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大築城
関連ページのリンク  2005/03/21の日記  2005/03/19の日記  腰越城    
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ3 交通利便4 体力消耗2 歴史経緯3 印象度4 総合27
所在地
埼玉県比企郡都幾川村
歴史と沿革

■慈光寺の寺伝である「慈光寺実録」によれば、「小田原北条の家臣である松山城主上田朝直が、大津久山に出陣し慈光寺の動静を探り焼討ちを行い観音堂を残して堂宇がことごとく灰燼に帰した」との記録がある。また、「高山不動」の記録に文安3年(1466年)に吾那左ヱ門尉憲光が居城としたとの説もあるが詳細は不明である。なお、城跡からは鑓、刀身の一部、炭化米、紋入瓦などが見つかっているという。付近には大木戸、硯水、遠見、馬場などの中世城館と関連する地名も残り、関連する説話伝承の類も存在している。
 なお、長らく都幾川の山中に逼塞していたが、「新編武蔵風土記稿」の秩父郡椚平村の条には「大ヅク山 村の東にあり険阻の山にて登九町ばかり、絶頂に二十間四方ばかりの平坦あり、上田安独斎の城跡なりと云う」と記録されている。 また、なんらかの関係が想起される同村内にある旧大附村(大月村)に伝わる落武者伝承、「新編武蔵風土記稿」にも登場する、「松山城総郭絵図」の六の郭に記載されている松山城主上田氏の家臣大附左近清久との関わりも詳細については不明の模様である。

確認できる遺構
土塁、堀切、竪堀、郭、小口、腰郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高456mの山上に所在する山城。東西約200m、南北20mから50mの範囲に西側から本郭部分を含む5ケ所ほどの直線状に並んだ郭と2か所の大規模な堀切から構成されている。城への入口となる南側の峠部分は「モロドノ郭」と呼ばれる、南北120m、東西20mほどのなかば独立した小規模な出城が所在している。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「都幾川村の史跡と文化財」(1983/都幾川村教育委員会)
「であいふれあい文化財」(1990年/都幾川村教育委員会)
「都幾川村史資料3古代・中世編」(1997年/都幾川村)   

文化財指定
訪城年月日
2005/03/21
訪城の記録

( 2005/03/21 )
何故か砂埃の話題ですけど
 毎年3月から4月にかけてこの辺りの地域は下記の写真のような畑の砂埃に悩まされます。この辺りは以前からこうした状況だったかというと必ずしもそうではなく、状態が酷くなってきたのはここ30年位前からの傾向です。一方同じ川越市内でも田の多い地域や歴史の古い元来肥沃な坂戸市、毛呂山町、越生町などの畑の地域ではこれほどの砂埃は立っていませんでした。科学的かつ詳細な資料が手元に無いので断定的なことはいえませんが、17世紀の後半から18世紀にかけて徳川幕府の主導により新田開拓された畑作地域に共通する現象のようです。
 分かりやすい共通する特徴の一つとして、こうした畑ではミミズ類が殆どいません。つまり、ミミズの餌となるようなバクテリアなどの微生物類も存在せず土壌に粘り気が無いために、雨が降っても保水力がないので直ぐに乾いてしまいます。近郊農業地帯として野菜の効率的な生産に農薬や化学肥料の投与は現実的に欠かすことができず、そのことは結果として300年以上かかつて築き上げてきた土地本来の肥沃性を減じさせていったのではないかと考えられます。
 また相続税や固定資産税などの土地税制の問題もあり、税金対策上などの理由から雑草などを生やしておくことができないこともあり、除草剤を散布した結果がこの通りです。風で吹き飛ばされた砂状の土が如何に無機質かということは、その土で植物を育ててみれば分かりますが、適応できるのはサボテンなどの多肉質の植物のみでした。
 以前にはこの時期青々とした麦畑が一面に広がり麦の畝の間に人参などの野菜が植えられていましたので、多少の風が吹いたとしても現在のように砂塵を巻き上げるようなことには至りませんでした。昭和30年代の後半当時の家屋ははアルミサッシュなどという気密性の高い建具などは無く、窓などは木製のフレームに薄いガラスがはめ込まれた簡単なつくりでした。それでも家の中がざらざらになるというようなことは無く、窓枠とか敷居の部分に砂埃が目立つ程度でした。それが今や気密性の高いアルミサッシュの建具でも、板の間などは床中がざらざら、洗濯物は二度洗いといった按配です。

渋滞克服大作戦
 2日前に見当違いの場所で西側の山中を彷徨していたときはかなり真剣に悩んでいたわけで...渋滞を避けるために遅く出発したのが裏目に出て、登口に到着するまで何と2時間30分もかかってしまい、焦って訪城したのが全ての失敗の元凶ということです。
 従って今回は、前日に国道254線と川越市内を通らない複数の迂回ルートを徹底的に研究し、午前8時30分には自宅を出発したので、全く渋滞に陥ることも無く信号待ちも2信号が一回だけという次第で何と1時間20分少々の所要時間により目的地に到着しました。はからずも入念な調査と迅速で正確な行動があれば、物事は全て上手くいくということの証明となりました。
 車を止めた場所から100mも登ると20分ぐらいで猿岩峠に到達し、そこから5分ほどのモロドノ郭の先の分岐で少し悩んだものの無事に本郭に到着。小口の形態や堀切の大きさに感動を覚えつつ11時40分には下山完了。ずいぶんと時間が経ったように思いましたが、たったの1時間40分しか経過していませんでした。よし、今日は絶好調とばかりにこのあとは「高谷砦」(小川町)、所在地と登口の分かりにくそうな「水房館」、「泉福寺館」、「三門館」(以上滑川町)の訪城に成功。たまには、こういう日もあっても好いのではと、充実した納得のゆく一日でした。

「発見された城跡」しかし、文化財指定は無し
 城跡の山頂部分の小字名は西平では「大築」(おおずく)、椚平では「大津久」(同)、越生の麦原では「城山」となっています。このため西平では「大築城」「城山」、椚平・麦原で「城山」と呼ばれているということです。この城跡は近年まで忘れ去られていましたが、昭和43年(1968年)9月の台風により山林の倒木が多数発生しその復旧のための伐採が行われた際に再び人々の目前に姿を現したという城跡です。もう40年近くも前のことですが、当時の新聞の社会面を賑わしたことを今でもはっきりと覚えています。
 これだけの遺構が存在しているにもかかわらず、歴史的な経緯が不祥な部分が多いためか県のみならず町の文化財としての指定も行われていません。都幾川村には1300年の歴史と国宝・重文を有する慈光寺を始めとする宗教関係の文化財が多数存在しているという事情があり、中世城郭跡としての存在が目立たないのかもしれません。いずれにせよ、都幾川村は平成18年2月1日に小倉城のある玉川村と合併することがほぼ確定しています。小倉城は国史跡の指定を受ける可能性もあるようです。史跡の保存のためにもせめて合併後の「ときがわ町」の史跡指定が受けられるといいのですが。

Best Shot?


 本郭東側の郭の東側の小口部分をそのまた東側の小口郭から撮影。郭の配置は東西200mほどの稜線の間に西側の本郭を始めとして大小6つほどの郭が2か所の大規模な堀切と共に直線的に配置されています。
 ( 2005/03/21 撮影 晴 )
交通アクセス

・越生の麦原から登っても都幾川の椚平から登っても自分の足が頼りの山城なので最低でも上り35分の山道を歩きます。MapFan Web の案内図です  


( 2005/03/21 撮影 )

■一昨日の体験から渋滞を避け早めに迂回路で出発した途端に、川越市の中福付近で季節風の砂嵐に直面しました。この地域一体では、この時期そんなに珍しいことではありませんが、決して以前からこれほど酷かった訳でもありません。
その原因は
1.農薬・除草剤の散布と化学肥料の使いすぎによる土壌の無機質化。
2.冬から春先にかけての穀物づくりの定番であった麦作を含めた畑作の作付けが減少したこと。
3.防風林や畑の茶の木などが減少したことなどが考えられます。
■麦原の集落の中の城山 ( 大築城 ) への最初の分岐。
 ここで右に折れても、下の写真にある場所から右に折れても「モロドノ郭」に辿り着きますのでお好きなほうをお選びください....などと冗談を言えるのも大築城のリベンジに成功したから言えるわけで。
 なお、こちらからのほうが歩く時間は倍ぐらいになりますが、歩きやすい比較的緩やかな登り坂です。
■見れば見るほどに分かりやすい案内図です。これを頭に入れておくだけでも、自分のような見当違いは起こらないはずです。
■上の写真の分岐から数百メートル上流方向に進んだところに、このような分岐があります。ここで右に折れないと一昨日と同じ結果に陥ります。
 こちらの道のほうが猿岩峠経由ですが、車でかなり上の方まで入れますので比高差100mを克服すれば20分足らずで峠に到着します。いきなり急坂を登るのでゼイゼイ、ハアハア状態に陥らないようにゆっくりと呼吸を整えて登ることが肝要です。経験的に...
■林道は車のすれ違いが難しいほどの狭い部分もありますが、谷は数メートルとそれほど深くは無いので車ごと転落しても一命は取り留めるかも知れませんが、途中から舗装は無く砂利道となりますのでくれぐれも安全運転を心がけましょう。
 谷が大きく開け上の尾根筋が見通すことのできる場所から林道は大きく左側に曲がり尾根筋を斜めに登っていきます。ここで、道路わきの山側に車を止めていざ訪城へ。
 大築城への道はここから先ほどの林道と別れて、この写真のような木橋を渡って山中の急登に入りますが、20分前後であっけなく猿岩峠に到着します。山道を歩きなれていない方には少しきついかもしれませんが、時間をかけてゆっくりと登れば必ず到着します。
■猿岩峠から反対側に下ると都幾川村の西平地区大椚の集落に下ります。また、写真の道を西に上っていくと道は尾根筋の南側をまきながら次第に高度を上げ1時間少々で、自分が2日前に彷徨した「馬場」付近の鞍部に到達します。
 モロドノ郭で遭遇した花粉症気味の中年男性はこの道をマウンテンバイクを押して汗だくで登っていきました。おそらくはその先の奥武蔵グリーンラインまで行く様でした。
■大築城へ向かう稜線南側の巻道の途中から、一昨日自分が彷徨していたピークが見える。右側の三角形の小さく黒く見えるのがそれです。
 あのピークには2回も登ってしまったのですが、あそこでいくら城跡を探しても見つかるはずはないのでありまして...
■大築城 ( 城山 ) への分岐のある「モロドノ郭」です。すぐ上にある腰郭と合わせてこの場所自体が独立した小規模な山城になっている様な感じです。また、麦原の住吉神社方向から猿岩峠へつながる峠道を南北に挟み込んで防御する形となっています。なお、「モロドノ郭」という名称はは毛呂山町の豪族毛呂氏に因んだ地名と考えられているようです。
 大築城への道は、この場所から今度は北に向かい、少し東にそれて今度は北側に、そしてさらに西へと、方向がくるくると変わります。従って縄張り図を持参していても、方向感覚が少しおかしくなるぐらいによく考えられた縄張り配置となっていますので少し注意が必要です。
■モロドノ郭から百数十メートルほど進むと本郭方面へ左側の斜面を一気に登る道があります。一応本郭への近道ですがこれを無理して登らなくても100mほど先まで進むと左に曲がる緩やかな登道もありますが、その分岐には何も表示がありませんでした。
■一昨日の平成17年3月19日に山中を彷徨していて「発見?」した稜線上の平坦地である「馬場」。確かに指道標には「右、城山」と書かれていました。しかし、登口の現在地を誤認したために、尾根筋は同じでしたが何と1キロも南西にある、標高も100mほど高い無名峰の周辺を2時間以上もうろついてしまったのであります。
 尾根筋の南側のよく整備された林道や地名、風景になんとなく既視感があったので、昔の写真をよく調べてみたら40年ほど以前に来ていたことが分かりました。大築城から南西に稜線の南側の林道を50分近くだらだらと登った地点にあります。
■本郭東側に所在する説明版。完結で分かりやすい説明が記されていますが、三行目は明らかに「つ」の部分は「って」の間違いではないかと(^^;
■本郭北側に残る土塁跡。長さは50mほどあるのですが、予め知らないと土塁であることを見落としそうなぐらいの高さしかありません。
 尤もこのような四方が切り立った地形ですので、土塁など無くても大丈夫なようですが、それでも北側に土塁があるというのはやはり慈光寺方面を意識してのことでしょうか。
 本郭は東西70メートル、南北20mほどの平坦で細長い地形です。
■本郭から見える笠山 ( 右 )、堂平山方面の山並。笠山の手前に腰越城があるはずですが手前の山に隠れて見えません。
■上田氏が焼討をしたとされる慈光寺方面だと思います。
■西側の端の方から見た細長い平坦な本郭。
■本郭の東側の郭からから見た様子で、写真では分かりにくいのですが比高差は最大で3m近くあります。
■小口郭の南側にある小口部分。
■左の小口郭の南側下方に位置する小口前腰郭部分
■小口郭の東に位置する大規模な堀切跡。この堀切の規模を目の当たりにすると慈光寺の攻略のためだけに築城されたと考えるのは攻撃のための拠点としては少し無理があるような。
■こちらは東側の腰郭を一つ挟んだ別の堀切跡。防御施設としては十分すぎるぐらいです。モロドノ郭まで上がってくるののでさえ、かなりへたばりますので、当時の足回りの装備や山道の状態を考えると、備えあれば憂い無とは言うもののここまでの防備をこの峻険な山上に施す必然性はどういった状況下で発生したものなのでしょうか。
■一つ前の堀切の山側部分は比高差にして10m近くあり、勾配もどう見ても40度以上ありそうで、こんな険しい山城で何もそこまでしなくてもというような備えとなっています。
■モロドノ郭付近の北側の腰郭部分。直下が切り落とされていますので余り恥の方には近寄らないほうが良さそうな雰囲気です。踏み外せばそのまま数十メートルは落下していきます...たぶん。
■猿岩峠から北東に向かって直接本郭に登る道もあるようですが、道も踏み跡程度で勾配も険しく余りは行く人はいないようです。右側の道が通常のモロドノ郭へ至るメインルートで、左側の尾根伝いの道は踏跡も微妙で勾配のきつい本郭への難ルートです。歩きなれていない方は必ず右側のルートをお進みください。
■車を止めた場所から猿岩峠付近の稜線を望む。城山への登山口は右側の杉の樹林帯の中を登っていきます。
 右側の杉木の上方の茶色く見えるのはスギ花粉の塊です。
■麓の近くの越生梅林では、そろそろ終わりのシーズンを迎えているようです。
■折からの強風で杉の花粉も飛んでいましたが、梅の花びらも大分地面に散り始めていました。
 
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