工事中
PAGEの先頭PAGEの最後管理人へmail工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
押切遺跡(仙元山)
関連ページのリンク  2005/07/11の日記  伊勢方仮城  曲田城  秋元氏館  人見氏館         
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
埼玉県深谷市人見(仙元山公園)
歴史と沿革

館の伝承も無いため「押切遺跡」
 深谷市の「発掘調査報告書」などによれば、市の体育施設の建設に伴う発掘調査により、3か所の郭や掘立建物跡、井戸跡などが確認され出土した遺物から15世紀中のものと推定されています。また浅間山南麓の人見山昌福寺が、深谷上杉氏第5代当主の上杉房憲の開基によるものとの伝承があることから、深谷上杉氏との関わりが指摘されていますが城館についての伝承などもなく詳細については全く不明のようです。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■館跡などの遺構が確認された場所は昌福寺の東、押切川の北にあたる仙元山の麓で現在はビックタートルが建設されている辺りだということです。
 また仙元山丘陵は東西南北それぞれ約500m程の規模を有する、深谷市で最も高い三角形に近い独立した標高98mの丘陵です。人見氏館のすぐ北側に位置し、15世紀半ば以降の戦国時代には深谷市内の標高上の最高地点ということもあり、深谷城の南方の防御拠点として城館機能を強化する物見台、狼煙台、詰の城などの「要害」が普請されても不思議はない立地条件ですが、それらに関する調査は行われていない模様です。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)  

文化財指定
訪城年月日
2005/07/11
訪城の記録

( 2005/07/11 )
切岸か、自然地形か?
 先日訪れた人見氏館の北東に所在する浅間山とその麓が目的地です。ビッグタートルという深谷市の体育施設などの所在する運動公園で、同所の北側に位置する仙元山は市民の散策コースなどの憩いの場となっています。
 深谷市の「発掘調査報告書」などによれば、その体育施設の建設に伴う発掘調査により、3か所の郭や掘立建物跡、井戸跡などが確認され出土した遺物から15世紀中のものと推定されています。また浅間山南麓の人見山昌福寺が、深谷上杉氏第5代当主の上杉房憲の開基によるものとの伝承があることから深谷上杉氏との関わりが指摘されています。
 とはいうものの、そのような遺構は当然のことながら地面の下にあり地表で確認できるようなものは全く残されてはいません。寧ろ浅間山の散策路や浅間神社のある丘陵そのものの方が後世かなりの人手が加わっているようにも思いますが、下の写真のように中世城館との関連を示しているように思える雰囲気がありそうした地形を残していました。

Best Shot?

 仙元山丘陵は東西南北それぞれ約500m程の規模を有する三角形に近い独立した標高98mの丘陵です。また人見氏館のすぐ北側に位置し、15世紀半ば以降の戦国時代には深谷市内の標高上の最高地点ということもあり、その城館機能を強化する物見台、狼煙台、詰の城などの要害が普請されても不思議はない立地条件です。
 近世、近代において神社の参道の整備や近年の公園化に伴う地形の改変がなされているとは思いますが、余りにもそれらしい自然地形なのか人為的な斜面の掘削なのか判断に苦しむ地形があちこちに見受けられました。 ( 2005/07/11 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩20分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/07/11 撮影 )

■深谷市総合体育施設ビッグタートルの建物のあたりに中世城館を想定できるような三ヶ所の郭跡と掘立柱建物跡、井戸跡などが確認されたということですが、そうした記録や伝承の類は遺されてはいないとのことでした。
 確かに「大きなカメ」に似ています、建物もそうですが仙元山の方も...。
■近年設置されたと思われる歌碑が仙元山の南東側丘陵の林の中に点在していました。
■周辺の地域とは50m以上の標高差があるようで、浅間神社に向かう参道の途中からは人見氏館のほぼ全貌が確認できます。現在眺望が優れているのは南側の一部だけですが、樹木が少なければ深谷地域は深谷城の方角も含めて360度見渡すことができるはずです。
■深谷上杉氏が勧請したと伝わる富士浅間神社は日本全国に1300社を数え、農業、漁業、火除け、安産、酒造りの神として名高い「木花開耶姫命」(コノハナサクヤヒメノミコト)を祭神としています。
■浅間神社の社殿の所在する場所は仙元山山頂にあり、郭といってもよいような細長い平坦に削られた地形をしていました。
■浅間神社参道の中腹から見た深谷上杉家の墓所のある昌福寺境内。なお、写真の中の高架橋は上越新幹線。
■歌碑が点在するビッグタートルのすぐ北側の丘陵と浅間神社の所在する丘陵は自然の谷によって南北に分かれていますが、見れば見るほど如何にも「要害」らしく見えてくるので困ります。
■南側から見た曹洞宗人見山昌福寺と仙元山の丘陵。昌福寺自体が深谷上杉氏により仙元山を背にして建立され、その山頂には浅間神社が鎮座するという状況です。
■深谷市の史跡に指定されている深谷上杉氏の墓所。第5代房憲と第8代憲盛の二体の宝篋印塔がそれであるらしいのですが...
■曹洞宗人見山昌福寺の本堂。深谷市内の小学校と思われる高学年の小学生の一行が写生の真っ最中でした。
 康正2年(1456年)に深谷上杉氏第5代上杉右馬助房憲が開基したと伝えられています。
 
工事中PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中