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群馬県みなかみ町の城館索引へ戻る 宮野城 宮野城のロゴ 宮野城
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  名胡桃城 
所在地
 群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京城山
歴史、人物、伝承

真田氏による改修の可能性も
 永禄3年(1560、※最初の越山)長尾景虎(のちの上杉謙信)が、この城に逗留し猿ヶ京と名付けたという故事が「古今沼田記」に記されているというが、猿ヶ京の地名については異説もあり、むろん史実であるかどうは定かではない。また「須永記」によると、天正8年後北条方ないし上杉方である尻高左馬助(※景家、その子義隆という説もある)が宮野城を守っていたが、真田方に包囲され開城の上、後関の如林寺で自決したとも伝わる。築城者は山内上杉氏(※関東管領上杉顕定)、あるいは尻高氏という説もあるが不詳。また、天正10年3月沼田へと進軍した滝川一益は宮野で上杉景勝方と戦い敗北したともいわれている。
 他に古文書に関するものでは天正7年(1579、推定)5月21日の北条氏邦感状写に「猿ヶ京の城岸にて、山口甚七郎生捕の事、比類なく候」とあり、片野善助の戦功が賞されているものがあるが、これが宮野城を指すものであると思われる。(※埼玉県史資料編6より)また、同年(推定)6月10日付の北条家朱印状では「この段猿京番衆へ申すべき旨」とあり、後北条方の番衆(※交替制の城番)がおかれていたことが見える。また沼田城攻略後の翌9年(1581)6月7日の武田勝頼条目では「一 猿京用心普請仕置以下、入手念可被申付事」とあり、猿ヶ京城の普請について真田昌幸に対して申付けていることが分かる。(※真田家文書/埼玉県史資料編6より)
別名を猿ヶ京城ともいう。(※「日本城郭大系」より)

確認可能な遺構
 土塁、堀など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2014年5月5日 5時30分から5時50分
訪城の記録 記念撮影

 地震と城跡めぐり
 この日は城仲間の皆さんとのミニオフでした。ところが現地の赤谷湖に到着した途端にいきなり携帯が緊急地震速報を受信。この日の午前5時18分頃相模湾沖の伊豆諸島近海深さ約160kmでマグニチュード6.0の比較的大きな地震が発生。東京都心で最大深度5弱を観測し関東一円で強い揺れを観測しました。幸い大きな被害はなかったようですが、東日本の震災から3年ほどしか経過していない時期でしたので一瞬緊張が走りました。この時にはそれほど気に留めなかったのですが、2年後の岩手遠征の際にはあの熊本地震が発生。地震国とはいえ、のんびりと城跡めぐりなどをしていてよいのだろうかという心境になりました。当然出かけた先で遭遇しないという保証はないので、車で出かける際には念のためある程度の物資を搭載しています。
 さて肝心のこの城跡めぐりのサイト更新なのですが、何分にも4年ほど以前のことでもあり殆ど失念しています。少し前までは、記憶の糸を掴むと芋づる式に思い出すことができたのですが、この齢になるともはや期待はできません (^^ゞ このため撮影した画像の説明は極めて曖昧なものとなっております <(_ _)>
( 2018/1/3 )記述
宮野城 ⇒ 画像クリックで拡大します
宮野城遠景 −画像A−
東側の国道17号線(三国街道)側から撮影したものです。
( 2014年5月5日 撮影 )

宮野城の航空写真画像 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真から −画像B−
 戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影されたものを編集加工しています。赤谷湖の相俣ダムの完成は1959年で、当該工事の開始は1952年なので、この画像には赤谷湖は存在していません。この画像からは赤谷川と西川が合流する地点に北側から延びたなだらかな尾根筋の先端部に所在する崖端城であることがはっきりと分かり、よく見ると二の郭のものと思われる突出部を伴った堀跡のラインも写り込んでいます。
訪城アルバム
宮野城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 宮野城遠景
 この日はたまたま子供の日でしたので赤谷湖には鯉幟が翻っておりました。太陽が昇り始めたばかりの午前五時過ぎ頃であることに加え、空もようも曇天であるために何とも切れの悪い画像となっております。
凸2 主郭堀跡
 主郭北側の堀跡の画像です。

現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 現地解説板
 主郭近くに設置されている解説板です。この尻高左馬助に関する話は当地の軍記物などにはよく登場するようですが、一次史料には余り記録が無いようです。またこの内容はおそらくは「須川記」からの引用であるように思われます。なお天正8年(1978)の宮野城攻略を指揮した海野輝幸は翌年11月にその兄である岩櫃城代である幸光とともに謀反の疑いで真田昌幸により粛清されています。
凸4 主郭の土塁
 画像手前が主郭の土塁で、たぶんその向こう側が堀跡であったと思います。

主郭の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 主郭の土塁
 主郭内には宿泊施設の湖上閣の建物がありますので、普通に見学できるのはこの土塁の辺りまでのようでした。
凸6 主郭の土塁
 主郭の土塁で、その右側の窪地は「画像2」にも写っている堀跡です。

二の郭の辺り ⇒ 画像クリックで拡大
二の郭の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 二の郭の辺り
 大学の寮の脇に二の郭(外郭)の堀跡と思われる地形も残されていました。
凸8 二の郭の土塁
 たぶん二の郭の土塁であったように記憶しています。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「信濃真田氏 論集戦国大名と国衆13」(2014/岩田書院)
「真田氏一門と家臣」(2014/岩田書院)
「東国の戦国争乱と織豊権力 動乱の東国史7」(2012/吉川弘文館)
「真田三代 名城と合戦の秘密」(2015/宝島社)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「関東古戦録」(2002/赤城出版)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)

・2018年1月3日 HPアップ
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