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大河原氏館跡 | |
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関連ページのリンク | 2004/10/29の日記 堀込の城跡 大法寺館 |
埼玉県坂戸市北峰123の南側の平地林 | |
源頼朝の奥州平定に随陣した浅羽五郎行長の子行家が、大河原氏を称していた。その本拠地を飯能地方に求める説もあるが、浅羽氏の勢力範囲を考えると、この北峰字大河原とすることが妥当である。(「坂戸市史」733頁より抜粋)つまり鎌倉期の館跡であることは間違いがなさそう。 | |
土塁があるような無いような | |
構造的特徴および周辺の地理的特徴 | 毛呂台地上にあり周辺部分より2mほどの高まりを見せる。北側部分の比高差は顕著であるが南側は緩やかな傾斜となっている。「堀込の城跡」とは北側部分で最短で60mほどの距離しかない。また、大法寺館からも直線で300mにも満たない距離にある。南側150mほどを小河川葛川が東に流れている。現状の平地林の範囲でみると東西方向約100メートル、南北方向60mぐらいであろうか。 |
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) | |
無 | |
2004/10/29 | |
<<2004/10/29>> 堀込の城跡、大法寺館などを再訪城したあとこの場所を目指したが、堀込の城跡の南側を徒歩で探索中にすぐに見つけてしまったように両者は異常なまでに接近している。一体当時はどういう関係だったのか興味深いものがある。構造などからみて堀込の城跡のほうが後の時代のものであるらしいことはすぐに分かるが、城館の防御という点で考えると大河原氏館が放棄されたままのものであるとすれば、相手方に攻撃の拠点を提供することとなり、きわめてまずい状態になるはずである。このことから考えると何らかの形で相互連携していたと見るべきなのだろうか。 | |
館の北側部分。右側の畑との境が高まりを見せているのが分かる。館の遺構とは全く関係が無いが、一時ある問題を通してマスコミで有名となった宗教関係の集会施設が北側に隣接しているので、場所は極めて分かりやすい。<<2004/10/29 撮影 晴れ>> | |
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南側から見た館跡だが、こうしてみると何を撮影したのか全く意図不明となってしまった(^^; | |
土塁のような高まりがあるのだが、館の中を南北に通っている道路の切通に伴う残土のような気がする。 | |
南側から見た館跡を南北に貫通する道路 | |
こうしてみると確かに林の中に高さ2メートルほどの高まりが確認できるのだが......。 |
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