群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県みなかみ町の城館索引へ戻る 中山城 中山城のロゴ 中山城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月26日のブログ 長井坂城 名胡桃城 
所在地
 群馬県吾妻郡高山村中山字城内
歴史、人物、伝承

後北条氏による対真田氏の前線
 以前には地元の中山衆やこの地域の支配を委ねられていた赤見氏などによる城郭であると考えられていた時期があった。(※「日本城郭大系」「日本城郭全集」など)しかし近年では、その縄張り構造の特徴などから、後北条氏が真田氏との間で沼田領をめぐりその領有を争った時期に、真田氏側の名胡桃城など北方の要害に対抗するために、後北条氏側(北条氏邦)により築城された城跡であるという説が有力であるらしい。(※ 「関東の名城を歩く 北関東編」「ぐんまの城30選」「現地解説板」)
 こうした点については利根川東岸に所在している長井坂城とその築城に至る背景、経緯が酷似しており、立地条件はやや異なるものの主郭を周囲の郭が囲い込むという構造も近いものを感じる。なお現地の解説板では、築城の時期については、甲斐武田氏が滅亡し織田信長が死亡した天正10年(1582)としている。
 しかし、この中山地域には別に「古中山城」(山崎一氏の命名か)も存在しており、天正年間における中山地域をめぐる領有の経緯は真田方、後北条方などの間で争奪が繰り広げられていたらしく、名胡桃城攻略の体制が整うもう少し後の時期であるという可能性も想定されるのかも知れない。(⇒下記の赤見初夫氏の論考参照)なお、その廃城時期については豊臣政権が関東に進攻し後北条氏が滅亡した天正18年(1590)と解すべきであろう。

確認可能な遺構
 郭、横堀、土塁、虎口ほか
文化財指定
 高山村史跡 1989年11月30日指定
訪城年月日
 2017年11月26日 9時40分から10時55分
訪城の記録 記念撮影

 主郭以外は笹薮と畑
 名胡桃城から県道36号線を南へ赤根トンネルを潜り一路吾妻郡高山村へと向かいました。途中に急カーブもありますが、道幅も広く快適な山道を約20分ほど走行すると中山城の麓へと到着しました。パーキングは国道145号線沿いの北側に所在し、約10台くらいは駐車できそうな感じです。11月下旬の日曜日でしたが、オフ会の団体にでも出会わない限りは駐車場所探しに苦慮するようなことはなさそうです。
城跡は本郭へと向かう道案内の標識も完備しており、城の東麓を流れている城東川の西岸沿いに歩けば10分足らずの所要時間で本郭へと到達します。本郭は水田面からの比高差は15mほどしかありませんが、斜めに道がつけられていることから息の上がるような暇もなくあっという間に城址碑が所在する本郭へと誘われます。この本郭のみの見学であれば、所要時間はパーキングからの往復時間を含めても30分以内に終わってしまいます。むろん折角の機会でもありましたので土塁上から本郭の堀跡、本郭の防御との関係の深そうな南北の小郭の様子などもじっくりと観察してみました。試に北辺部の堀跡に下りてみましたが、寒波の影響でしょうか降雪の融水と思われる水気が多く含まれており堀底の踏査は回避することとしました。また、本郭から直接南北の各郭へと移動するルートは確認できず、この後夫々別の方向からアプローチを試みたものの笹薮などに疎外され直接地表の様子を観察することはできませんでした。
この後、「道の駅中山盆地」にて暫時昼食。小高い丘陵上にある道の駅からは南東方向から城跡の遠景を一望することができます。また、城跡付近に設置されている解説版とは別のものが、この道の駅の売店近くに設置されていました。
( 2018/1/2 )記述
中山城 ⇒ 画像クリックで拡大します
中山城 −画像A−
東側の水田から遠景を撮影
( 2017年11月26日 撮影 )

中山城の航空写真画像 ⇒ 画像クリックで拡大します
中山城の航空写真 −画像B−
( 「国土地理院航空写真」よりダウンロードし編集加工しました )
当時の在日米軍により戦後間もない時期に撮影された画像には戦後の経済成長以前の旧情を反映しており、木材資源の枯渇等に伴う樹木の伐採が浸透しているため中世城館などの様子が克明に記録されていることも多々あります。

訪城アルバム
駐車場 ⇒ 画像クリックで拡大
城址碑と解説板 ⇒ 画像クリックで解説板の拡大画像へ
凸1 駐車場
 国道145号線沿いの北側に道幅が大きく広がっている個所があり、この場所が見学者用の駐車場となっていました。たぶん10台くらいは収容できそうです。
凸2 城址碑と解説板
 車を駐車した後にこの説明板を眺めると、この向って右側に中山城への案内標識があるので、道を探す手間が省けて大変助かります。

主郭 ⇒ 画像クリックで拡大
後世の道か ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 主郭
 右の画像からも分かるように主郭東側の切岸は現在でも傾斜がきつく、その当時においては這い上がることは困難であったものと思われます。
凸4 後世の道か
 この主郭切岸に対して斜めに続き主郭内へと誘うこの幟旗が閃く道は後世の耕作や山仕事のため設置されたものでしょうか?

主郭内部 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭南西部の虎口 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 主郭内部
 モニュメントの後方は主郭西側の土塁です。
凸6 主郭南西部の虎口
 横堀跡には土橋の形跡は見られないことから、主郭内へは横堀から坂虎口で登るという見方もあるようですが、対岸への移動は木橋のような構造でないと迅速な移動は困難なくらいの塁壁となっています。

主郭南側の土塁と横堀 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭東側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 主郭南側の土塁と横堀
 塁壁(切岸)は急傾斜ですが、樹木などに掴まると下降できますが登る時が一苦労です。また概して堀底の方は藪はともかくも水分が多いので慎重な行動が求められます。横堀の深さは現状でも概ね7m(主郭側)/6m(外側)ほどを有しています。
凸8 主郭東側土塁
 経年の土砂の崩落、流失などにより土塁の高さは高くても背丈までで、場所により高さは異なっています。

主郭東側 ⇒ 画像クリックで拡大
堀切 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 主郭東側
 主郭の土塁は現状ではこの東側を除く三方に残されています。南北の土塁に見られる虎口の存在から想定すると、まず元々土塁が無いということは考えられず、後世の開墾や植林などの都合から削平、消滅したものなのかも知れません。
凸10 堀切跡か
 現在は簡易舗装された道ですが、中山城が所在する丘陵を東西方向に刻む遮断線を形成しています。。

 ⇒ 画像クリックで拡大
 ⇒ 画像クリックで拡大
凸11 南の広い郭跡
 「画像10」の堀切地形により南北に分けられた北側の方の郭跡で東側を撮影しています。また東西方向は100m以上はあります。
凸12 横堀跡
 この農道右脇の低地は横堀跡として推定されています。中山城の縄張りのなかで後世に最も地形改変が為されている個所で、この部分がもう少し明確となれば、築城当初における主郭へのルートも分かりやすくなるのかも知れません。

 ⇒ 画像クリックで拡大
城域の北限 ⇒ 画像クリックで拡大
凸13 
 「画像11」の個所の西側を撮影したもので、軍勢の駐屯には便利な広いな削平地(概算で約5千平方メートル)ですが、掘立小屋を建てたとしても駐屯可能な人員は数百人ほどでしょうか。もっとも堀切を挟みこの南側にもこの2倍ほどの広さを有する削平地が確認されているので、合わせて1500人内外の人員の駐屯は可能であったのかも知れません。
凸14 城域の北限
 城跡の北限とされている堀跡の道路で、画像右が城内に相当する模様です。城域の北側はいくぶん下って民家が散在する集落に続いており、天正年間の半ば、対真田氏の最前線に所在する後北条氏側の重要拠点としては、真田氏勢力が領有している北側の防御がやや薄いようにも思われます。すでに開墾や宅地化などにより埋没、消失した防御施設が他にも存在していたのでしょうか。

主郭北側の郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大
倒木 ⇒ 画像クリックで拡大
凸15 主郭北側の郭付近
 東側の横堀経由では藪がひどく安全に進むことが困難であると思われ、西側の横堀からアプローチしてみました。画像右側の高まりが主郭の北側に所在する東西に細長い郭跡なのですが、その笹薮はさらに密度が高まっておりました (^^ゞ
凸16 倒木
 「画像15」の右下の倒木は南に向かう横堀と平行に倒れており、南西の主郭へと向かってみようとも思ったのですが、この方面の堀底も沈む感じでしたので敢え無く撤退いたしました。

南東からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大
名峰子持山 ⇒ 画像クリックで拡大
凸17 南東からの遠景
 中山城からは直線で約300m離れている日帰り入浴施設も併設されている「道の駅中山盆地」が所在する南東の丘陵からの遠景(画像やや上の植林が行われている辺り)です。
こちらの駐車場のトイレ前にも中山城の解説板が設置されていました。
凸18 名峰子持山
 ハイキングコースでも有名な名峰子持山で、この山の反対側の利根川沿いに戦国期の山城としてほぼ同時期に機能していたと推定されている長井坂城が所在しています。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東の名城を歩く 北関東編」(2011/吉川弘文館)
「ぐんまの城30選」(2016/上毛新聞社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「信濃真田氏 論集戦国大名と国衆13」(2014/岩田書院)
「真田氏一門と家臣」(2014/岩田書院)
「東国の戦国争乱と織豊権力 動乱の東国史7」(2012/吉川弘文館)
「戦国北条一族」(2005/新人物往来社)
「秀吉の天下統一戦争 戦争の日本史15」(2006/吉川弘文館)
「小田原合戦と北条氏 敗者の日本史10」(2013/吉川弘文館)
「戦国大名北条氏」(2014/有隣堂)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)
「戦国大名と国衆3北条氏邦と猪俣邦憲」(2010/岩田書院)
 同書に収録された「榛名峠城と権現山城及び雨乞山の要害について」(1994/赤見初夫/著)によると、中山地域は天正14年8月27日から天正16年4月または5月の間は真田氏の支配下にあったと論じられている。(著者の赤見氏は赤見山城守の後裔とされる地元郷土史家である)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「関東古戦録」(2002/赤城出版)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)
「高山村公式サイト」観光案内/高山村指定文化財

・2018年 1月2日 HPアップ
・2018年11月5日 築城時期に関する説明の訂正、追加
・2019年 3月5日 chrome対応によりタグ等修正
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動