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毛呂城(毛呂氏館)
関連ページのリンク  2005/05/16の日記  山根城(毛呂氏館)  村田和泉守館  斉藤氏館  大築城         
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合29
所在地
埼玉県入間郡毛呂山町小田谷698
歴史と沿革

■「毛呂山町史」(1978/毛呂山町)では、小田谷の古名である小台城という呼び方をしている部分もあり、これとは別に小田谷堀ノ内と呼ばれる地名も付近に存在しているとのことです。毛呂山町の関係資料によれば館跡から出土した板碑の年代から推定すると、14世紀の前半ごろには館が存在していたことを示しているとしています。
 さて、「上杉家文書」の北条氏綱状によれば、大永4年の10月に山内上杉氏憲房が上州勢を率いて後北条氏方の毛呂要害をめぐる戦いが行われたとされています。その時に毛呂氏が立てこもったのが具体的にどの場所かというと、これには諸説があるようで当地も有力な候補ですが、多くの方も主張するように「常設展示解説図録」(1994/毛呂山町歴史民俗資料館)では、山一つ隔てた500mほど西側の阿諏訪地区に所在する「竜ヶ谷山城」 ( たぶん要害が訛ったと推定される ) を示唆しています。

確認できる遺構
土塁、空掘、郭、切岸
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■毛呂本郷の毛呂氏館(通称を山根城)の南東約一キロメートルの長栄寺境内の裏山に所在する遺構であり、長栄寺境内そのものも中世城館の遺構上に建立されている模様である。
 なお、西側五百メートルの山一つ隔てた場所に「毛呂要害」と推定される「竜ヶ谷山城」が所在する。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「毛呂山町史」(1978/毛呂山町)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「常設展示解説図録」(1994/毛呂山町歴史民俗資料館)
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版)
「毛呂山町歴史民俗資料館のHP   

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1976年10月1日指定
訪城年月日
2005/05/16
訪城の記録

( 2005/05/16 )
この時期は雑草が蔓延る土塁と空堀
 さて山根城のあとは、八高線の踏切を渡り県道30号線を南へ向かい、埼玉医大の先にある長栄寺にむかいました。長栄寺へ曲がる場所がよく分からなかったことと、もう一つの毛呂城(山根城)からさほど離れていないこと、埼玉医大の前の道はよく渋滞するなどの事情もありましたので、膝の心配も少しはありましたが敢えて徒歩にてそのまま行くことに。。
 長栄寺の裏山が毛呂氏館のある場所との情報ですが、間違えて少し手前の道を曲がってしまいました。しかし、徒歩ですので埼玉医大の職員駐車場を縦断していくと山の中腹に寺院らしき姿が見えました。大きな墓地も付属しており、ほかに間違えようもない東側に景色の開けた場所なので、跡は寺への参道を探して真直ぐ境内へと向かいました。
 館跡は本堂のあるすぐ北側の15mほど高い平場ですが、この季節はかなり雑草が蔓延り始めており土塁や空堀の状況を確認するのにはやや問題もありました。けれども、なんとか観察できなくもないという程度ですし、未だやぶ蚊がうようよしていない分だけ良しとしなければいけません。土塁は東側の平地に向かって開口した南北60m、東西35mぐらいの規模でコの字を形成し、開口部の東側は3mから4mほどの切岸で、西側の尾根続きには空堀が施され堀切のような格好となっています。また、南西側には小規模に腰郭状の平場も確認できます。
 全体としての規模で考えると長栄寺の建物のある境内を含み縄張りが構成されていたと考えるほうが自然な地形ですが、それらを含めても1万平方メートルに満たない小規模な山城であったように思います。

Best Shot?



 写真右よりのやや暗く見える林の中に郭、土塁、空堀などが遺されていますが、この訪城の季節はやはり晩秋から早春にかけてのようです。
 左下の写真が実際に見える様子ですが、そのままHPにアップするとただの駐車場の画像となってしまいます。
 ( 2005/05/16 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR八高線毛呂駅より徒歩15分ほど。埼玉医大毛呂病院の南側、長栄寺を目指す。MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/16 撮影 )

■城跡・長栄寺の東側には埼玉医大関係者の数百台を収容するような広大な駐車場がありますので、この場所から城跡を遠望するのが最適のようです。
 駐車場から見ると、すでに長栄寺の建物の建っているところが比高10m以上の丘陵の先端部分となっており、遺構の所在している場所はそこから更に15mほど上の方になりますので季節によっては見晴らしがよいと思われます。
■毛呂顕季、顕繁父子が大永5年(1525年)に開基したという金嶋山長栄寺の南側にある山門で、後ろ側に見える山林が遺構の存在する城跡。
 顕季は永正元年(1504年)の山内上杉顕定と扇谷上杉朝良の立河合戦に上杉顕定として参戦し、後に戦死者供養のため48の念仏鉦をつくり、享禄元年(1528年)には焼失した毛呂大明神本殿(出雲伊波比神社)を顕繁が直ちに再建しています。
■豊後の国司に任ぜられるなど鎌倉の有力御家人であった毛呂季光に次いで、著名な毛呂顕季の名を冠した館跡の石碑。
 大永4年の10月に山内上杉氏憲房が上州勢を率いて後北条氏方の毛呂要害をめぐる戦いが行われた後に、「毛呂山町史」によると翌年の大永5年(1525年)に毛呂顕季は竜穏当寺七世節庵良均和尚を招来し小田谷の城館に長栄寺を建立し自らは一田幻世庵と号した。なお、都幾川村の大築城に付随するモロドノ郭は毛呂顕季に関連する遺構であるといわれています。
■毛呂氏館跡の標柱で、側面に簡潔な説明が記されていました。
 天正18年の秀吉の関東攻略の際も毛呂氏は後北条氏の家臣として北条氏照の居城八王寺城に一族が篭城したと伝えられています。毛呂氏の系図によれば、この時毛呂顕季の子である高齢の毛呂秋重を始として、毛呂越後守顕綱、同族の毛呂土佐守義可、毛呂義忠が討ち死にを遂げたとされています。こうして毛呂氏は一族としての血筋は保たれたものの、源頼朝以来の有力な在地領主としての地位を失い、残された一族は帰農するもの、徳川家に仕えるもの、川越藩の酒井氏に仕えるものなどに分かれていったということです。
■なぜか分からぬがケーブルカーのゴンドラが...だいぶ以前に設置されたようで、現在は稼動していない様子ですが墓所の参拝用とも思えませんし、どちらかというとやや変わった光景ではありましたので記念に撮影。
■長栄寺の歴代住職の墓地の傍らに所在する毛呂氏一族の供養塔。毛呂氏一族の墓はこのほか毛呂本郷の妙幻寺にも残されています。
■長栄寺の伽藍の北側にある歴代住職の方々の墓地の場所は勾配にして80度ぐらいの急傾斜で、比高差もかるく10m以上はありそうでした。
 館跡の遺構はこの左側の更に5mほど登ったところに開けています。
■遺構の南西部分のところから小道があって土塁の内側に入ることができます。
 郭の中は南側の一部分が墓地となっている以外はよく保存がなされているようです。
■本郭内は写真のとおりほぼ平坦な地形で南北60m、東西35mぐらいの規模を有しやや東側に向けて傾斜しています。
 なお正面が南側の土塁で、右側がだいぶ雑草が蔓延り始めていますが西側部分の土塁です。
■北側から本郭への小口部分と考えられる個所を撮影したもの。写真の中央部分がへこんでいるところが小口と考えられる個所で、撮影地点からは比高2.5m以上の坂小口状の形態を示しているのですが、写真ではただの初夏の草叢にしか見えません(^^;
■本郭東側の切岸部分を北側から撮影したもので現状でも4mほどの落差がありますので、東側には高い土塁は存在せず柵などにより防御されていたと考えるべきでしょうか。この下の左側の部分は長栄寺の庫裏が建ち並んでいる場所で、梅沢氏はその著書において二の郭の跡であろうと想定しています。この一方が開放された形式は東松山市の「足利基氏館」の雰囲気に似ています。
■本郭北側の空堀跡と思われる遺構で、斜面を上り途中で南に折れて堀切状の遺構に繋がっています。
■右上の写真から続く本郭西側の堀切のような空堀で、右側が本郭側の土塁で左側は西から続く尾根筋の切り落とし部分です。
■本郭の西側の土塁の上から見下ろした本郭内部で、4mから5mほどの比高差がありますので落ちると危ないです。
■本郭北側の空堀が南側に折れる辺りを撮影したつもりですが、やはり季節柄わけの分からない写真になってしまいました。
■本郭南西側に所在する方形の腰郭のような平場で、本格郭とは土塁で隔てられ本郭よりも幾分か低位にあります。
 
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