|
三福寺陣城 | |
---|---|
関連ページリンク | 2004/10/18日記 2004/10/29日記 大法寺館 |
埼玉県坂戸市小山259 | |
三福寺の境内にある寺の縁起によれば、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の関東侵攻のとき、上田氏の居城松山攻めに関連して後北条氏方がこの寺を陣城として戦い、前田利家、上杉景勝の軍勢の攻勢により寺は灰燼となったということである。こうした、伝承は他に比企郡「羽尾城」、坂戸市「浅羽城」などに散見しているが史実としての詳細は不詳であるらしい。とくに、この三福寺の平坦で川などの天然の要害も付近に存在しない地形では防御側にとって極めて守りづらい様子がありありと窺われ、実際に大規模な合戦が行われたかどうかは疑問に思える。ただでさえ動員をかけても兵が集まらず、寡兵で守勢に回る側としては、この辺りであれば防御拠点である松山城に兵力を集中するはずであり、元々少ない兵力を分散することはまず考えにくい。ただ在地領主を中心とした小規模な勢力が秀吉軍の兵士による乱暴狼藉に抵抗するため、当地に立てこもり前田利家、上杉景勝の軍勢のごく一部と合戦に及ぶということは考えられなくもない。入西地区の在地勢力の動員兵力は当時の戸数から想定して最大でも500名を超えることは考えられず、そのうちの大半は松山城の防衛に派遣されていたと考えられるので、しいて言えば小競り合い程度のことは行われた可能性はあるのだろう。 | |
寺の北東の墓地に郭、土塁が残る | |
構造的特徴および周辺の地理的特徴 | 北に越辺川、南に高麗川の流れにはさまれた西側から伸びる低い毛呂台地の先端部分に位置している。また、この台地のさらに西側に「堀込の城跡」が位置している。北側は低湿地の様相を見せていたことは推測でき、一定の防御性が想定できるものの、南側は全くの平坦地であり空堀・土塁などの防備があったとしても決して守りやすい地形であるとは思われない。 |
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) | |
無 | |
2004/10/18、2004/10/29 | |
<<2004/10/18>> 大法寺館の方の遺構に期待していたので、こちらについては全く期待していなかった。しかし、墓地の北側から見ると高さは無いものの当時の様子を髣髴とさせる折のある郭跡があることが分かり、その意外性に少し驚いた。ただ、その比高1mから1.5mほどののっぺりと平坦な郭跡がどこまで当時のものであったのか窺うすべが無い。あるいは数mの高さを有したものであったのだろうか。余りにも丈の低い郭跡ではありました。急ごしらえの陣城だからといってしまえばそれまでですが。 | |
三福寺の縁起と合戦の伝承についての説明版。この中で一部の関係者にとって有名な人物「前田景勝」(=前田利家+上杉景勝)が登場する(^^; <<2004/10/18 撮影 晴れ >> | |
坂戸市役所方向から県道39号線を西へ高麗川の橋を渡り、関越自動車道の下をくぐり約1500m先の小山の交差点のひとつ手前の信号(右側に稲荷神社がある)を右折し、100m先の細い二叉路を左折すると左側に見えるのが三福寺。なお、大法寺はそこから50m先の右側に見える。 |
浄土宗三福寺。僅かばかりの舌状台地の先端なので、一応向こう側の眺望がある。大木の下辺にやや遠くの景色がよく見えている。 | |
墓地の北側にはこのような郭と土塁が残ってはいるが、近世以降の開墾を考えるとでどこまで当時の様子を伝えているのだろうか。しかし、この遺構さえも墓地の拡張により次第に消失しつつある。 |
角度を変えて撮影。土塁の高さは1mから1.5m程度でしょうか。この場所は、元来北側に向けて比高2m程度の緩い傾斜地となっている。この撮影地点と大法寺館は直線距離にして僅か80mの近さであり、「坂戸市史」によれば一体的な城館であることも含めての示唆がある。当然のことと思うだけの接近した関係にある。この写真の左側が大法寺館となっている。 |
TOPpageへ | 城跡ほっつき歩きとは | 訪城覚書 | ホームページづくりの日記 | 参考にした資料 | リンク集(お世話になります) |
工事中 | 工事中 | PAGEの先頭 | PAGEの最後 | ご感想はこちらへ | 工事中 |