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群馬県みなかみ町の城館索引へ戻る 名胡桃城 名胡桃城のロゴ 名胡桃城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月26日のブログ 小川城
所在地
 群馬県利根郡みなかみ町月夜野下津
歴史、人物、伝承

後北条氏滅亡の直接の契機となったとされている城跡
 天正17年(1589)11月3日(※別に10月23日説あり)豊臣秀吉のいわゆる「惣無事令」に逆らい、沼田城代とされる猪俣邦憲により略取されたともいわれている真田氏側の城で、翌年の天正18年(1590)豊臣秀吉による関東侵攻の口実を与えることとなった有名な城跡である。
しかし、その背景、経緯の詳細については不明な部分も少なくなく、このためその背景をめぐっては諸説がある。たとえば名胡桃城側における城代鈴木重則とその姉婿であった中山久兵衛との確執を挙げる説もあれば(※「図説真田一族」)、秀吉による利根、吾妻地域の領有に関する「沼田裁定」(三分の一を真田氏、残りの三分の二を北条氏の所領とする)を不服とする猪俣らの策謀とする通説もある。城代である鈴木重則(※鈴木主水とも)は名胡桃城で討死を遂げたという説もあれば、真田家のものではない偽の召喚状により城を空けたところを略取され、その責めを負い自害したとの説もある。また一方の猪俣邦憲については、豊臣政権側からは重罪人とされつつも生死不明でその後の消息は不明とされている。いずれにしても後北条氏勢力による真田家の名胡桃城が奪取されたという事実があり、直接的にはその対応の稚拙さがあり、以前からの北条氏政の豊臣氏に対する出仕(服従)の遅延を背景(北条氏に対する不信感の増幅)に豊臣氏による関東侵攻を誘発することとなった。
また近年の発掘調査などに基づく成果により、その構造は大きく3期に分かれるという説も提示されている。(※「ぐんまの城30選」より)
利根川および赤谷川の崖線沿いの谷筋に囲まれ防御に適した立地であり、外郭部といわれている部分や般若郭を除くと、郭面積の広さは4千平方メートル前後の比較的小規模な中世城郭である。

確認可能な遺構
 空堀、郭、虎口、腰郭、復元土塁ほか
文化財指定
 群馬県史跡 1949年12月20日指定
訪城年月日
 2017年11月26日 8時00分から9時00分
訪城の記録 記念撮影

 たぶん半世紀ぶり
 1年ほど前にひととおりの整備事業が終わったらしく、復元土塁を始めとしてやいくぶん過剰気味に空堀への転落防止などの措置が為されていなくもありませんが、空堀と郭の配置を眺めているだけでも楽しげで気軽に訪れることのできる城址公園風の城跡です。当該城跡の南東には良く目立つ富士浅間砦の岩峰が聳えており、当城に関連する「のろし台」あるいは「物見」ともいわれているようです。 主郭先端部の笹郭のさらに先端にある物見郭へ赴こうと思ったのですが、季節外れの気温上昇により斜面の霜が融け始め滑りやいくなってきたために途中で引き返しました (^^ゞ
 駐車場として整備されている「般若郭」にはざっと40台ほどは収容できそうで、国道17号線沿い北側にはトイレも使用できる案内所も併設されているなど至れり尽くせりでした。またいかにも観光地にありそうな幟旗がそこかしこに林立していましたが、管理費用の面を考慮すると果たしてどれほどの投資効果があるのだろうかと気にもなりました。
 実は中心部に足を踏み入れたのはおそらく今回が初めてですが、たぶん対岸の国道を含めた通過回数は人生で延べにして100回は超えているはずではないかと思います。 最初にこの前を通り過ぎたのは恐らく半世紀ほど前の昭和40年代初頭で、その時も既に城跡の標柱を目にした記憶は微かに残っています。 たぶん、その頃の色のさめた古いカラー写真を調べれば1枚くらいはあるような気がするのですが、現在では生憎手元には所持してはいません。記憶ではその当時はもう少し木々に覆われていたようなイメージもあるのですが、何分にも昔のことなので記憶が薄れています。その後1990年の初め頃までは、通りすがりによく対岸の旧国道やこのバイパスを通過していましたが、その後高速道路が完備した影響もあったのかあまり近くに来るようなことは無くなってしまいました。
( 2018/1/1)記述
名胡桃城 ⇒ 画像クリックで拡大します
名胡桃城(国道17号線月夜野バイパス側より) −画像A−
( 2017年11月26日 撮影 )
訪城アルバム
名胡桃城 般若郭(見学者用駐車場) ⇒ 画像クリックで拡大
般若郭より ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 般若郭
 現在では見学者用駐車場を兼ねているようなのですが、この場所も本来は建物跡が確認されている城跡の一部として考えられているようです。午前8時前に到着したので一番乗りでした ^^
凸2 般若郭より
 むしろこの辺りからの景観の方が、復元土塁や擬木の柵列があまり気にならず中世の城跡らしい趣が伝わってくるように感じました。画像奥の特徴のある山は富士浅間砦方面です。

自販機 ⇒ 画像クリックで拡大
案内所 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 自販機
 案内所前に設置されている飲物の自動販売機です。「小松姫」のキャラクターらしいのですが、いかにも「観光地」といった感じの雰囲気が漂ってきました。
凸4 案内所
 この時点では「大河ドラマ真田丸」の余波で、未だに幟旗が賑々しく林立しておりましたが、いくぶん心なしか色合いが褪めはじめてきたようにも感じました。

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凸5 空堀
 二の郭(画像左)と三の郭(画像右)の間を分かつ堀幅約15mほどの規模の大きい空堀跡です。土橋状地形の上にちょこんと木橋を乗せるのという展示方法はどう考えるべきなのでしょうか。こうした改修の跡が残されている城跡の整備の難しさを表しているのでしょうか。
凸6 二の郭虎口
 二の郭南側虎口付近と復元土塁。いわゆる土塁のラインがずれた喰い違いの構造となっていたようです。こうした中世城郭の構造上の特徴はこうした復元土塁なしには分かりにくいことは確かなようです。

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凸7 復元土塁
 二の郭北側の復元土塁です。この部分の土塁跡は築城当初には存在せず、後の改修時に付け加えられたものと考えられているようです。
凸8 二の郭
 二の郭と呼ばれてはいるようですが、後の改修により北側の主郭の代わりにこの二の郭が主郭としての機能を果たしたのではないかと考えられているようです。月夜野バイパス南側の外郭部については、以前から宅地も多く存在していることから概ね従前どおりのようです。

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凸9 富士浅間砦
 10年ほど前ならば、多少なりとも登る気力と体力は残されておりましたが...
凸10 城址碑
 県指定史跡と刻まれています。

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凸11 城址碑
 こちらの方が植栽などに囲まれより味わい深さを感じます。この日は日曜日でしたが、比較的早い時間帯でもあり訪れていた見学者は自分たちを含めて3組ほどしか見かけませんでした。
凸12 主郭
 たしかに障害のある方、年配の方、お子さん連れの方などの安全に配慮されているということは理解できるのですが、ここまで厳重な囲いが設置されますと、景観上の問題も発生するようにも思われその辺りが実に難しい問題です。利根川沿い北側の笹郭方面から撮影しています。

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凸13 三峰山方面
 恐らく画像の左奥が小川城で、中央やや右の段丘が明徳時城の辺りに相当するものと思われますが、正確には分かりません。沼田城方面は右岸の河岸段丘の陰になるようなのでこの位置からは見えません。
凸14 物見郭
 笹郭の更に先端に所在している物見郭ですが、周囲の樹木が元気に伸びているので今のところ眺望はありませんでした。この辺りからの段丘の比高差は意外に低く約40mほどでした。

案内所のリーフレットコーナー ⇒ 画像クリックで拡大
航空写真画像 ⇒ 画像クリックで拡大
凸15 案内所内部
 お城関係を含めてこのように各種無料のパンフレットが多数取り揃えてありました。暫時休憩もできるようなコーナーもあり、清潔なトイレも完備しているのでうれしい限りです。
凸16 航空写真から(国土地理院サイトより)
 赤枠部分の名胡桃城が所在している場所以外にも、利根川および支流となる赤谷川の河岸段丘沿いに複数の崖端城に相応しい地形が見えます。こうした類似地形のなかで、何故現在地に城が築かれることとなったのでしょうか。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東の名城を歩く 北関東編」(2011/吉川弘文館)
「ぐんまの城30選」(2016/上毛新聞社)
「関東の城址を歩く」(西野 弘道 著/2001/さきたま出版会)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「信濃真田氏 論集戦国大名と国衆13」(2014/岩田書院)
「真田氏一門と家臣」(2014/岩田書院)
「東国の戦国争乱と織豊権力 動乱の東国史7」(2012/吉川弘文館)
「戦国北条一族」(2005/新人物往来社)
「秀吉の天下統一戦争 戦争の日本史15」(2006/吉川弘文館)※事件の背景を略述
「小田原合戦と北条氏 敗者の日本史10」(2013/吉川弘文館)※事件の背景を略述
「真田三代 名城と合戦の秘密」(2015/宝島社)
「戦国大名北条氏」(2014/有隣堂)
「北条氏邦と猪俣邦憲」(2010/岩田書院)※猪俣邦憲の出自(伊豆衆富永氏説)等に関する研究を掲載
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)※中山久兵衛による策謀説を提示
「後北条領国の地域的展開」(1997/岩田書院)※発給文書を軸として猪俣邦憲の出自、役割に関する論考を掲載

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)関東資料研究会による復刻本(1976年刊行)
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「関東古戦録」(2002/赤城出版)※名胡桃城事件について従来の通説により記述されている。

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)

・2018年1月1日 HPアップ
・2019年3月2日 chrome対応のためタグ等を修正しました。
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