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善能寺館
関連ページのリンク  2004/11/14の日記  大塚館  大河原氏館  堀込の城跡  大法寺館  三福寺陣城      
所在地
埼玉県坂戸市善能寺中山188付近
歴史と沿革

■「坂戸市史」では「善能寺中山館跡」という呼称を提唱している。地元では善能寺塁をふくめて、小字中山と小字西山の地名から中西城と呼んでいたという。
■「同史」によれば、「この近くにある古刹善応寺は、見るかげも無いが(現在本堂は建て替えられたが無住の寺)、南北朝時代の文和年間(1352〜1356)に広沢善応という人が開いたといわれ、中世には成願寺とならんで栄えた寺であった。「坂戸風土記」15号では、この人にゆかりの城としているが、大字善能寺からに史に隣接する毛呂山町川角の玉林寺にかけては、貞治2年(1363年)に行われた苦林野・岩殿合戦に際し、足利基氏の陣が置かれ、その後もしばしば戦いの場所となった所である。遺構もはっきりせず、ただ城名だけが伝わるのは、おそらく永続的に使われたものではなく、戦いに際して臨時に築かれた砦でもあったのであろうか」としている。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および周辺の地理的特徴

■毛呂台地のほぼ中央部分に位置しており、地面は北西の善能寺塁に向かって緩く傾斜している。善能寺塁との比高差は3mから4m位と思われる。「新編武蔵風土記稿」の善能寺村の条には「陸田多く水田は少なし」と記され、一般的に現在の地形からみても水田耕作には適さない地域であると思われる。現在の地理では北の越辺川まで約1km、南の高麗川までは1.5km以上の距離を有する。また、両河川の間を流れている葛川までの距離でも南方600mの距離を有し、水不足で悩んでいたと「同稿」にも記されている。
■また善能寺塁までの距離は直線で僅か100m程度であり、西側の物見台風の土塁の存在を考えると不可分一体の一連の遺構と見ることもできそうな気がする。現地に赴けば分かりやすいのだが土塁周辺の竹林が無ければ善能寺塁方面は完全に坂の上から見下ろされる格好となるので、むしろ放置されるのが不自然である。

参考資料、古文書、記録

「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸の歴史--坂戸市文化財ガイド」(1992年坂戸市教育委員会編集発行)
「坂戸市史--中世資料編1」(1987年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸風土記--坂戸市史調査資料第1号」(1978/坂戸市教育委員会発行)
「中世の坂戸」(1996年坂戸市教育委員会編集発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊) 

文化財指定
訪城年月日
2004/11/14
訪城の記録

(2004/11/14)
■ここも「帝國博物学協会」さんの情報だけを手がかりとして訪城。地図上の大体の場所は分かっていましたので問題はどこに車を止めて歩くかということで、南側に防風林の竹林がある比較的広い道路の脇に止めさせていただきました。
■さてと、地形的に云えばこのあたりだと思うのだけれども....竹林の中を物色しながら探索していると、なにやら怪しげな水溜りを発見。水は濁っていて結構深そうな雰囲気です。肥溜めにしては大きすぎるし、それにしても何の囲いも注意書きも無く子どもが落ちたらどうするのだ、といったような感じの幅2m以上奥行き1mぐらいの楕円形ですけど。城館跡とはまったく関係がなさそうですが(^^;
■そのまま竹林に沿って道路を西側に歩いていくと、いくらも行かないうちに竹林の間に南へ向かう小道が目に入りました。あ、この小道と表の道路とは60cmほどの段差があり、コンクリートの擁壁で保護されています。この小道はたぶん早い話が南側の民家の方が時たま通行する踏み跡のようなものらしいです。念のため、そこからちょっと失礼をして竹林を拝見すると、小道の左側に僅かに空堀跡といっても良いような浅い溝が確認できました。
■そして、その場所から南側の右手前方を目を凝らして観察すると....ありました、立派な物見台のような大きな土塁が。これが西側の土塁で、空堀跡を挟んで反対の東側にある土塁は更にもっとよく見えない状態で竹林の中に溶け込んでいました。東側の民家との境には、土塁のようにも思える地面の高まりがある様な無いような微妙な状態でありました。いずれにしても防風林とはいっても、民家の敷地の中なのであまりウロウロとはできませんので手短に用件を済ませて退城しました。

(2004/12/12)
■後日、大類氏館跡の関係で坂戸市の古墳の分布状況を確認していた所、この場所は「善野寺古墳群」に含まれる地域で、物見台のような大きなものが8号噴の方墳(推定)、東側の小さいほうが9号噴の円墳であることが確認されました。
 ただ、この二つの遺構が古墳であるとしても高坂館などの事例などから見て、中世城館の施設に組み入れられていた可能性そのものは捨て切れません。

 


 民家の北側の防風林を兼ねた竹林の中に忽然とその姿を現す西側の高さ約3mぐらい、直径20m程度の土塁。竹林の中は薄暗く外側の道路からはほとんど見えない。形状から見て、円墳のようにも思えるのだが。古墳を土塁として活用している例は珍しくはないが、そういえば東松山市の高坂館の土塁の一部がそうでした。(後日調べた所、やはり古墳でした)
<<2004/11/14 撮影 曇り>>
交通アクセス

 善能寺のバス停かららそのまま通りを150mほど北西に進むと、破損した板碑のある五叉路に出る。そこの右側手前の民家の竹林の中に遺構がある。県道39号線は新しい道ができているが、坂戸市役所方面からはどちらの道でもENEOSのスタンドの先を右折するのさえ間違えなければ大丈夫。ただ、この右折した道自体の幅員は狭いので行き過ぎないように。( 行き過ぎました (^^;)


<<2004/11/14 撮影>>
 本人は空堀跡を撮影したつもりなのですが、例によってただの藪にしか見えません(^^; 深さは15cm、幅4尺ぐらいでしょうか。ただの雨水が流れた跡のようにも見えます。二本の木の間を手前から画面奥に向かってのびています。
 竹林と中世城館跡の組合せはよほど相性がよいのだろうか。今まで訪城した中でも、「西光寺の塚越城」「大智寺の勝呂氏館」「塚越の明泉館」「小代氏館」「野本氏館」といずれも竹林が目立っていた。その結果、遺構が良く残っている場合が多いようです。
 西側の土塁の頂上には不思議な直径1メートル、深さ50cmほどの穴が2つ並んでいました。孟宗竹の林ですので、伐根するとは思えませんし、筍ほりにしては穴が大きすぎます。
 東側の土塁。高さは1m程度ですが、これはよほど注意して観察しないと見つからない、というか竹林の中に溶け込んでいて良く見えません。西側の土塁との距離はざっと50mほどです。(後日調べてみた所やはり古墳の一部でした)
 

 
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