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山根城(毛呂氏館)
関連ページのリンク  2005/05/16の日記  村田和泉守館  斉藤氏館  毛呂城(毛呂氏館)           
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象1 総合20
所在地
埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷324
歴史と沿革

■中世の毛呂氏の館は複数が存在していたらしく、「常設展示解説図録」(1994/毛呂山町歴史民俗資料館)などの毛呂山町関係の資料などによれば、一つが小谷田の長栄寺の裏に残る遺構であり、もう一つが、この毛呂本郷の字堀ノ内と呼ばれる場所であるとしている。このほか同じく毛呂本郷の榎堂は毛呂氏が最初館を構えた場所として伝えられている。
 一方、この場所は「新編武蔵風土記稿」においては「毛呂土佐守顕季陣屋跡」と記されており、現在外形的に確認できる遺構はないものの、嘉永4年(1851年)に毛呂氏の子孫の山田吉令が作成した妙幻寺付近の絵図には「毛呂家代々屋敷跡 畑地 字堀ノ内一反四十五畝程」と記されている。またさらに、古い地籍図には方形状の堀跡の形跡が確認できるとのことであり、比較的古い時代のものであろうとしている。
 なお、大田道灌書状によると15世紀の後半には毛呂氏は「土佐守」の一族と「三河守」の一族に分かれ、このことから毛呂郷の館も複数存在していたことが推測されるという。

確認できる遺構
無し
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南北を越辺川の支流の大谷木川、毛呂川に挟まれ、東には出雲伊波比神社の所在する臥竜山がある。
 しかし、現在は畑と住宅地でその中を南北に八高線が縦断し、かつての館跡の面影は全くなく「山根城跡」と刻まれた城跡の石碑がなければ誰も気がつくことのない状況となっている。なお「山根城」とは通称(俗称で)とのことで、「山」は臥竜山を指しその根古屋を意味するものなのであろうか。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「毛呂山町史」(1978/毛呂山町)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「常設展示解説図録」(1994/毛呂山町歴史民俗資料館)
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版)
「毛呂山町歴史民俗資料館のHP」   

文化財指定
訪城年月日
2005/05/16
訪城の記録

( 2005/05/16 )
踏切と城跡の関係は
 昼食後、毛呂山町の中央公民館の駐車場にそのまま車を置かせてもらい、ふたたび徒歩にて八高線の線路脇の城址石碑のある場所を目指していくとなにやら記憶のあるところに出ました。道路がきれいに整備されたりして途中の景色が変わっていたので、すぐには思い出しませんでしたけど。実はこの辺りは家内の妹の嫁ぎ先のすぐ近くの場所で、県内でも比較的著名な出雲伊波比神社(いづもいわい神社)の周辺でした。昔、子どもたちの小さい自分には年に数回ほど来ていたのですが、以前訪れたのはもう15年ほど前にもなるのでしょうか。
 さて、肝心の城跡めぐりですが始めから遺構が存在していないことは了解済みの場所です。唯一城跡だったことを示す目印の「城址の石碑」はというと...「八高線の線路際」との事前の情報ですが、いくら辺りを見回しても少しもそれらしいものが見当たりません。もしかすると踏切からは大分離れた線路際の辺りなのかと、遠くを眺めても見つかりません。しかし、よく見てみると踏み切りの手前にある植え込みに隠れた小さな一角にそれらしい姿が...ありました、ありました。まさに灯台下暗しとはこのことで、踏切の遮断機のすぐ傍の植え込みに隠れるようにして思いのほか小さな城跡の石碑が鎮座していました。これでは車で通過したら絶対に見落とす可能性があり、結果的に徒歩での探索がまずは役立ち、めでたしめでたし...(^^; 予め情報は得てはいましたが、周辺には八高線の線路と畑と住宅以外には何の見るべきものもなく、ここが城館跡であったといわれても「はあ、そうですか」というような印象ではありました。
 それにしても城跡のすぐ東側に位置する出雲伊波比神社の鎮座する臥竜山と呼ばれる小山の方が、どう見ても地形的には中世城館の所在地らしく見えました。文献・資料・伝承などの裏づけは全くありませんが、もしかするとある時期にはそうした役割を担っていても不思議がないというほどに周辺から独立した見事な丘陵を形成していました。

Best Shot?


 日本全国に数多く残されている中世城館の内でも、城跡の石碑が踏切の防護柵の隣にあるというのはかなり珍しい事例ではないでしょうか。
 この写真からだけで想像すると人の背丈ほどのある程度大きなものを想像しがちですが、実際には高さは70センチメートルぐらいの大きさなので踏切の遮断機装置の一部のように見えてしまい車から探すのは困難です。
 ( 2005/05/16 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR八高線毛呂駅より北へ6分から10分、駅から北へ二つ目の踏切の傍 MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/16 撮影 )

■城跡の石碑から東へ200mの至近距離に位置する出雲伊波比(いずもいわい)神社の所在する臥龍山。
 大変立派な名称が付けられていますが、実際は比高20m程度の丘陵のようなものですが、平地に位置しているために、このようにたいへん目立つ存在です。
 「小田原衆所領役帳」によると後北条家家臣の紫藤新六が毛呂山の大類の地などに知行があり、「新編武蔵風土記稿」では同姓である紫藤蔵人が神官を務めていたと記され、このことからその一族としての関わりを示唆しているものの詳細については不明のようです。
■写真の中央にある踏切遮断機の防護柵の陰に城跡の小さな石碑が所在しています。
 とても現在の状況からは、この踏切の周辺部分がかつては堀ノ内と呼ばれた城館跡であったとは俄に信じがたいような気がします。
■通称「矢車草」といわれていますが、正しくは「矢車菊」だそうで、八高線の踏み切りの線路際の空き地で折からの風にゆらゆらと揺れていました。実は撮影の時になかなか風が収まらず、左手で茎の下の方を抑えているために花の先端部分のみの画像となっています。
 ヤグルマソウは葉の形が鯉幟の矢車の形に似ていることから付けられた名称で、ヤグルマギクは花の形が矢車に似ています。
■流鏑馬の神事でも著名な出雲伊波比(いずもいわい)神社は臥龍山の山頂にあり、文政8年(1825年)の『臥龍山宮伝記』によれば景行天皇の時代に出雲の神を祭ったことを起源とすると伝えています。その後鎌倉時代の初めの建久年間に源頼朝の命により畠山重忠が社殿を改築したと伝えられ、戦国時代の享禄元年(1528年)には毛呂顕繁が消失した本殿を直ちに再建しています。また、江戸時代には徳川幕府の庇護を受け、徳川家光が社殿の修理を命じたということです。
 なお、神社本殿は埼玉県内最古の神社建築として国の重要文化財に指定されています。また、平安時代初期の法制書である「延喜式神名帳」に示された式内社の格式があると伝えられますが、これについては入間市の出雲祝神社を指すとの異説もあります。(参考「神社辞典」1997/東京堂出版、「新編武蔵風土記稿は」ほか)
 
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