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大法寺館 | |
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関連ページのリンク | 2004/10/18の日記 2004/10/29の日記 三福寺陣城 |
埼玉県坂戸市堀込村中63 | |
「堀込館」「多田氏陣屋」ともいわれており、名称については定まってはいない模様である。「坂戸市史」によると児玉党淺羽氏の一派に堀籠(堀込)を名乗るものが存在したことは確実であるが、「堀込館」と呼称する確かな資料が無いので、所在を客観的に表すものとして「大法寺館」と呼ぶのが適当であるとしている。「新編武蔵風土記稿」によれば、堀籠村は後北条氏の時代の北条役帳に太田十郎兵衛の知行であり、徳川の関東入国後は多田氏に下賜したとされてる。また、村の西側の小名堀ノ内に3000坪ほどの多田氏の陣屋跡が所在した旨の記述もある。新編武蔵風土記稿の城館跡の広さについての記述は遺構と大きく隔たっていることも多いのですが、これに関しては珍しくほぼ一致しています。この多田氏については徳川家の旗本で入間郡内に500石を領したという。(この辺の経緯は「坂戸市史」に詳しい)後北条氏の家臣であった在地領主は少なからず徳川家に仕官している場合が少なくないが、ただ音が一致する大田氏と多田氏の関係がどのようなものであったのかは不明のようである。 | |
北側と南側の東の端に土塁の一部が確認される | |
構造的特徴および周辺の地理的特徴 | 「坂戸市史」では隣接する三福寺の遺構との関連を示唆している部分があるが、推測の域を出ない模様である。なお、三福寺の遺構との直線距離は現地で確認したが僅か80mほどに過ぎない。 |
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) | |
無 | |
2004/10/18、2004/10/29 | |
<<2004/10/18>> | |
ごく最近まで残されていたという北側の土塁の一部と思われるものが、民家の塀の中にひっそりと残されていた。土塁は高さ1m、幅3m、長さ10mぐらいであろうか。 「坂戸市史」(1992年発行)では733頁から736頁にかけて写真と略図つきで、大変見ごたえのある規模の大きい折や小口と思われる遺構を含む土塁について掲載されていた。 しかし、80年代終わりごろの西側の土塁の消滅に続いて、近年この北側の土塁も墓地の拡張に伴いほとんど消滅してしまった。残念の一語に尽きます。<<2004/10/18 撮影晴れ>> | |
坂戸市役所方向から県道39号線を西へ高麗川の橋を渡り、関越自動車道の下をくぐり約1500m先の小山の交差点のひとつ手前の信号(右側に稲荷神社がある)を右折し、100m先の細い二叉路を左折すると左側に見えるのが三福寺。大法寺はそこから50m先の右側に見える。つまり「堀込の城跡」の市道をはさんで西北西約150mの向側ということになります。 |
真言宗大法寺の境内 | |
北側の新設された塀。この場所に確かに、推測で高さ1.5m、幅3m以上、長さ100m前後の立派な土塁がつい近年まで残されていたらしい。 |
奇跡的に残されている南側の土塁の一部だが、西側の正面から見ると単なる小さな笹藪としか見えません。 | |
角度を変えてみれば、なるほど土塁です。高さ1m弱で、長さは10mぐらいでしょうか。民家の庭先と駐車場となっている空き地の間に奇跡的に残されていますが、どう見てもこのままでは風前の灯かと.....。 もちろん北側土塁の写真などから見て、幅は半分以下になっているように思います。明らかに車のタイヤ跡でだんだん削られている感じが....(^^; | |
ここの場所に見事な土塁が.....何度撮影したところで、心霊写真のように土塁が現れるわけでもありません。今更どうしようもないのですが。返す返すも残念で.....。 全部とはいわないまでも、植栽の一部としてでも残せなかったものでしょうか。 | |
やけに人見知りしない猫がいたので、消失してしまった土塁の代わりに一頻り構ってやった。(あ、もちろんこれは冗談です!)というか、構ってもらった.....実は自宅の子猫が外泊しているもので(^^) 大法寺の墓地の塀に頻りに体を擦り付けていた。 |
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