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大塚館(大塚屋敷)
関連ページのリンク  2004/11/14の日記  大河原氏館  堀込の城跡  大法寺館  三福寺陣城      
所在地
埼玉県坂戸市成願寺36番地付近
歴史と沿革

 「新編武蔵風土記稿」によれば「大塚村」の条に「屋敷跡 村の乾(北西)の方鎮守社の辺にあり三畝許(約100坪弱)の土地なり。土人ケンアン屋敷と呼ぶここは、古え此辺を領せし人の親族たる人の居跡なりとのみ云伝えて文字も定かならず。幻庵或は玄庵など書せしにや、按に北条氏綱幻庵と称し箱根に住せしなり。此辺はすべて北条氏の旧跡なれば、もしくは幻庵別業なるか。またそれより後のことならば、今の地頭本郷丹後守が先祖の親族にかく号せし人ありて住せしも知べからず。とにかく年代等も伝えざれば考うるに由なし。」と記されている。
 後北条氏の重鎮幻庵につながる人々の居館であったのだろうか。「新編武蔵風土記稿」の編纂された19世紀初頭の文化文政の時代において、すでに館跡は今の規模ぐらいにしか遺されていなかったようです。館の名称については、その所在地からすれば大塚ではなく成願寺ですが、その呼称が一般化しているようです。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 葛川が北側30m位の所を流れ、地表全体は南西から北東に向けて緩い傾斜が見られる。館跡として遺構が確認できるのは、幅員2m足らずの舗装道路の左側(南側)の長さ約40m、幅5mから10mの畑との間の細長い区画である。土塁は手前の東側が最も広く約3間ほどあり、西側では2間ぐらいの広さで、高さは道路側で60から80cmぐらいである。土塁上には現在30本ほどのヒバが植えられているので、場所を確認する際の目安になっている。空堀は幅1.5間、深さは南の畑側で2尺、北の土塁側で1尺あるかどうかといった状態である。
小山の信号周辺の大法寺館、三福寺陣城、堀込の城跡、大河原氏館などの遺構が集中している地域にあり、その相互の関係に興味が沸きます。 

参考資料、古文書、記録

「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸の歴史--坂戸市文化財ガイド」(1992年坂戸市教育委員会編集発行)
「坂戸市史--中世資料編1」(1987年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸風土記--坂戸市史調査資料第1号」(1978/坂戸市教育委員会発行)
「中世の坂戸」(1996年坂戸市教育委員会編集発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)   

文化財指定
訪城年月日
2004/11/14
訪城の記録

<<2004/11/14>> 車を駐車する場所がなさそうに思えたので、少し手前にあるサンクスの駐車場に止めさせてもらい、徒歩にて探索をかねて訪城。
 地形的には葛川が流れている所よりも手前の細い水路の辺りのほうが土地が低くなっているようです。県道39号線は北峰の信号に向かって緩い上り坂になっていますので、たぶん館跡から見ると高麗川が流れる東側はある程度の眺望があったようにも思えました。葛川自体はちょうど高麗川と越辺川に南北を挟まれた形で北東方向に流れています。館跡は北にその葛川、南に高麗川を配しており、その防備に自然の地形が利用されていることがよく分かります。ただ、葛川は現在のように掘削されてはいなかったので河川敷を含めてもう少し川幅が広かったのかもしれません。
 こんなことを考えられるのも徒歩でアプローチしていることによるものです。やはり徒歩だと周辺の細かい土地の起伏が分かり、自然と愛着もわいてくるようです。昭和20年代の米軍が撮影した航空写真では、葛川は北峰との旧村境を荒地を両脇に抱えながら複雑に曲がりくねりながら東へと流れていたようで、館の周辺でも複雑なS字カーブを描いています。多分当時においてもこのような感じで北側の防御線を形成していたのだと思います。
 館跡については、これも「帝國博物学協会」さんの情報があったので直ぐに分かりました。農道の傍らの取り残されたような細長い遺構です。地権者の方が敢えて農地とすることなく保全されている様にも見受けられます。今後の保全のためにも何がしかの説明版の設置などがあってもよいのではと、改めて思う次第でありました。やはり広く認知されなければ、保存のしようもありませんので。
 帰りにはとっくに昼の時間帯を過ぎていましたので、そこのコンビニで普通の肉まん105円、たしか「大○○肉○○包」というようなやや高級の中華まん200円と飲み物を購入。なるほど「大」の字がつくだけあって、なかなかボリュームもあり味もしっかりとしていて、値段だけの事はありました。そのうちコンビニ肉まんランキングなどを作成しようなどと...(^^)

 


 西側から見た館跡ですが、空堀自体は畑の排水のための施設のようにも見えます。一部分だけを見てしまうと館の遺構にはとても見えませんが、全体として見れば館の一辺を形成していたことがわかります。ただ、その領域がどこまでだったか、ということになると南側は下の写真のように、完全な耕作地となっていますので推測することもできません。<<2004/11/14 撮影 曇り>>
交通アクセス

 北峰のバス亭から徒歩3分程度。坂戸市内から県道39号線(東武東上線若葉駅の前を通る方の道)を西へ高麗川大橋を渡りやく1.2km程行くと北峰の信号がある。(手前200mに北峰のバス停あり)これを左折し葛川を渡る。そうすると直ぐに住宅兼管工事業者の建物が右手に見えるので、その先の幅員2mほどの細い舗装道路を右折すると正面に見えるヒバの植えられた一角が目に入ります。そこが目的地。
 河越観光のバスの本数は平日30本、日曜・祝日が20本ぐらい出ているようです。


<<2004/11/14撮影>>
 「北峰の石橋供養塔」宝暦5年(1755年)に建立。当時の堀込村、入西村、大家村など50ヶ村からの寄進により邪神・悪霊を鎮めるために建立された地蔵像。北峰の信号の角にある。
 なお、「石橋」とは南西40mにある葛川にかかる石橋のことからきているのであろう。
 東側の土塁の先端辺りから見た遺構。道路の拡張により多少削られているように思います。
 同じく東側の先端部分より土塁と空堀を撮影。写真の左側は一面の広々とした畑になっている。
 南西側の道路の角辺りから遺構のある場所を撮影。やや霞んで見えるのは近くの農家の落ち葉焚きの煙です。晩秋の風物詩の一つということで、それなりによい記念です(^^;
 西側の道路の突き当たり辺りから眺めると、こういった風景になります。畑と道路の段差が約80cmと結構ありますので、客土などが行われている可能性もありますが、この辺りまで館の外郭が続いていてもよいような気がしました。丁度1町ぐらいの距離になります。
 

 
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