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群馬県みなかみ町の城館索引へ戻る 明徳寺城 明徳寺城のロゴ 明徳寺城
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
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所在地
 群馬県利根郡みなかみ町後関字稗田1622ほか
歴史、人物、伝承

真田氏による攻略も
 現地解説板の説によると、「明徳寺城は南北朝時代に会津蘆名氏の来攻に備え、沼田氏が築いたとされる天神山砦を改築したものである」という。(※この記述の典拠は不明)永禄3年(1560)年以降事実上は越後上杉氏の関東における越山の拠点となった。
しかし、天正6年(1578)上杉謙信の死去により、以前にこの地に対して影響力を有していた後北条氏の支配に復した。この直後武田勝頼家臣であった真田昌幸岩櫃城を拠点として吾妻郡から沼田領方面への進出を画策し、小川可遊斎などの上野国衆の一部を傘下に置きつつ、利根川東岸への進出の機会を狙っていた。これに対し当時の沼田城代であった藤田能登守信吉は明徳寺城を整備し沢浦隼人渡辺左近西山市之丞師大助などの地衆に守らせたという。
その後「加沢記」によれば、天正8年(1580)1月21日真田昌幸は海野中務大輔に夜襲を命じてこの明徳寺城を奪取に成功し、伊東備中守出浦上総介らに守らせたという。(※「加沢記」巻の3昌幸公明徳寺の城責の項より)
天正17年(1589)の豊臣秀吉による裁定により再び後北条氏の支配するところとなったが、名胡桃城事件を直接の契機として後北条氏は滅亡し、利根、沼田地方は再び真田氏の支配するところとなりこの城も戦略的役割を終えて事実上の廃城を迎えたものと考えられる。(※「現地解説板」および「加沢記」などの記述を適宜引用した)
 別名を天神山砦、天神山城ともいう。

確認可能な遺構
 二重土塁、空堀、郭ほか
文化財指定
 町史跡 1970年4月1日指定
訪城年月日
 2014年5月5日 11時55分から12時40分
訪城の記録 記念撮影

 忘失の日々
 この日の空模様は今にも小雨が降り出しそうな按配であったこともあり、この城跡も比較的足早に見学したことから、その当時のことをあまりはっきりとは覚えてはいませんでした。それでもサイトの更新にあたり撮影した画像を根気よく何度か見かえしていくうちに、多少は思い出すことのできたものもありました。このため使用した画像についてはあくまでも記憶の蘇った部分に限られています。その後縄張図の作成を含めて何時かは再訪しようと目論んでおりましたが、あっという間に4年近い年月が過ぎ去ってしまいました (^^ゞ
なお、当サイト更新の直接の契機は、利根川対岸に所在する有名な名胡桃城を2017年11月末に訪れることができたことによるものです。
( 2018/1/8 )記述
明徳寺城の二重土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
明徳寺城の二重土塁 −画像A−
( 2014年5月5日 撮影 )
 武田氏(真田氏)側の名胡桃城側に対峙するこの東側部分は二重土塁の縄張りとなって防御性を高めていたようです。画像左側が外側の土塁で、画像右側が内側の土塁に相当します。

明徳寺城の航空写真画像 ⇒ 画像クリックで拡大します
明徳寺城の航空写真画像 −画像B−
( 2014年5月5日 撮影 )
 在日米軍撮影の国土地理院航空写真からダウンロードし編集加工を行ったものです。山間部の画像は撮影高度が高く、かつ広範囲となるため画像がぼやけてしまいますが、このように幾分平野のひらけた地域の画像では撮影高度も低くより鮮明な画像が得られることもあります。また70年ほど前の画像であることから、その後の宅地化などの開発以前における二重土塁の配置、北側搦手の旧情などもある程度は把握することができます。こうした航空写真画像の編集加工作業なども忘れかけていた記憶を呼び覚ます契機のひとつでもあるようです。

明徳寺城の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
明徳寺城の遠景 −画像C−
( 2017年11月26日 撮影 )
 明徳寺城の探訪からは遅れること約3年半後の撮影で、利根川南岸の明徳寺城攻略の拠点となった名胡桃城からの遠望です。両城の間には利根川が流れてはいますが、直線では約1.5kmほどの距離しかありません。

訪城アルバム
城跡の案内標識 ⇒ 画像クリックで拡大
明徳寺城の解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 城跡の案内標識
 この時は関越道の側道から陸橋を経由してアプローチしました。この「みねの湯月夜野館」付近の背後の盛土が、関越道などの工事に関連するものなのか、遺構の一部であるのか、自然地形の一部であるのか悩みました (^^ゞ
凸2 明徳寺城の解説板
 平成の市町村合併以前の設置なので、設置者は月夜野町教育委員会となっています。

城跡の標柱 ⇒ 画像クリックで拡大
搦手の付近 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 城跡の標柱
 こちらの月夜野館の敷地を通って城跡へと向かうのですが、この温泉施設自体も元々は明徳寺城の搦手の一部であるものと思われます。
凸4 搦手の付近
 画像中央が郭内に相当します。左右の土塁付近には笹薮が密生していたために、この土塁の断面部分を除くその地表部分の様子についてはよく見えませんでした。

郭内 ⇒ 画像クリックで拡大
 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 郭内
 郭内は以前は桑畑などのの耕作地として利用されていた模様で、その際に郭内を区画していたと思われる土塁などが削平されたのではないかと思います。画像の土塁は東側二重土塁の郭内側です。
凸6 
 地図などにも記されている水子地蔵尊で、郭内の西側に所在しています。

内側土塁の切れ目 ⇒ 画像クリックで拡大
 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 内側土塁の切れ目
 二重土塁の内側の切れ目で虎口状の地形を呈していましたが、こうした地形が堀跡へと降りるための本来の虎口であったのかどうかについては分かりません。
凸8 二重土塁の間
 二重土塁の間に見られる空堀で、二重土塁と共に北から南にかけて丘陵の東辺縁部に沿うようにして約200m以上は続いています。画像左が内側の土塁で画像右側が外側の土塁です。

内側の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
外側の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 内側の土塁
 二重土塁の内側部分はこのように高いところでは現在でも堀底からの高さは5mから6mほどを測り、外土塁と共に高低差のある二段防御であることから、この方面からの攻撃を十分に意識したことの現れなのだと感じました。
凸10 外側の土塁
 外側の低土塁の方にはこうした虎口状の地形がいくつか散見されますが、外部の帯郭などと通じていたようです。ただし、後世の地形改変の可能性も想定されますので、その全てが城として機能していた当時のものであるのかどうかについては不明です。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「関東古戦録」(2002/赤城出版)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)

・2018年1月8日 HPアップ
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