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堀込の城跡
関連ページのリンク  2004/10/18の日記  2004/10/29の日記
所在地
埼玉県坂戸市堀込村中40番付近で新堀地区にも一部またがっているようである。
歴史と沿革

 不明。周辺には堀籠氏の館跡といわれる城館跡などを含めて数ヶ所の城館跡があり、それらと何らかの関係があるのかも知れませんが詳細は全く不詳です。城跡の公式な名称が確定していないようなので、呼称については「帝國博物学協会」さんのサイトの情報を引用させていただきました。「小田原衆所領役帳」には「堀込 27貫779文 松山衆太田十郎兵衛」の知行、「新堀 14貫281文 他国衆酒井中務丞」の知行とされているので双方とのかかわりを窺うことができるが、詳細は不明である。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 1/25000の国土地理院の地図で確認すると、ちょうど西側から伸びている毛呂台地の舌状台地の東側の先端部分に当たっていることがわかった。しかし、東側の住宅地との僅かばかりの高低差が確認できる程度であり、宅地開発などにより現地ではそうした本来の地形状の特徴を捉えることは難しい状態にある。また、主郭部分は全体として東から西に緩い傾斜が見られるが、これは元来の舌状台地のものと考えられる。北側は小口と考えられる堀側の低い土塁の内側に1mほど高くなった位置郭を持つ。西側では堀の内側10mぐらいのあたりに高さ1.5mの立派な土塁が存在し全体として西側部分の遺構の状態が良いようである。

参考資料、古文書、記録

「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸の歴史--坂戸市文化財ガイド」(1992年坂戸市教育委員会編集発行)
「坂戸市史--中世資料編1」(1987年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸風土記--坂戸市史調査資料第1号」(1978/坂戸市教育委員会発行)
「中世の坂戸」(1996年坂戸市教育委員会編集発行)

文化財指定
訪城年月日
2004/10/18、2000/10/29
訪城の記録

<<2004/10/18>>
 「帝國博物学協会」さんのサイト情報を唯一の頼りにして大体の見当をつけて訪城したましたが、坂戸市の中世城館の所在パターンに慣れてきたこともあり、一発で探索成功しました。雰囲気としては農地の間に所在無げに点在する平地林のひとつというような感じでしょうか。それにしても、坂戸市には未だにこうした結構状態のよい平城ないし館跡が奇跡的に残されていることに改めて驚きます。川越市の大堀山周辺の城館跡、同じ坂戸市にある「住吉館」(塚越の住吉中学校西脇館)などと同様に忽然と畑の中の平地林にその姿を現すという点で非常に近似している印象があります。

予想以上の遺構の存在に欣喜雀躍
 なお「坂戸市史」などにもこの城館跡についての記述はほとんどないようです。しかし、なんといっても遺構の痕跡すら確認できない「浅羽城」の次に訪城したもので、はっきりとした遺構を目の当たりにして、かなり嬉しかったことは確かでした。思わず土塁と空堀に向かって走り寄りそうになったくらいですから(^^; 片や絵図面と伝説は残るが、遺構は皆無。こちらは遺構はあるものの詳細不明という全く対照的な二つの城館跡。

<<2000/10/29>>小口は横矢がかりに
 前回西側の部分しか見ていなかったので肝心の小口部分について確認していなかったことなどもあり再訪城。小口部分の土塁や空堀はかなり目立たなくなってきているが、明らかな食い違いの形状であり外側から小口に向かって右側の土塁・空堀の配置が4間から5間ほど前に張り出していました。つまり郭自体が大きく張り出して出枡状になり小口付近を防御する構造になっています。いわゆる横矢の形状だと思います。しかし、これもぼんやりしていると気づかない程に北側部分の土塁と空堀は目立ちません。

空堀に落ちた
 前回の訪城から10日以上経過し秋も深まってきたので、西側の堀に沿って藪の強行突破を試みたのですが、茅の切り株もあり地面も良く見えないので途中で引き返しました。代わりに西側の堀の部分をもう一度良く見ておこうと思い立ち、畑と空堀の縁に沿って注意深くしていたのですが数歩も行かないうちに落ちました。すべって空堀のなかに。落ちたところは水がなかったので別にどうということはありませんでしてけれど(^^;

「大河原氏館」とは隣同士
 この後、「大河原氏館」へ向かったのですが、最初は全く気がつきませんでしたが、「堀込の城跡」とは直線距離で100mぐらいしか離れていないことが判明しました。南側の集落の中の道から見るとほとんど隣り合っていました。この2ヶ所の城館跡は同時代に実用とされていたとしたらお互いどういう関係だったのでしょうか。

坂戸市の中世城館跡
 坂戸市では以前において40ヶ所近くもあったとされる中世城館跡は、残念ながら遺構がしっかりと確認できるものは近年宅地開発などにより消滅する傾向が著しく、現在10ヶ所以内となってしまったようです。その中で、目ぼしいものを挙げると、今のところでは「住吉館」「大穴城」「塚越城」「田波目城」そしてこの「堀込の城跡」というところでしょうか。そこには共通している要素が確実にひとつだけあります。それは団地の中の公園として保存されている大穴城を除いて、その全てが林または山の中にあるということです。当たり前だといわれればそれまでですが。あ、もちろん大穴城も宅地開発される以前は山林でしたけど。

新田開拓、急速な近代化、宅地開発ブーム
 関東では天正18年(1590年)に長く続いた戦乱の時代に終止符が打たれました。それ以降農地の開墾が盛んになり開墾のピークである17世紀の中頃から18世紀にかけて、農地の周辺にあった中世城郭は新田開拓の波を受けて、その姿を急速に変えていったものと思われます。もちろん明治以降の近代化の流れの中、また戦後の高度成長の中で宅地化されていったものも多いはずです。その中で、農地の開墾や宅地化に際し経済的に採算の合わない条件を有していた山城や平地林の平城・城館が残されていったものと思われます。しかし、このうち平地林については近年その非収益性のために現状の保存が危ぶまれています。

 時間はかかるとは思いますが、一応坂戸市周辺のできるだけ多くの城館跡について自分のこの目で確かめてこようと思っております。そして消滅してしまった遺構、さらには消滅中のもの含めて、それらの平成16年の今のありのままの姿を記録し公開することは全く無意味ではないと思います。蟷螂の斧かもしれません。あえて意味づけをするとすれば、吹けば飛ぶような弱小サイトではありますが多くの方々のご協力もあり細々と続けていく限りにおいて、多少なりとも一人でも多くの人にそれらの置かれている現状を伝え、社会の公共財としての文化財の持つ重要性を理解していただくきっかけとなれば.....との思いも込めての城跡めぐりです。そんな思いを新たにしたような次第です。(^^)

 


 西側の道路沿いから見た全景で、林と畑との間に空堀がきれいに残されている。しかし、興味のない人から見れば畑の排水路と普通の植林された杉林にしかみえないかも知れない。<<2004/10/18 撮影 >>
交通アクセス

 入西幼稚園の南、大法寺の東にあり、県道39号線を坂戸駅方面から西へ向かい、高麗川大橋をわたり関越の下を抜けてから1.5km先の2個目の信号を右折し400メートルほど進んだ右側の畑の奥の林の中が目指す場所。


<<2004/10/18撮影 晴れ>>
 空堀と土塁はこのように90度に3回ほど折れ曲がり西側の藪の中へと消えている。雨上がりの翌日だったので空堀が水濠状態となっていた。
 結果的に畑の排水路の役割も果たしている感じがするので、農耕に伴い形状が変更されている可能性はあると思われるが。
 このあたりで空堀の深さは畑側で1m以上、土塁側でおおむね1mから1.5m程度はある。幅は畑側の形状が変化していることは別にして上面で3m程度というところ。
 西側の空堀側から見た土塁で、土塁の位置は空堀から5、6間(約10m程度)の距離がある。
 西側の土塁の一番高そうな部分を郭内から撮影。最も高いところでは内側で1.5mぐらいはありそう。郭内は杉がぎっしりと植林され昼間でも薄暗い状態で、自然の堆肥が積み重なり足元がふかふかとしていた。東側には新しい住宅が隣接しており、遺構の確認はできていない。南側の杉木立の間に深さ50cmもないようなかなり浅い空堀の遺構を確認することはできた。しかし南側は全体として藪がひどく見通しが利かず、全体の状況が掴めていないので、落葉期の再訪城の必要を感じた。
 西側の空堀側から見た土塁。土塁自体の幅も底部で3mから4m程度はある。
 西側の空堀と土塁の遠景。全体として西側に状態のよい遺構が集中している。

<<2004/10/29撮影 晴れ>>
 西側全景
 北側の全景。今年は雨が多すぎて野菜も元気がないようです。
 道路沿いのこの石碑が目印。この反対側の杉林が堀込の城跡である。
 小口部分と思われるあたり。左右の土塁・空堀が食い違いになっており、小口に向かって右側の堀が左側よりも7、8メートル程度前に張り出しており、横矢がかかるように工夫されているものと考えられる。ただこの部分の土塁・空堀はあまり目立たない。小口の正面は掘平の後が見られ、小口に向かっていくらかの傾斜を見せた牛久保家の歴代の墓所となっている。享保年代(1716 年〜)のものが最も古そうであった。白い看板は保存樹木の指定に関するもので、城館跡についての説明は何もありません。
 北側の小口あたりから右側の土塁と空堀。この部分の外側の土塁は土塁と呼べない程度の高さであり、堀幅も1間程度と狭く深さもせいぜい50cmというところ。しかし墓地の周辺部分に高さ1mぐらいの土塁があり、外側の堀の土塁と合わせれば2段構えになっている。
 北側の小口あたりから左側。堀幅も1間程度狭く深さもせいぜい50cmもない。よく注意しないと分からないくらい埋まってしまっている。
 杉木立の中の郭内を分けている南側の空堀。幅は数メートルある感じだが、深さは50cmもないような状態で宅地のある東側の林の中で途中消滅している。
 西側の堀をもう一度撮影しただけです。このときに落ちました(^^;
 西側のこのあたりは雨が続くと水堀になってしまう。ここへ落ちなくて良かった(^^)
 南側の民家側からの遠景。正面の林が堀込の城。こちら側にも土塁と空堀は確認できるが、宅地の中を通るようになるので作業中の方がいたらお話を伺おうかと思ったが、どなたもいらっしゃらなかったので撮影は遠慮させていただいた。
 南側に近い西側の外れのあたりで、西側の堀に沿って藪を突破すればこの付近に出られるはずであるが。
 一つ前の写真で畑の奥まったあたりに林の端の踏み跡を辿り、強引に接近して状況を確認してみた。確認しにくいけれども、たぶん空堀と思われる窪みが僅かに畑の端に続いていた。
 

 
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