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群馬県みなかみ町の城館索引へ戻る 薄倉城 中城 四方の砦 薄倉城 中城 四方の砦のロゴ 薄倉城 中城 四方の砦
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  名胡桃城 宮野城中山城
所在地
 群馬県利根郡みなかみ町須川
歴史、人物、伝承

須川衆の砦とも
 南北を赤谷川の支流に挟まれた東西方向にのびた丘陵に所在し、堀切などにより区画された崖城に近い平城である。「須川記」によれば、天正10年(1582)3月、中山城から伊儀七郎衛門、中山久兵衛を将とする吾妻勢が当地の須川に押寄せ、須川衆はこの要害に立て籠もり沼田からの援軍とともに激闘したが、「のろし」の代わりに泰寧寺の堂宇に火を放ち沼田にその急を告げたという。(※「日本城郭全集」「日本城郭大系」より)
 「須川」については「須河」とも書き、天正8年(1580)5月6日の森下又左衛門宛真田昌幸定書によれば、「猿ヶ京を攻略すれば須河の内から宛行う」旨が記されている。(※「森下文書/群馬県史資料編7」より)また、同年5月19日の真田昌幸条書では須川衆に対し給分を与えていたことが記されている。(※「吉川金蔵氏所蔵文書/群馬県史資料編7」より)このほか天正10年と推定される3月27日の矢野綱直書状では倉内城(沼田城)の開城に伴い沼田を出ることとなった上杉家家臣について「須川に屋敷を立作させ申度候」と栗林就頼に依頼している。さらに須川衆に関しては、北条氏直判物(年未詳)中山城主赤見山城守の預け置かれている57人の地侍のなかに「須川衆」として新保吉之助・同八衛門・奈良左近・宝苑坊という4人の名が記されている。(※「赤見文書/群馬県史資料編7」より)
三国街道を見通すことのできる丘陵であり、北西の宮野城とは直線で約2kmの距離に位置する。
別名を中城あるいは四方の砦ともいう。(※「日本城郭大系」より)

確認可能な遺構
 堀切、郭?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2014年5月5日 6時25分から7時50分
訪城の記録 記念撮影

 棚田か郭跡か?
 この個所も塩漬け状態の在庫更新です。何分にも4年ほど以前のことでもあり殆ど失念しています。少し前までは、記憶の糸を掴むと芋づる式に思い出すことができたのですが、この齢になるともはや期待はできません (^^ゞ このため撮影した画像の説明は極めて曖昧なものとなっております <(_ _)>
10年ほど前から福島県の郡山市などで少なくとも100か所以上は散々棚田と城跡が混在する事例を観察してきているのですが、城域とされている領域のうち南側の部分に関しては正直なところ棚田形式の水田との明確な相違がよく分かりませんでした (^^ゞ 
しかし北側の植林地帯に見える複数の堀切状地形について、少なくとも下記画像の1か所だけは人工的な要素を色濃く感じるものでした。むろんあくまでもその時代背景については不詳ではありますが・・・なお、山崎一氏の作成された「要図」については、実際には北側尾根筋の東側先端部付近まで城域があるように思われることから、どうも地形図に当て嵌める際の縮尺などの錯誤が生じているように感じました。
( 2018/1/4 )記述
薄倉城の堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
薄倉城の堀切 −画像A−
東西にのびる尾根筋を南北方向に堀切った地形です。
( 2014年5月5日 撮影 )

薄倉城の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真 −画像B−
訪城アルバム
薄倉城全景 ⇒ 画像クリックで拡大
郭跡? ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 薄倉城全景
 手前の水田は別として、すこし歩くことにはなりましたが、より明確な堀切状の地形は奥の植林された個所にありました。
凸2 郭跡?
 山崎一氏の作成された「要図」(「日本城郭大系」などに掲載)によれば郭跡として記されております。あくまでも素人の悲しさで、一見したところではどう見ても棚田形式の水田にしか見えません (^^ゞ

郭跡? ⇒ 画像クリックで拡大
天然の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 郭跡?
 この時は休耕地のようになっていましたが、以前は水田であったように思われる平坦地で山崎一氏の「要図」によりますと、この辺りが二の丸(平坦な部分)なしいは本丸(低木の生えている辺り)に相当するものと思われました。。
凸4 天然の堀跡
 「画像1」の植林地帯の部分で、恐らくは画像手前が外郭の一部、その向こうの谷が自然地形を生かした堀跡ということのようです。

堀切? ⇒ 画像クリックで拡大
堀切 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 堀切?
 「画像A」と比較しますと、いくぶん浅めの堀切状の地形です。こうした地形は普通の山道などでもよく見かけますので判断の難しい事例でした。
凸6 堀切
 「画像A」の地形について、光線の具合から見るとたぶん南側側方から撮影したもののようです。

交通案内


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凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「関東古戦録」(2002/赤城出版)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)

・2017年12月 日 HPアップ
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