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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
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所在地
 群馬県利根郡みなかみ町月夜野1120、1125他
歴史、人物、伝承

小川可遊斎の武勇伝
 播磨地方の名族である赤松則村の末裔とも伝わる小川可遊斎(5代小川家当主)の武勇伝でも知られた城郭である。可遊斎は後継の絶えた沼田氏の一族である小川氏の後継者となったとされているが、その出自や没年などについては不明な部分が多い。
 現地解説板などによれば、明応元年(1492)小川家初代(沼田氏分流、約3500石とも)の小川景秋(岡林斎)により築城されたと伝わるという。永禄3年(1560)長尾景虎(のちの上杉謙信)の越山に伴い沼田一族はその幕下に加わり後北条氏に対抗した。しかし、謙信の死去により後北条氏の攻勢が強まり武田氏(真田氏)に従い、真田昌幸とともに明徳時城の攻略にも加わった。その後真田氏も加わりこの小川城を防衛したが、天正8年(1580)北条氏邦の大軍により小川城は落城し、可遊斎は越後に逃れた(※この越後への退避は「加沢記」による)ともいわれているが、この辺りの経過と可遊斎のその後については異説もありはっきりとしたことは分からない。その後後北条氏の滅亡により小川城は一時真田氏の支配下に復し、城代とされた小川氏重臣である北能登守が天正20年(1592)頃まで在城した。時は流れ寛永15年(1638)頃から明暦2年(1656)までは第5代藩主となる真田信利が石高5千石の小川陣屋として在城していた時期があるが、沼田城主を承継したことにより廃城となったとのことである。
 なお、「月夜野」の地名については「上野国郡村史」によれば江戸時代初めの承応年間(1652-1655)に小川郷の内から下小川を「月夜野町」と改称したことが記されている。このため中世の文書、記録には月夜野の地名は記されず、「小川」として記されている。(※「角川日本地名大辞典 群馬県」より)

確認可能な遺構
 郭(本丸、笹郭ほか)、空堀、土塁など
文化財指定
 町史跡 1970年4月1日指定
訪城年月日
 2014年5月5日 11時20分11時40分
訪城の記録 記念撮影

 滞在20分
 この城跡も長年にわたる塩漬け状態物件の在庫更新です。何分にも訪城からはすでに3年8か月ほど経過しているため記憶は断片的で曖昧となっております。管理人も少し前までは、何かの拍子で記憶の糸を掴むと、次々と芋づる式に思い出すことができたのですが、この齢になるともはや期待はできなくなりました (^^ゞ
このため撮影した画像の説明は極めて曖昧なものとなっております。 <(_ _)> 
本丸と笹郭を中心として折を伴う空堀跡が良好に遺されてはいますが、それ以外の部分は二の丸部分とされている個所を含め表面観察上からは、城跡としての形跡を確認することは難しくなっておりました。なお、城跡近くには適当な駐車スペースが見当たらず、このためだいぶ駆け足気味の探訪となっております。
( 2018/1/7 )記述
小川城本丸付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
小川城本丸付近 −画像A−
( 2014年5月5日 撮影 )
 二の丸内の南東方向から空堀越しに撮影をしたもので、画像中央やや上の盛り上がった地形は櫓台ともいわれているものです。

小川城の航空写真画像 ⇒ 画像クリックで拡大します
小川城の航空写真画像(国土地理院航空写真より編集加工) −画像B−
 戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影されたもので、国道291号線により分断され現在では目にすることができない二の丸の堀跡と形状など含め本丸、笹郭などの縄張りも確認できます。
訪城アルバム
名所案内板 ⇒ 画像クリックで拡大
味城山 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 案内板
 上毛高原駅の西側に設置されていた観光案内板で、小川城と味城山城の解説が記されておりました。
凸2 味城山(みじょうやま)
 小川城落城の後に小川可遊斎が立て籠もったともいわれている山城が所在しています。

小川陣屋跡 ⇒ 画像クリックで拡大
二の丸跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 小川陣屋跡
 真田信行の孫である真田信利(伊賀守)が5千石で封じられていた近世の陣屋跡だそうです。後に沼田藩主となったものの検地の水増しと苛烈な年貢取立てにより沼田真田藩取潰しにつながりました。
凸4 二の丸堀跡
 この立札が無ければごく普通の畑にしか見えません。

二の丸跡 ⇒ 画像クリックで拡大
本丸堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 二の丸跡
 現況は畑です。この日はほぼ一日中曇りがちで小雨の降るような気配もありました。
凸6 本丸堀跡
 訪れましたのは5月初旬でしたが、堀跡には草が伸び始めておりました。やはり土の城跡の探訪は晩秋から春先がよろしいようです。

現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
本丸土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 現地解説板
 小川可遊斎の記述が詳しい本丸に設置されていた解説板です。
凸8 本丸土塁
 大分低くなってはいますが、本丸の北辺部の土塁です。谷筋への傾斜は急で比高差も20m前後はありそうで這い上がることは難しそうでした。

城址碑 ⇒ 画像クリックで拡大
笹郭 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 城址碑
 本丸内に設置されている城址碑です。
凸10 笹郭
 本丸の東側に所在している笹郭とされている小郭の先端部分で、撮影位置の後方は急崖が形成されています。年代不明の川原石ですが、たぶん石垣として積まれていたもののように思われました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

※城跡近くには駐車できるような場所は見当たりませんので車で訪れる際には注意が必要です。
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
 ※同書によれば、「上野邦利根郡の国人 。同郡小川発祥。赤松則村の末裔と伝える。上杉謙信に属した沼田衆の筆頭格。永禄12年(1569)の北条氏との和睦交渉で上杉方の使者として活躍している」と記されているのみで、生年、没年などの記載は無い。
「増補改訂 戦国大名と外様国衆」(/戎光祥出版)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)

・2018年1月7日 HPアップ
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