氏、山名時氏、石堂頼房などの勢力を味方に付けて京都への上洛を画策します。
 その後一時は上洛を果たすものの、正平10年(1355)には尊氏父子の軍に破れたため、石見へ退去し石見・安芸で勢力の回復を図りますが、大内氏、山名氏の離反により政治的影響力を失い石見の吉川氏などの庇護の下で隠遁生活を送り74歳で死亡したということです。
 なお、直冬の直孫と推定される足利義将・義尊兄弟は、何と100年後の嘉吉の乱(1441)で赤松満祐に擁立されるものの、衆寡敵せず幕府軍に敗れて誅殺され直冬の直系は断絶しました。
 尊氏の子である2代将軍嫡子義詮が37歳、初代鎌倉公方となる足利基氏が28歳という短命で死去したことと比べて、尊氏からは子としての認知がなされなかった直冬が当時としてかなりの長命であったというのは運命の皮肉かもしれません。
 しかし、肉親の情愛に恵まれず実の親兄弟と争い敗れ、歴史の表舞台から消えたあとの40年間の人生と云うものはどのようなものであったかと考えると、著者も指摘するように直冬への同情が湧いてきます。

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33 「南朝全史」(講談社メチエ)森 茂暁 著  講談社
 2005年刊行 1500円(2005/12)
 

 大覚寺統、持明院統の用語のみ辛うじて記憶の片隅にある程度の予備知識しかなかったため、北条氏がその実権を掌握していた鎌倉幕府が天皇家の皇位継承に深くかかわっていたという基本的知識も記憶の彼方となっていた始末。あわせて両統の天皇の御名が全くといってよいほど頭に入っていないため、実際のところ相当に時間を要しました。
 後醍醐天皇が大覚寺統の庶流であったことというのは意外な印象でした。軍事的に弱体な南朝側が何故かくも60年の長きにわたって存続していたかという最大の問題について著者は@後醍醐天皇の親王派遣による地方の南朝勢力の拡大政策がそれなりに成果を挙げたことA悪党・海賊・山賊の組織化して与党としたことB観応の擾乱に代表される幕府内部での権力の分裂のあったことC足利政権に鎌倉幕府以来の両統迭立政策が継承されたことをあげています。
 なお、欲を言えば正中の変、元弘の変、護良親王の事蹟、懐良親王の征西府などのいわゆる通史的な記述についても欲しいところです。
 昨今、皇位継承問題に関連して皇室典範の改正にあたり各界の知識人が苦慮していたというのは尤もなことであると今更ながらに感じた次第です。ちなみに宮内庁のHPでは現在でも南朝を正統としていました。

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32 「いくさ」福田 豊彦 編著  吉川弘文館
 1993年刊行 2200円(2005/11)
 

 「中世を考える」と云うシリーズの中の一冊。主として武士の発生から中世前半までの「いくさ」について、甲冑と弓矢、日本刀などの武具、軍制、合戦の儀礼、武家故実などを始めとしてこれに対する民衆のかかわり方としての逃散・動員・いくさ見物・積極的関与などの様々な様相を描く名著であると考えます。
 また特殊な戦い方である船戦の歴史やその形態や戦法についても詳述されています。しかし残念ながら、読み手側に読みこなすだけの知識を中心とした力量が不足しているため、各執筆者の担当しているテーマ同士が頭の中で繋がりにくく、「いくさ」を通じての中世社会の実情が鮮明には浮かび上がってはきませんでした。
 史料的な制約の所以だとは思いますが、戦いに加わっている兵力の数量的な分析が殆ど見られないことも残念な部分です。

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31 「保元・平治の乱を読み直す」元木 泰雄 著  日本放送出版協会
 2004年刊行 970円(2005/11)
 

 保元・平治の乱は上皇による院政や藤原氏を中心とした摂関家という二大権門による古代王朝末期の政治構造の終焉であり、一部の貴族の武門化を挫折させ平氏政権への道を開きその専横は、地方の武士階層の所領をめぐる争いの種を生じさせ、やがて源頼朝を頂点とする全く異質の東国武士政権誕生への幕開けとなったと指摘しています。
 保元の乱で敗北した左大臣藤原頼長、崇徳上皇、源為義、同じく平治の乱で敗北した藤原信頼、源義朝、あるいは一時的に院の実力者となった信西など数多くの人物が登場し掲載されている系図をあちこち参照しながら何んとか読み終わりました。
 院政の象徴的存在のように思われる後白河法皇が、実際にはまさかの皇位継承によるものであったという説は興味深いものがありますし、また久寿2年(1155年)のローカルな武藏国大蔵館の源氏同士の戦いが、実は京都の政治情勢が反映したものであったということが大分見えてきたような気がします。

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30 「弓矢と刀剣」(歴史文化ライブラリー)近藤 好和 著  吉川弘文館
 1997年刊行 1700円(2005/11)
 

 古代末期の前九年の役から治承・寿永期の合戦における戦い方の実像を「今昔物語集」「平家物語」「源平盛衰記」などの文献や現代に残されている当時の武具等から明らかにした労作です。
 馬上からの騎射は馳射よりも静止して矢を射る場合の多かったこと、接近戦での太刀の攻撃方法はその切れ味ではなく、さらに刺突でもなく甲の鉢金を上から叩いて脳震盪を起こさせるという攻撃方法であったこと、また所謂一騎打ちは濃く稀な例外として行われたことなどを明らかにしています。 当時の大鎧についての具体的な構造についての記述は大変興味深いものがあり、その30キロ近い重量のため移動の手段として騎乗せざるを得ないこと、騎乗することにより草摺の構造から大鎧自体の重量を乗馬に分散させることができたなどの説明は理解しやすいものがあります。したがって合戦絵巻などに登場する大鎧の騎馬武者の動きが実はかなりゆったりとしたもであったことが浮かび上がってくるようです。
 ただ、記述全体として背景となる時代が前後する部分が目立つため歴史的な流れを掴みにくい側面があることと、当時の軍功に関する資料に基づいた合戦の実像に照らした視点を欠いていることがやや気になるところではあります。

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29 「源平合戦の虚像を剥ぐ」(講談社選書メチエ)川合 康 著  講談社
 1996年刊行 1600円(2005/10)
 

 源頼朝を中心とする東国に本拠を構えた軍事貴族を頂点とした反乱軍として捉えるという視点からして読者を引き込んでいく書き出し。また石橋山の小競り合いで敗れた源氏の末裔の一人に過ぎない頼朝になぜ共に関東平氏の名族である上総介広常や千葉常胤の上総・下総の万余の大軍が参集したのかという問題は大分以前から気になっていました。
 源頼義や義家の時代である100年以上も前のかつての主従関係や頼朝の貴種性だけでは到底理解できない事象ではないかと思います。著者はこの点について平清盛系統の平氏が間接的に寄与する所領争いがそうした軍事行動に繋がっていることを明らかにしています。
 東国政権の確立の総仕上げである奥州藤原氏に対する侵攻についても先祖の源頼義の奥州平定の故事を再現する中で、鎌倉殿としての軍事的動員力の誇示とと御家人層への支配強化を目的としたものであったということを明らかにしています。このような流れで捉えると、その後の承久の乱の発生は極めて必然性があったということが見えてきます。
 ただし大鎧を装備した騎兵が戦の主力であるというのは、当時の国産馬の体格が貧弱なことを示し、あわせて馳射(はせゆみ)の技術が芸能的な面さえみせるような特殊技術であることを明らかにしているにも拘らず、結果的に騎射による騎馬戦をイメージさせているという点がやや気になりました。

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28 「平家物語 あらすじで読む源平の戦い」板坂 燿子 著  中央公論新社
 2005年刊行 1000円(2005/10)
 

 前半の第一部は全く訳の分からない人はそのまま読めば良いし、少々日本史に感心がある人は楽しみながら読みすすむことができる内容です。伝承文学としての平家物語の本質やその成り立ちから発生することが必然とされる多くの異本についても手っ取り早く解説しています。
 難しいことをいかに分かりやすく解説するにはどうしたらよいのかということについてのお手本のような構成となっています。「三つの反乱と三つの戦い」に要約してしまうことの分かりやすさはまさに平家物語入門としては成功しているといえると思います。
 ところが、第2部の登場人物の比較あたりまでは何とかついていけたのですが、平重盛像についての考察あたりになると様相は一変してきますので、幾許かの文学的素養を持ち合わせていないと読みすすむスピードは大きくダウンします。(自分のことです(^^;)そうした部分を除けばわが国の古典文学における代表的な歴史物語としての魅力に関するエッセンスを提供してくれる本です。

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27 「北条早雲と家臣団」下山 治久 著  有隣堂 1999年刊行 1000円(2005/10)
 

 大分以前のこととなりますが45年ほど前の子供の時に読んだ歴史を題材にした物語風の本の中では、「北条早雲は出自もはっきりとしない素浪人で仲間を集めてなかば山賊の棟梁な身分から興国寺の城主となるといった」ストーリイが描かれていました。
 さて、約半世紀が過ぎ去った現在では後北条氏の研究も関係資料の収集編纂とともにすすみ、梁山泊の物語のような早雲のイメージは払拭されてきたものと思われますが、一般的に研究者・後北条氏のファンなどを除くとどれほどそうした研究の成果が伝わっているのでしょうか。
 さて、この著書によれば早雲は伊勢新九郎盛時という備中の荏原荘に300貫程度の所領を有する足利将軍家の直臣であり、代々将軍への用件を取り次ぐ申次衆の一人であった。また父の盛定が駿河守護の今川家との間の申次衆を務めていたことから、今川義忠の正室として早雲の姉妹が迎えられたのは至極当然の成り行きであるとのこと。更に伊豆への侵攻は幕府の実力者細川正元との連携によるものであるなど、指摘をされればなるほどと納得することが多く、今更ですが後北条氏の間違った認識を払拭することになりました。一族の北条氏綱、北条為昌をはじめ後北条氏の初期の家臣団についての解説もあり、まさに「後北条氏入門」の一冊ではないかと。
 ただし、明応2年(1493年)に伊豆の堀越公方の後継者である茶々丸を討伐する時の相模守護が39頁の図では山内上杉氏となっていますが、恐らく扇谷上杉氏の当主である定正はまだ存命していますので相模への影響力も少なからず残されていたと思われます。

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26 「後北条氏と領国経営」佐脇 栄智 著  吉川弘文館 1997年刊行 6300円(2005/09)
 

 誠に僭越ながら一言でこの本の特徴を語るならば、「後北条氏(研究)入門」という表現がぴったりの内容となっています。
 北条早雲が登場し活躍を見せる舞台となる15世紀末の武藏・相模の情勢の概観に始まり、早雲の思想とその人物像、伊勢氏から北条氏への改姓の経緯とその理由、後北条氏の軍役と知行役、田畑に対する段銭、懸銭の税制、職人集の被官・課役、貫高制に関する考察、小田原衆所領役帳の衆分類などの考察、小代官、名主など郷村支配制度についての考察などその内容は実に多岐に渡ります。
 その中で特に軍役としての貫高についての考察は、その軍事的な動員力について具体記な数値として捉えることを容易にし、戦国時代の東国における軍制・軍事史的な理解に大変参考になりました。
 また、以前において全くその意味が理解できなかった職人衆の被官化についても、職能集団として普請・作事・武器の製造などの専門的労働力を恒常的に確保することにあったということを認識することができました。

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25 「武藏の武士団―その成立と故地をさぐる」(有隣新書)
安田 元久 著  有隣堂 1984年刊行 1000円(2005/09)
 

 畠山、河越、豊島、葛西など秩父平氏の一族および足立、比企、熊谷など源氏ゆかりの一族についてその系譜、事蹟、故地などを簡潔に分かりやすく概説しています。またいわゆる武藏七党と呼ばれる横山党を始めとする児玉党、猪俣党、村山党などの同族的中小武士団についても満遍なく解説されています。
 いわば中世の武藏武士団、武藏七党の古典的入門書といえます。また、彼ら関東の武士団の存在とその活躍なくしては、頼朝による武家政権樹立もあり得なかったことが自然と頭の中に入ってきます。
 もちろん出版されてからすでに四半世紀近い年月が経過し、当然のことながら近年の研究成果などについては反映していません。また、それらの武士団の故地の現況についても宅地開発などにより大きく変貌しているものも少なくありません。
 しかし、そうした状況を踏まえて四半世紀前の史料として、或いは中世武士団研究史の視点で捉え直した場合には、決して内容の古さはマイナス評価とはなりません。

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24 「戦国時代の終焉−北条の夢と秀吉の天下統一」(中公新書)
齋藤 慎一 著  中央公論新社 2005年刊行 800円(2005/09)
 

 東国における戦国時代は応仁の乱よりも早く、15世紀半ば鎌倉公方足利氏(古河公方)と関東管領上杉氏の争いである享徳の乱に始まり天正18年(1590年)の後北条氏滅亡に至るまでのおよそ150年間を指すという。
 戦国時代の末期天正12年に秀吉は家康と小牧・長久手で対峙したが、ほぼ同じころに関東では下野南部で後北条氏と佐竹、宇都宮などの北関東の反後北条勢力との合戦が行われていた。この合戦はその地名から「沼尻の合戦」といわれていたが、歴史的な事実関係も含めて今まで余り関心が払われてはいないローカルな合戦とされていた。
 確かに、合戦そのものは長期対陣の結果和議とされ、直接的に関東の勢力関係に大きな変動をもたらすものではなかったが、中期的には由良氏、長尾氏の臣従、佐野氏の屈服など上野・下野の地における後北条氏の軍事的・政治的な勝利を決定づけるものであった。
 しかしその一方では、佐竹、宇都宮などの反後北条氏勢力は着々と秀吉との連携を強化し、秀吉の関東への武力侵入を不可避とする政治的な伏線が敷かれていったたことを解き明かしている。

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23 「後北条領国の地域的展開」浅倉 直美 著  岩田書院 1997年刊行 5145円(2005/08)
 

 北条氏邦の鉢形領の形成と支配、小前田衆、荒川衆、吉田氏による荒地の開墾・新田開拓、小島・金窪付近を領した「吉田氏系図」に関する詳細な分析検討、上野の金山在城衆に関する論述、後北条氏の滅亡の直接の原因とされる名胡桃城奪取の当事者猪俣邦憲の地位と出自に関する見解、後北条氏の郷村支配の形態と機構についてあきらかにする郡代、支城、触口、定使などに関する論文などを集めたもの。
 特に猪俣能登守邦憲に関してはその発給した判物から箕輪城主、沼田城主として後北条氏の上野支配の強化に大きく貢献していたことを明らかにしていると共に、邦憲が北条氏の水軍を率いていた富永氏を出自としていたという見解の紹介などたいへんに興味深い記述もあります。
 いずれにしても、論文集のため引用、追記、脚注などが多く、読みすすむのにかなりの時間を要し自分の歴史的知識と読書能力の絶対的な不足を改めて痛感しました。

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22 「戦国期東国の大名と国衆」黒田 基樹 著  岩田書院 2001年刊行 10395円(2005/08)
 

 戦国時代の関東を中心とした後北条氏、武田氏、越後上杉氏、古河公方などに関わりを持った比較的規模の大きい在地領主層(国衆、他国衆)について綿密な史料検討によりその実像を明らかにしようと試みた研究書です。
 扇谷上杉氏に始まり、築城当時の岩付城と関わりのあったと考えられる成田氏や渋江氏、永禄年間に武田氏の西上野支配について直接大きな関わりを持ったとされる家臣の甘利信忠、後北条氏の上野館林領支配、戦国時代初期の三浦氏、、武蔵七党丹党の流れを汲む安保氏、下総の千葉氏の重臣原氏、上野の由良氏、今川氏の没落により武田氏の家臣となった駿河の朝比奈信置、遠江高天神城主の小笠原信興、内房の正木氏、下野の佐野氏などについて詳細な論述がなされています。
 また、永禄3年(1560年)から天正5年(1577年)までの17年間にわたる上杉謙信による関東侵攻と国衆の服従と離反の繰り返しなどの動向についても簡潔に通史的にまとめられていて興味深いものがあります。
 いわゆる歴史マニア向けの一般書ではなく、数年間の間に執筆された多数の学術的な研究論文を一冊の本にまとめたものであるため、どちらかというと一定の通史的な知識が無いと読みすすむのが厳しいかもしれません。しかし、たまたま国衆とその在地支配の構図や戦国大名との相互関係、関東における古河公方の役割ないしは存在意義、越後上杉氏による関東侵入の通史的理解などに関心があったおかげで、1月近く要することとなりましたが何とか挫折せずに通読できました。
 1980年代前後に当時の豊かな財政事情などを背景として地方の時代などのキャッチフレーズに便乗する形で多くの市町村史などの地方史の編纂が行われました。そうしたなか、それらの基礎研究に携わる機会を提供され多くの若手の研究者が育成される結果となったことは、ともすると金太郎飴のような傾向のある地方史の編纂事業の別の面での学術的な意義の一つではないかと思われます。範囲の限られた専門的研究書で限定600部発行となっていますので、県立クラスの図書館でないと蔵書していない可能性があります。
  ( 埼玉県立図書館では熊谷図書館1冊、群馬県立図書館2冊、栃木県立図書館1冊所蔵 )

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21 「扇谷上杉氏と太田道灌」(岩田選書 地域の中世1) 黒田 基樹 著  岩田書院 2004年刊行 2800円(2005/06)
 

 全編書下ろしではなくすでに発表されているテーマを一冊の本にしていることもあり、各所に重複するような記述も見受けられますが、それが却って理解しやすい要素となっています。タイトルに「太田道灌」が含まれているものの、あくまでも中心となるのは15世紀の半ばから16世紀半ばにかけて相模、武蔵を支配した扇谷上杉氏とそれ以前の豊島氏、江戸氏、さらに千葉氏、江戸太田氏、岩附太田氏の動向に関しての資料に基づく丹念な記述となっています。
 参考文献や古文書などの引用が多用されているので、入門書として読み進めるのには少し無理がありますが、鎌倉公方、古河公方、関東上杉氏など14世紀から16世紀にかけての関東の地方政治史について多少の予備知識があれば大丈夫です。今まで、断片的にしか把握できていなかった部分がお蔭で少しは見えてきたように思われました。
 16世紀半ば頃太田資正が後北条氏の武州松山城を奪取し、城代として上田朝直を配置するとともに、自らは岩附太田氏の本家を継ぐという動きがありますが、当時の太田資正、上田朝直(難波田善銀の甥)、難波田善銀(太田資正の養父)などの人物関係の複雑さを認識していないと理解しにくいものがあります。また本題とはやや離れますが、太田道灌の子孫が一族から家康の側室(英勝院)が出たことを背景に、掛川5万石の譜代大名として幕閣に並ぶとともに幕末まで続いていたことを初めて知りました。
 しかしいずれにしても、どちらかというと限られた研究者、読者層を対象とした南武蔵を中心とした中世史がテーマなので限定1000部、定価2800円もやむをえない事情なのでしょうか。

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20 「戦国武将あの人のその後」(PHP文庫) 日本博学倶楽部 著  PHP 2002年刊行 580円(2005/05)
 

 それぞれの戦国武将の節目となった事件のその後の本人や子孫の行く末について記された100近くのエピソードが収録されている。
 一つのエピソードが2ページ前後に簡潔にまとめられているので駅を乗り過ごす心配もなく、通勤電車の社内でつり革に掴まり立ち読みするには格好の内容だが、物足りないといってしまえばそれまでの話しで、そうした目的のためのそれ以上でもそれ以下でもないという元々の編集方針なのだろうか。
 もっとも、山中鹿之助の子孫が鴻池の創業者だったなどいうエピソードは興味深いし、信長や秀吉の水軍として活躍した九鬼氏が家督争いで減封されたものの内陸の小藩として幕末まで続いたことなど暇つぶしの歴史雑学としては面白い。
 そういえば仕事先の古書・古美術店の目録に元九鬼家所蔵の慶長の役の陣立てに関する古文書が販売価格2600万円で掲載されており、歴史というものは意外な所で現代に繋がっているものだと改めて感心。
 もっとも贔屓にしたい戦国武将探しや、多少関心を持ってこの武将について書かれたもう少し詳しい本を読んでみたいという呼び水にはなるのではあるが。

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19 「地形で読みとく合戦史」(PHP新書) 谷口 研語 著  PHP 2003年刊行 760円(2005/04)
 

 収録された合戦は古代から関ヶ原の合戦までの50例以上にも上るので、いわゆる斜め読みをするには正にもってこいの編集内容である。
 しかし残念ながらこのために、「地形で読みとく」いうよりも、寧ろ「地形別合戦ミニガイド」というような記述となっており、収録された合戦の件数の多い分だけ、やや物足りないという印象が拭えないように思われる。
 勝手な感想ではあるが、有名無名を問わずに幾つかの限定された合戦に絞込み、布陣などの戦術を含む地形の持つ合戦における意味合いに焦点を当て、内容をより掘り下げた形にしたほうが読み応えがあるのではないかと感じた。

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18 「小田原合戦 豊臣秀吉の天下統一」(角川選書) 下山 治久 著   角川書店 1996年刊行 1300円(2005/04)
 

 主に敗北した後北条氏側の視点から見た秀吉による関東侵攻の背景を解き明かした好著。天正18年の関東の争乱が起きる8年前の信長による武田氏の領国である信濃・甲斐への侵攻、その後の信濃・甲斐の領有をめぐる徳川、後北条氏の争い、キーポイントとなる真田氏の動向、佐竹氏、結城氏などの関東の反後北条勢力などについて平易に解説してたいへん分かりやすい。
 しかし、鉢形城の攻防をめぐる記述には史実としての信憑性に疑問もあり、その辺りがやや残念な部分である。
 鉢形城の攻防については伝承による部分が多く史実として今日に伝わるものは少ないが、遺跡発掘調査などでも鉢形城においても、「大規模な攻防戦が行われた」ということを証明するような遺物は余り確認されてはいないらしく、周辺の支城である虎ケ岡城、花園城などに対する守備兵の配置状態などの状況についての言及についても資料的な点で些か疑問が残る。

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17 「なぜ日本は敗れたのか」(新書y)  秦 郁彦 編著   洋泉社 2001年刊行 780円(2005/03)

 現代史の軍事史が専門の著者による太平洋戦争における日本の戦略、戦術的敗因を検証する。大学の卒論の時に参考にさせていただいた「日中戦争」(中公新書)以来の邂逅。当時は異端視されていた現代史の視点が、現在ではニュートラルに近い存在となっており年月の隔たりを感じずに入られない。
 ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦に至るまでの敗因が軍事史的な見地から語られている。またこれとは別に、暗号と情報戦、ミッドウェーの索敵と情報判断に対する評価そして風船爆弾作戦についても分かりやすく解説が加えられている。
 戦争行為を否定することと、戦争行為を観察対象としてあらゆる科学的見地から研究・分析することとを分けて考えることが許容されるだけの時代の流れがそこにはあるのだろうとも感じた。

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16 「戦国の地域国家」(日本の同時代史12)  有光 友學 編著   吉川弘文館 2003年刊行 3200円(2005/02)

 戦国時代の大名領国制による支配形態を中世末期の混乱期における地域国家として捉え国人領主、貫高制、家臣団編成と支配機構、物流経済、情報伝達、鉄砲鍛冶と砲術、城下町の展開、惣国などの様々な視点から論及しその実像を浮かび上がらせている。
 やや専門的な内容も含まれているものの、難読な用語にルビを振るなどの工夫も施されさほど読みづらくはない。
 しかし一方で、各分野の研究者による分担執筆のため、通読には幾分不向きな趣を感じる部分もある。それぞれを独立したテーマとして俯瞰した場合には物流システム、情報伝達、都市づくりなど従来の視点にはあまり見られなかった要素が浮かび上がり、そうした部分を個別に読み返していくと自分のような一般的な読者層にも分かりやすい内容となっている。
 ただ、地域的に関東、東海、畿内、中国、九州と分散しているため、読者を飽きさせない反面、ページ数の関係で特定の地域について知識を得たいという向きには物足りないところもあるかも知れない。

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15 「騎兵と歩兵の中世史」(歴史文化ライブラリー)  近藤 好和 著   吉川弘文館 2005年刊行 1700円(2005/01)

 わが国の古代における弓射騎兵が次第に刀剣などの打物に変わっていく様子を太平記絵巻や今昔物語、平家物語、太平記などの軍記物の記述に基づき現在に遺品として伝えられている武具の解説も含め実証していく内容である。
 しかし現実に乗馬しながら3m以上の15キロもある長大な得物を振り回せるのであろうかという素朴な疑問が残ってしまい鈴木真哉氏の説を丸ごと信用しないまでも、伝わっている軍忠状の統計的結果や馬自体の耐久力を考慮すると如何なものかという感じもしなくない。
 この点について筆者はパワーリフティングの現役の選手だそうで、その運動能力を以ってすれば可能な技かもしれないという落ちがついてしまうような気がしてしまうのだが。

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14 「石田三成--知の参謀の実像」(PHP新書)  小和田 哲男 著   PHP 1997年刊行 660円(2004/11)

 北近江の土豪の出自で義に生きた悲劇の敗軍の戦国武将石田三成の足跡をたどり、その人物像を解明し弁護するという視点で記されている。三成は戦国武将というよりも豊臣政権の事務方の能吏であり、その能吏であるがゆえに福島正則、加藤清正らの反感を買い結果的に関が原で敗れたという。
 しかし、このあたりのことは一般的にも言われているようなことなので、もう少し違った角度の見方がほしいと思う一方で、遺されている記録の少なさのこともあるだろうが、佐和山の領国支配、京都の御土居、博多の町の再建などをもっと掘り下げる展開があっても良いのではとも思う。
 著者は仮に西軍が勝った場合には、執権のような立場で石田家がその地位を代襲していくものと想定している。
 たしかに果たして近世の日本は鎖国政策を実施したのか、西欧諸国の植民地政策にどう対応したのか、果ては旧徳川氏に繋がる人々による倒幕の流れはあったのか、昭和の中ごろに「石田三成」という長編小説がベストセーラーとなり時代にサラーリーマンの愛読書となったのか....などと想像は限りなく広がってゆくのだが。

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13 「明智光秀--つくられた謀反人」(PHP新書)  小和田 哲男 著   PHP 1998年刊行 660円(2004/11)

 将軍足利義輝の家臣時代、朝倉義景の家臣時代などの仔細不詳の時期から、信長への出仕以降京都奉行、坂本城城主、丹波地方の平定、「近畿管領」相当職というように出世の階段を上っていく光秀の軌跡を追う。
 そして、天正9年の馬揃えの指揮を執ることにより事実上のナンバー2の地位に着いたと著者は判断し、ポイントとなる、謀反の原因としては皇位簒奪や恵林寺の焼き討ち、暦に対する口出し、平氏姓将軍の任官を始めとする「信長父子の悪逆は天下の妨げ」という信長非道阻止説を採用している。
 読みやすさの点ではお勧めですが、オリジナルの自説が少ないなどの読み応えの点がいささか不足気味の気配を感じます。

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12 「謎とき本能寺の変」(集英社新書)  藤田 達生 著   集英社 2003年刊行 700円(2004/07)

 本能寺の変は中世から近世への転換期に起こった守旧派と改革派の構造改革をめぐる争いだった、といわれるとなんだかどこかのアジアの国の政治状況が思い浮かぶ。
 それはさておき、足利義昭は1573年の京都からの追放後も、毛利氏を背景に「鞆幕府」とも言うべき地位を維持していたと指摘し、さらに義昭を中心とした天皇・公家、宗教勢力と反信長派の大名の連携の下に長宗我部氏政策の転換、丹波・近江からの国替えの不安を動機として光秀のクーデターは決行されたと論じている。
 これらの論調に新鮮味はあるものの、その後の光秀の動向を考えると、いくら秀吉が中国大返しをしたからといって諸大名に対する懐柔策を始めとしてあまりに策が無さ過ぎ、とても有能な大名である光秀自身が用意周到に計画したものとは到底思えないものがあり、やはり一定の背景はあったにせよ、一種の発作的な単独犯の線もあるのではと思うこともできるのではないだろうか。

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11 戦国15大合戦の真相(平凡社新書)  鈴木 眞哉 著   平凡社 2003年刊行 760円(2004/06)

  戦国の戦いの実情は時代小説のようにカッコよくはない。星3つを標準とした場合、「○○の真相」と言いながらも、必ずしも真相に迫りきっていないもどかしさもあるように思うのと、時折「運」や「ツキ」で説明するところもあり減点1。
 しかし従来の定説や合戦譚を覆した解釈は興味深く、戦国の敗者として有名な明智光秀や石田三成に同情ともいうべき評価を与え、戦国の英雄とされる信長、秀吉とりわけ家康に対して厳しい評価をする姿勢には新鮮さを感じるので加点2を。
 著者がなぜこうした姿勢をとるのかということに多少関係していると思うが、あとがきに紀州雑賀国人衆の末裔であるとの記述...このコメントが楽しいのでおまけで1点。

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10 吉良上野介を弁護する(文春新書) 岳 真也 著   文芸春秋 2002年刊行 760円(2004/05)

 元禄太平の世の今風に言えば集団テロである忠臣蔵にまつわる俗説を排除し当時の根本資料に基づき事件の真相に迫っている。
 「吉良上野介は戦って死んだ」「刃傷の理由の一つとされた塩の販売をめぐる争いは無かった」「賄賂をめぐるトラブルも無かった」など、ことあるごとに悪人扱いされる主人公の「名君」としての復権はなされたのかどうかは読んでからのお楽しみということで。
 最近では赤穂浪士(善)、上野介(悪)のパターンで書かれた作品はさすがに少ないが、これに近い視点で書かれたものとしては、フィクションとしては「吉良の言い分(上下)」(岳 真也 著 2000年小学館刊行)、「吉良忠臣蔵」(森村誠一 著 1988年角川書店刊行)、「上野介の忠臣蔵」(清水義範 著 1999年文芸春秋刊行)などがあるが、個人的なお勧めは清水義範氏の作品が面白い。

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9 信長の親衛隊--戦国覇者の多彩な人材(中公新書) 谷口 克広 著   中央公論新社 1998年刊行 760円(2004/07)

信長の天下統一を支えたとされるなかば無名の側近たちが主役であり、信長政権を行政、外交、軍事などの各分野で献身的に支えた近習(馬廻り衆、小姓衆の一部と著者は言う)と呼ばれる人々の実像とその業績を丁寧にたどる内容となっている。
 他方、タイトルだけ読むと勇ましい戦記もの?だと誤解されかねない側面もあるが、巻末に人名辞典の掲載があり、登場する彼らの多くは著名な信長の有力武将達とは異なり、生没年さえも不明な人物も少なくなく「その他大勢派」にどっぷりと漬かっている人間(自分です...)にとっては愛おしささえ感じてしまう。
 合戦で斃れる者、病で早世する者、一部の「幸運な者」を除き結果的に彼らの多くは本能寺で信長と運命を共にしたが、信長政権の柱石として活躍した「無名の者たち」に敢えてスポットを当て、彼らへの鎮魂歌としているようにも思えてくる「作品」でもある。

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8 織田信長合戦全録〜桶狭間から本能寺まで 谷口 克広 著 中央公論新社 2002年刊行 円(2004/06)

 織田信長が関与した約30年間にわたる合戦の実相を「信長公記」などの信頼できる資料から解説した労作である。
 著名な合戦であっても意外と信頼できる資料が少なく、その実態が分かっていない場合が多いとともに信長が多くの合戦の中で最も苦労したのはのべ十年間にも及ぶ本願寺を中心とした一向一揆との戦いであることも改めて知らされる。
 またすべての合戦において、このようなすばやい情報に基づく正確で迅速な判断と行動をとる信長が一体なぜ本能寺で横死してしまうようなこととなったのかということが、ますます以って分からなくなるような気もしてくるのである。

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 7 「鉄砲隊と騎馬軍団〜真説・長篠合戦」 鈴木 眞哉 著 洋泉社 2003年刊行 720円(2004/06)

 長篠の合戦は歴史的戦術革命ではなかったという結論に至るまでの具体的な論証が示されており、また当時の馬は荷物運搬程度の駄馬であり、無敵の武田騎馬軍団は物理的に存在しなかったとしている。
 織田信長が考案したとされる3000丁にも及ぶ組織的な火縄銃三段打ちは臨時編成の鉄砲隊では技術的に不可能であり、元来織田・徳川連合軍の方が武田の3倍ぐらいの兵力があり、かつ十分な野戦築城を行っていたので結果としてそうなったのであって、世情に言うような目覚しい戦術革命でもなんでもなかったということを資料統計に基づき立証....(少しくどいと感じなくもないが)
 私見ではありますが、歴史のロマンはなくなるが、この考え方の正当性は300年後の幕末における長州征伐、戊辰の役などの銃器に対して刀槍で対抗した徳川方の惨めな戦い方が立証しているともいえるのかも知れない。何よりも長篠の勝利者である徳川家が、それらの戦術を家訓としていないはずがないし、近世軍学に対して何の影響も与えていないこともその傍証となるのかもしれない。

 
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6 「目からウロコの戦国時代」 谷口 克広 著 PHP 2003年刊行 619円(2004/06)

 歴史的事実ってあてにならないという50のエピソード。1話が4,5ページなので文庫サイズであることを通勤電車の車内で読むのに最適な一冊。戦国時代の戦いは武田信玄や上杉謙信を始めとして庶民に対する乱暴・狼藉・略奪・放火が常識だった....。桶狭間の合戦は奇襲ではなくあくまでも正面攻撃であった....。しかし引用している鈴木真哉氏の合戦方法(通常接近戦は行われず、騎馬も下馬して弓矢・長槍による間接的な戦闘が中心であった)を考え合わせると戦い方の様相自体について従来のイメージを大きく変えざるを得ないことになる。

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5 「真説・川中島合戦〜封印された戦国最大の白兵戦」 三池 純正 著 洋泉社 2003年刊行 720円(2004/08)

 「甲陽軍鑑」「川中島五度合戦次第」 などについて、その作成された経緯から歴史的資料としての信憑性を否定し、現地の調査を中心にして栄禄四年の激戦といわれた四度目の川中島の合戦の実像を再現している。川中島の合戦の背景は慢性的な飢饉に悩まされた甲斐の領主武田信玄の海沿いの土地への進出をベースにした善光寺平の権益を巡る国境紛争としての性格を有していた。また、その激戦は両軍が善光寺街道を南北から移動する間に偶発的に鉢合わせした結果であるとしている。
 また、当時の戦国大名はおよそ他国の侵略から配下の領主・領民を擁護することがその第一の使命であり、合戦において多数の戦死者を出すことは取り返しのつかない軍事力・経済力の喪失を意味し、領国の崩壊、大名としての立場を失うことであった。いわゆる「定説」にある謙信の妻女山への布陣は、当時の武田方の城砦の配置状況から見てありえない不可能なことであり、結果として多数の戦死者が発生したことは両軍の戦史における大きな汚点であった。このため激戦とされるこの合戦の資料・文献はあえて存在することが許されず双方の歴史の汚点として闇に葬られたのであると結論付けている。
 長年の現地調査の成果として纏め上げられた内容であり、定説を覆す着眼点には興味深いものがある。ただ、あえて言うならば必要以上に他の研究者の引用が目立ち、もう少し明確に自説としての展開があっても良かったようにも思う。

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4 信長の戦争〜「信長公記」に見る戦国軍事学(講談社学術文庫) 藤本 正行 著 講談社 2003年刊行 1000円(2004/08)

 「信長公記」伝本の徹底した研究調査により「信長公記解題」の様相を呈する序章をベースに桶狭間の合戦から長篠の合戦までを従来の定説を排除し良質な資料に基づく新解釈を世に示した好著の復刊。然しそこで敢えていうならば、「信長公記」が桶狭間の合戦年を「天文21年」(1552年)と「記述を誤っている」ことに対して、単に「永禄3年(1560年)の誤り。後世の加筆であろう。」と簡単に処理している点が疑問として残ります。
 つまり、著者自身が言うところのドキュメンタリー作家たる太田牛一が、桶狭間の合戦の年を間違えるのは極めて不自然な考えられない誤記であろう。寧ろそこに何らかの意図・事情が介在していたと見るべきでは。今ひとつは、今川方と織田方の兵力の格差である。近世大名配置等によれば駿河・三河・遠江の三国合わせて石高約80万石、豊かな濃尾平野と貿易港を有する尾張は約65万石である。当時の兵農未分離の状況の中で輸送部隊を含めた動員力は一万石あたり、3百人程度とされるので、今川方2万4千人織田方1万9500人となる。
 しかし武田・北条と三国同盟中であるとはいえ、今川方も後方の備えのため6割が遠征したとして1万4400人、同様に織田方も1万1700人となる。当然敵国美濃と接する織田方が後方の備えがより多く必要であることは否めない。しかし、今川方は駿河からの遠征軍のため輸送隊の割合が高くなるはずであり、その分実戦部隊の割合は低下することとなる。その一方で織田方はほぼ自領での戦闘なので多くの荷駄を必要とはしないはずである。
 したがって、大目に見ても今川方約1万5千人対織田方1万人程度の格差と想定されるのではないだろうか。加えて今川方は鳴海、大高方面に先遣隊が分散し、桶狭間が奇襲戦ではないとする場合にはこうした視点も加味されるべきと思われる。尤も「信長公記」では四万五千対二千とあるが「三河物語」では織田勢は5000近くと記されている。
 以上の点はさておいて一方的に敗れた武田勝頼が結果的に信長の領国支配体制を大きく変更させ、滝川一益ら宿老の前線への配置転換、畿内地域の信長の軍事力の空洞化を招き光秀の謀反成立の前提条件を形成したという見方は興味深いものがある。

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3 「飢餓と戦争の戦国を行く」(朝日選書) 藤木久志 著 2001年刊行 朝日新聞社 1300円(2004/10)

 旱魃・長雨による凶作、飢饉、疱瘡などの疫病、そして戦乱と中世に生きる人々は常にこれらから逃れられない運命にあった。
 巻末の膨大な旱魃、長雨、台風、疫病、蝗の被害、地震、火山の噴火などのデータにあるとおり、わが国の中世ではほぼ毎年といっても良いくらい、国内のどこかで災害が発生していたことに改めて驚く。
 応仁の乱以降の戦乱の時代も、政治的な色彩の濃い天下の統一のための戦いというよりも、生きるための領地の拡張と食料・資源(奴隷を含む)の争奪というのが実情であったのだろう。
 また「村の城」という視点も、兵農未分離の時代には当然ありうることであり、全校的な傾向であるかどうかは別にしても数多く残されている中世の小規模な城郭・砦跡などの事情を考慮すると肯ける部分が多い。
 さらに、飢饉による身売りや合戦による庶民の強制連行(乱取)は、ことによると近世における賤民制成立の歴史的な要因のひとつと考えられるような示唆も感じるに至ったが、ただ、すでに発表された論文を一冊の本にまとめているため、テーマとしての統一性が薄められているように思える部分がマイナス要因であるように思える。

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2 「雑兵たちの戦場」(中世の傭兵と奴隷狩り) 藤木久志 著 1995年刊行 朝日新聞社 2400円(2004/10)

 「飢餓と戦争の戦国を行く」の以前にかかれたものであるが、テーマの統一性についてはこちらのほうがお勧め。九州豊前地方の事例を中心に雑兵たちによる人の収奪(奴隷狩り)の実態が資料に基づき克明に明らかにされている。
 テーマとは別に、以前から不思議に思っていたことの一つに戦国時代とその後の近世での武士階級の人口の変動がある。戦国時代後期における石高による兵士の動員の目安は、1万石当たりおよそ300人程度といわれていた。そして、現実にそれらの人々は軍役に借り出されていた。
 しかし近世に入り、各藩の武士階級の人口に占める割合を見てみると、どう考えても半数未満となっているのだが、それでは残りの半数の部分に当たる人々は、どこへ行ってしまったのかという疑問が湧いてくる。
 その疑問に対する回答がこの著書には示されており、それらの人々を著者は「中間層」と呼び、帰農した者、城普請の人足となったものが大半であるが、海外に傭兵として旅立ったもの(山田長政の例)も少なくないとしている。
 これらの人々の存在は当時の社会における不安定要因であり、秀吉らの為政者も頭を悩ませていたことを指摘。
 著者は非乗馬のこれらの「身分の低い兵卒」を「かせ者・若党・足軽」らの「侍」層(戦闘要員)、そして「中間・小者・あらしこ・下人」(非戦闘要員)、さらに「夫・夫丸」(人夫・人足)たちに分類している。
 こうした戦国時代の兵士の身分構成を理解すると、その戦いの実相が見えてくるような気がする。 つまりは戦闘要員としての武士・侍層は精々全体の3割程度であり、その部分に一定のダメージが加われば残りの7割以上が無傷であっても潰走するという訳であり、そしてその後は勝者による凄惨な人と物の略奪が続く....これが戦国の戦いの一つのパターンだったのだろう。

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1 「刀と首取り」(戦国合戦異説)平凡社新書 鈴木眞哉 著 2000年刊行 平凡社 
660円(2004/10)

 タイトルとは少し違って、もっぱら刀が合戦の中でとりわけ戦国時代にどのように使われたのかという論証が、例によって「感状」を統計的に分析した結果に基づき明らかにされている。
 それによれば、「刀は有効な武器ではなく、遠戦では弓・鉄砲、接近戦では槍がもっぱら使用されており、刀はその構造の弱点(目釘が破損する・曲がる・刃こぼれする)から合戦において進んで使用されるということは稀であった」と明言している。
 そして、そのもっとも有効な使用法は、あくまでも相手を倒した後の首取りのときであったとも指摘しているが、日本刀マニアが聞いたら血相を変えそうな推論でもあるような。

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