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斉藤氏館(斉藤美濃守館)
関連ページのリンク  2005/05/16の日記  村田和泉守館  山根城(毛呂氏館)             
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象2 総合29
所在地
埼玉県入間郡毛呂山町大字岩井字平山1605
歴史と沿革

■『毛呂山町史』によると、斎藤氏の祖は三河の武士で、天文4、5年(1535〜36年)ごろにこの毛呂山に移り居館を構えたと伝えられており大字岩井の平山地区の堀の内と呼ばれている屋敷の南北には場所により2mを超えるような高い土塁が残されている。
 なお、「新編武蔵風土記稿」では、すぐ200mほど東側の堀ノ内である村田和泉守館については記述があるにもかかわらず、こちらの屋敷跡については何の記述もないことがやや腑に落ちない。編纂の過程で同じ平山村の小名堀ノ内であったために同じ内容のものであると誤解されたためでなのであろうか。
 斎藤氏は、平安末期に源為義・義朝に仕えて越前国篠原の合戦にその名を残した斉藤実盛の子孫とされ、斉藤美濃介富長は当初扇谷上杉家の上杉定正に仕えた。後に北条氏の松山城主の上田氏に仕え、天正18年(1590)の秀吉の関東侵攻に伴う松山城落城とともに斎藤平治大夫富治が毛呂山のこの地にもどり帰農し、堀の内の屋敷からその東の広い屋敷に転居した。その後近代には「平山大尽」と呼ばれる毛呂山で一、二を争う造り酒屋、質屋もかねた豪農となったが、現在その屋敷跡は住宅地や工場敷地となっている模様である。
 一方、堀の内の旧屋敷は、後に子孫の分家屋敷となり斉藤姓の子孫の方が現在も居住されているということである。また、この経緯・伝承については「入間郡誌」「平山家文書」を基に推定しており、この辺の事情は『毛呂山町史』に詳述されている。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東西130メートル、南北80mの規模の方形館であり、東側200mにほぼ同規模の村田和泉守館が所在している。
 また、北側100m付近には越辺川の支流の小河川が東流し館の防備を固める役割を担っている。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「毛呂山町史」(1978/毛呂山町)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「常設展示解説図録」(1994/毛呂山町歴史民俗資料館)
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版)
「毛呂山町歴史民俗資料館のHP」   

文化財指定
毛呂山町指定史跡 埼玉県選定重要遺跡1969年10月1日指定
訪城年月日
2005/05/16
訪城の記録

( 2005/05/16 )
周辺の宅地化の中で保存状態がすばらしい
 直線距離にして村田和泉守館の西側200mに位置する城館跡で、土塁の状態はこちらの方が北側の防風林などが残っていることもあり更により適正に管理され整然と残されているという印象があります。中世鎌倉期から戦国時代にかけて、共に堀ノ内と呼ばれた本当に目と鼻の先の関係にある近接した二つの城館は一体どのような相互関係にあったのでしょうか。『毛呂山町史』によるとかつては一時縁戚関係にあったようにも記述されています。
 北側の土塁の外側には深さこそ30センチ程度ぐらいですが空堀跡と思われる遺構ももしっかりと残され土塁の高さも外側で2mを越えると思われる部分も部分もあります。周辺が宅地化される中であるにもかかわらず、極めてよく残されている事例ではないかと思います。このあと公民館まで一度戻り、次の訪城ポイントの確認をしつつ、近所のスーパー「いなげや」の蒸しパン2個という極めて簡単な昼食を摂取。 ( やや、分不相応なデジカメを購入したため財政難というだけですが(^^; )

Best Shot?



 東側から撮影したもので、こちらの北側の土塁はおよそ長さ60m程で、高さは外側の空堀跡と見られる部分からだと約2m近くあり、空堀の窪みは大体30センチメートルほどと思われます。
 ( 2005/05/16 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線東毛呂駅下車徒歩約10分程度 MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/16 撮影 )

■植樹された防風林のために少し分かりにくい画像ですが、北側部分の土塁を北西の公道側から撮影したもの。
■上記の写真と同じ位置から撮影していますが空堀のほぼ真横の東側からの撮影です。
■館の北東部分の角辺りを撮影したもので正面方向が南側になりますが、外側から見た限りでは土塁が途中ではっきりとしなくなっているようでした。すぐ東隣では6軒の住宅建設のための宅地造成が行われている最中でした。
■高いところでは2.5mもある東側の畑の中に所在する鍵の手の形態の土塁らしき連続した土の塊。
 斉藤氏館のものと関連があるのかどうか、今のところこの土塁の性格がよく分からないので調べてみようと思っています。
 
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