( 2005/05/16 撮影 )
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■城跡・長栄寺の東側には埼玉医大関係者の数百台を収容するような広大な駐車場がありますので、この場所から城跡を遠望するのが最適のようです。 駐車場から見ると、すでに長栄寺の建物の建っているところが比高10m以上の丘陵の先端部分となっており、遺構の所在している場所はそこから更に15mほど上の方になりますので季節によっては見晴らしがよいと思われます。
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■毛呂顕季、顕繁父子が大永5年(1525年)に開基したという金嶋山長栄寺の南側にある山門で、後ろ側に見える山林が遺構の存在する城跡。 顕季は永正元年(1504年)の山内上杉顕定と扇谷上杉朝良の立河合戦に上杉顕定として参戦し、後に戦死者供養のため48の念仏鉦をつくり、享禄元年(1528年)には焼失した毛呂大明神本殿(出雲伊波比神社)を顕繁が直ちに再建しています。
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■豊後の国司に任ぜられるなど鎌倉の有力御家人であった毛呂季光に次いで、著名な毛呂顕季の名を冠した館跡の石碑。 大永4年の10月に山内上杉氏憲房が上州勢を率いて後北条氏方の毛呂要害をめぐる戦いが行われた後に、「毛呂山町史」によると翌年の大永5年(1525年)に毛呂顕季は竜穏当寺七世節庵良均和尚を招来し小田谷の城館に長栄寺を建立し自らは一田幻世庵と号した。なお、都幾川村の大築城に付随するモロドノ郭は毛呂顕季に関連する遺構であるといわれています。
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■毛呂氏館跡の標柱で、側面に簡潔な説明が記されていました。 天正18年の秀吉の関東攻略の際も毛呂氏は後北条氏の家臣として北条氏照の居城八王寺城に一族が篭城したと伝えられています。毛呂氏の系図によれば、この時毛呂顕季の子である高齢の毛呂秋重を始として、毛呂越後守顕綱、同族の毛呂土佐守義可、毛呂義忠が討ち死にを遂げたとされています。こうして毛呂氏は一族としての血筋は保たれたものの、源頼朝以来の有力な在地領主としての地位を失い、残された一族は帰農するもの、徳川家に仕えるもの、川越藩の酒井氏に仕えるものなどに分かれていったということです。
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■なぜか分からぬがケーブルカーのゴンドラが...だいぶ以前に設置されたようで、現在は稼動していない様子ですが墓所の参拝用とも思えませんし、どちらかというとやや変わった光景ではありましたので記念に撮影。 |
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■長栄寺の歴代住職の墓地の傍らに所在する毛呂氏一族の供養塔。毛呂氏一族の墓はこのほか毛呂本郷の妙幻寺にも残されています。 |
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■長栄寺の伽藍の北側にある歴代住職の方々の墓地の場所は勾配にして80度ぐらいの急傾斜で、比高差もかるく10m以上はありそうでした。 館跡の遺構はこの左側の更に5mほど登ったところに開けています。 |
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■遺構の南西部分のところから小道があって土塁の内側に入ることができます。 郭の中は南側の一部分が墓地となっている以外はよく保存がなされているようです。 |
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■本郭内は写真のとおりほぼ平坦な地形で南北60m、東西35mぐらいの規模を有しやや東側に向けて傾斜しています。 なお正面が南側の土塁で、右側がだいぶ雑草が蔓延り始めていますが西側部分の土塁です。 |
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■北側から本郭への小口部分と考えられる個所を撮影したもの。写真の中央部分がへこんでいるところが小口と考えられる個所で、撮影地点からは比高2.5m以上の坂小口状の形態を示しているのですが、写真ではただの初夏の草叢にしか見えません(^^; |
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■本郭東側の切岸部分を北側から撮影したもので現状でも4mほどの落差がありますので、東側には高い土塁は存在せず柵などにより防御されていたと考えるべきでしょうか。この下の左側の部分は長栄寺の庫裏が建ち並んでいる場所で、梅沢氏はその著書において二の郭の跡であろうと想定しています。この一方が開放された形式は東松山市の「足利基氏館」の雰囲気に似ています。 |
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■本郭北側の空堀跡と思われる遺構で、斜面を上り途中で南に折れて堀切状の遺構に繋がっています。 |
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■右上の写真から続く本郭西側の堀切のような空堀で、右側が本郭側の土塁で左側は西から続く尾根筋の切り落とし部分です。 |
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■本郭の西側の土塁の上から見下ろした本郭内部で、4mから5mほどの比高差がありますので落ちると危ないです。 |
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■本郭北側の空堀が南側に折れる辺りを撮影したつもりですが、やはり季節柄わけの分からない写真になってしまいました。 |
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■本郭南西側に所在する方形の腰郭のような平場で、本格郭とは土塁で隔てられ本郭よりも幾分か低位にあります。 |
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