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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
関連ページへのリンク  2007/03/07のブログ 伝竹沢氏館 中城 武州松山城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象4 総合21
所在地
埼玉県比企郡小川町大字木呂子字北、下政所、群窪
歴史、人物、伝承

木呂子氏の発祥地か
 木呂子氏は「小川町の歴史 通史編上巻」および「後北条氏家臣団人名辞典」などによれば、男衾郡木呂子(現比企郡小川町木呂子)の出身でその在郷名を名乗ったものと記され、戦国時代には武州松山城主上田氏の家臣として、上田氏・難波田氏の姻戚関係を結び重要な地位にあったことが推定されています。また同氏は丹波守元忠−丹波守元久−新左衛門尉と続き、後北条氏滅亡後には深谷上杉氏の重臣であった秋元氏に仕え同氏の家臣岡谷市と姻戚関係を結んだとされています。
 一方「吉野砦」の存在は伝承として諸説が伝わっているものの、木呂子氏との関係も含めてその経緯は必ずしも明確ではないようです。(「小川町の歴史 資料編1考古」より)

木呂子氏について
 一般に著名な「天正下庚寅松山合戦図」には、本陣である根古屋曲輪の副将として木呂子丹波守友則をはじめとして木呂子下野守元忠、同弥三郎、同兵左衛門、同新左衛門広久、同勘解由の以上6名が記されています。しかし、この「天正下庚寅松山合戦図」の原本は所在不明とされ、この内容を傍証する手掛かりとなる史料が確認されていないことからその真偽は不明であるとの説もあります。(「小川町の歴史 通史編上巻」などより)
 なお、「後北条氏家臣団人名辞典」では木呂子氏を国衆(「小川町の歴史 資料編 古代中世1」では木呂子の土豪と位置付けています)とし大塚城主(比企郡小川町−上田氏関連の城郭としては他に比定するものが見当たらないことから、おそらくは八幡台の東端に所在する中城を示唆しているものと推定されます)と記しています。然し、大塚村を所領として安堵されていること及び棟別・段銭・人足の三か条を免除されていることなどについては「岡谷家譜」(「秋元家文書」−群馬県館林市立図書館所蔵−)に記されてはいるものの大塚城主であるとの具体的な根拠については不明であるようです。

確認可能な遺構
切岸?、平場?
地理的特徴

比定地の類が数多
 「小川町の歴史 資料編1考古」で取り上げている比定地以外にも複数の魅力的な地形が至る所に所在。そうしたなか、木呂子の地理的な中心部に近い2ヶ所の比定地「字下政所」「字北」はそれぞれ鉢形・秩父への往還を扼する要衝の地。ただし、前者は比高差と眺望が明らかに不足気味。後者は比高差は確保できているものの山頂の面積が余りに狭隘。さらに一方もう一つの比定地である「物見山」は政所地区から北へ約1kmの距離を有し些か離れすぎで、土砂採掘とその後の廃棄物処理場建設のため景観が大きく変わり現状の地形から判断できる材料を欠いています。

文化財指定
訪城年月日
2007/03/07
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/07 )
「字下政所」の比定地 画像「3」から「8」まで
 北側には木呂子地区の集会所が所在し、木呂子川と合流する兜川により西・北・東側が囲まれ、南側には比高差30mから40mの谷田が迫っています。東側の杉木立の標高164m(比高差約30mほど)の小山の東側斜面には古い宝篋印塔(五輪塔か?)を祀る塚とともに切岸状の地形が3ヶ所以上確認され、更によく観察すると雛壇状となって南側の水田まで続いている部分もあり、切岸状規模の大きなものでは比高差3m、延長100mに及ぶものも存在。となればもしかするとということで、欣喜雀躍状態が期待されたのであります。何気なく切岸部分を下りようとした時には、ものの見事に3mほど滑り落ちることに。
 然し残念ながらよくよく国土地理院の地形図を参照すると、桑畑の記号が記されていることから、どんなに古くとも幕末あたり、おそらくは近代に開墾されたの桑畑に伴うものと推定され儚い期待は露と消え..
 一方尾根続きの西側の標高177m(比高差43mほど)の小山の方はもとより人為的な地形の存在は確認されず。山頂へと向かう尾根筋には荊のような有棘植物が進路を妨げていたため、作業用の安全手袋を装着してひたすら前進。鞍部から3分と経過しないうちにやや広い山頂部分に到着。南東方向に延々と尾根筋がアップダウンを繰り返して「官の倉山」の稜線へ延々と続いています。とはいえ次第に地理的な条件から考えて城館跡とは無縁になりそうなので、北側を流れる木呂子川を目指して一挙に杉の植林された斜面を降下。

「字北」の比定地 画像「10」から「14」まで
 この比定地の南西側の麓には「政所」の地名が残されています。標高191m(比高差約61mほど)国道254線が大きく北側の市道川沿いの谷へカーブする交通の要衝となる分岐点に所在。直接登攀するには道もなく斜面の角度がきつい状態。
 このため予定通り北側の尾根筋の比高差約22mの最も比高差の少ない個所に見当をつけて手当たり次第木の枝や根にしがみついて直登。然しあとでよくよく地形図を確認してみれば比高差22m、直線距離で40mというどうやら最も急傾斜の部分を這い上がってしまった模様。稜線に近づくほど勾配が緩くなっているので、登り始めた部分の傾斜は間違いなく45度前後かと推察。
 さて南北に細長い形状の尾根筋の道自体は明確でマーキングもされ、南側の山頂まで僅か250mほどの距離で間違いようもないルート。なお肝心の山頂部分には事前の情報どおり高圧線の支柱が所在するのみで、遺構につながるような人為的に改変されたような地形も見られず。
現状の見通しも常緑樹の生育のため、南西方向にやや開けている程度でありました。

比定地紛い−その4 画像「15」から「18」まで 
 次に同地点から今度は踵を返して、そのまま稜線を北進し見たくなくても目に入ってしまう標高201m(比高さ60mほど)の独立峰を目指すことに。東西の斜面は平均斜度40度前後という急勾配、、南北の稜線の斜面も30度前後の傾斜を有する落ち葉の堆積した滑りやすい地形。このため予想通り確実に5回ほどは滑るはめに。
山頂部分の眺望は期待通りの素晴らしさでしたが、楕円形状の地形で直径にして7mほどの規模しかありません。勿論明確な切岸など人為的な地形の改変などの跡などを確認できるはずもなく。物見砦としても東西方向にしか視界が開けていないことから、城館跡との関連性は極めて少ないものと結論付けざるを得ないのでありました。

比定地「通称物見山」 画像「19」から「22」まで
 さらに上記の個所からそのまま稜線を北上。東側に張り出した尾根筋が2ヶ所ほど気になったものの見通しなどの悪さと時間の関係でパスして、かつて物見山と呼ばれた標高190m(水田からの比高差は約40mほど)にやっとのことで到着。稜線の東側には情報どおり石切り場が所在したような痕跡が現在も確認。北側斜面の大半は部分は土砂の採掘などの関係でほぼ稜線が消失し、現在は大規模な廃棄物の処理施設が北麓一面に広がっているという荒涼とした風景。元来の物見山の山頂部分も消失しているようですが、お蔭で寄居方面が一望できる立地条件となっておりました。

吉野砦(字北地内) クリックで拡大します
吉野砦比定地のひとつ(字北)
( 2007/03/07 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 比定地紛い−その1
 寄居町との行政堺に位置し、標高201.7m、比高差は約50mほど。南麓には八高線の軌道がが東西に走り、北側には寄居町西ノ入へと向かう町道が山麓をうねる様に通っています。このようにして見上げる限りは興味深い地形ですが、地図上から見る限りでは木呂子の集落からは隔たりのある北西のはずれで山頂の狭さも難点。
凸2 比定地紛い−その2
 麓の道路沿いには出羽三山(羽黒山、湯殿山、月山)の講中の真新しい記念碑が建立されておりました。因みに標高171.2m、比高差約35mほどですが、あくまでも左の画像同様に現状の地形から憶測してみただけのことです。

吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
凸3 吉野砦比定地(字下政所)
 「小川町の歴史 資料編1考古」では比定地2として掲載されている個所の東側部分で西側にも尾根続きの山頂があります。標高164mで比高差は30m前後。比高差の不足と国道254線方向の眺望が吉野砦比定地(字北)の標高190mの山頂の存在により全く利かないというのが大きな欠点のようです。
凸4 吉野砦比定地(字下政所)
 この段築(最大2.5mを有する切岸)がかつての桑畑などの耕作によるものかどうかが興味深いところです。「小川町の歴史 資料編1考古」では勿論遺構とは捉えていません。南北40m、東西20mほどの平坦地を伴いますので東側の山頂とともに2ヶ所の郭を形成していたことも想像できます。然し明らかに最近のものと思われる地形の変更も見られますので非常に困惑する地形です。

吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
凸5 吉野砦比定地(字下政所)
 塚と宝篋印塔(五輪塔のようにも)とこの人工的に構築された地形を拝見しますと、とても魅力的な地形に思えるのでありますが、何分にも比高差が不足していることは否めないようです。
凸6 吉野砦比定地(字下政所)
 東側から眺めた山頂部分で、こうしてみるとますます誤解が深まっていくのでありました。
宝篋印塔の拡大画像(「小川町の歴史 資料編1考古」では五輪塔との記述で、「小川町の歴史 資料編3古代・中世2」では宝篋印塔と記述されています)

吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(字下政所) 画像クリックで拡大します
凸7 吉野砦比定地(字下政所)
 左側が東側の段築と宝篋印塔が所在する山頂で西側の山頂とは比高差20mほどの峠状の地形で尾根続きの地形を形成しています。なお、画像の手前を左右に流れている川が「木呂子川」で、「新編武蔵風土記稿」では「吉野川」と呼ばれている流れであると推定されます。
凸8 吉野砦比定地(字下政所)
 西側の山で標高177m、比高差約40m。東西約50m南北30mの比較的緩やかな地形を有しています。南側を除き東・西・北側が木呂子川の蛇行により周囲を囲まれているため地理的条件としては確かに恰好の地なのですが。なお現在も残されている「政所」(まんどころ)の地名は、「新編武蔵風土記稿」では小名「政所改戸(マンドコロカイト)」として記述されています。

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吉野砦比定地(字北) 画像クリックで拡大します
凸9 比定地紛い−その3
 標高220m以上の東西方向に長い100mほどはあろうかという山頂を有しています。難点は比定地紛い−その1と同様に木呂子の集落からは谷筋一本分離れた尾根筋の先端部に所在していること。
凸10 吉野砦比定地(字北)
 国道254線と八高線が交差する個所を見下ろす南北方向に長い尾根筋の南端部に所在。標高は約190m、比高差約60mの地形はとても魅力的ですが、東側のより標高の高い金勝山方面の眺望は全くありません。

吉野砦比定地(字北) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(字北) 画像クリックで拡大します
凸11 吉野砦比定地(字北)
 西側の群窪から眺望した地形。この急斜面の比高差の大きい個所から登ることは、某の能力に照らしてどう見ても明らかに無謀なのであります。
凸12 吉野砦比定地(字北)
 山頂から約200mほど北側の比高差の少ない個所から木の枝に手当たりしだいしがみついて、何とか比高差約22mの尾根筋に取りつくことに成功。結論からいえば、たぶん東側の国道254線沿いの「鬼うどん」の個所から登ったほうがより楽であるかも知れません。

吉野砦比定地(字北) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(字北) 画像クリックで拡大します
凸131 吉野砦比定地(字北)
 何分にも山頂部分が余りにも狭隘。小規模な物見程度の役割を担うことしかできない規模で100平方メートルにも満たない広さなのでありました。
凸14 吉野砦比定地(字北)より木呂子方面
 木呂子の集落と八高線沿いの谷筋は眼下に収まり眺望と比高差の点では申し分ない地理的条件なのですが。

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凸15 比定地紛い−その4
 尾根筋からの比高差は約40m、東側の国道254線および西側の群窪の谷沿いとの比高差は約60m。吉野砦比定地(字北)の比定地から北へのびる尾根筋を約400mほどすすんだ地点に所在する標高200.8mの小高い峰。
凸16 比定地紛い−その4
 予想通り眺望も決して悪くはなく、どこから登っても物見の要害としては相応しい峻嶮な地形です。しかし残念なことに何分にも山頂部分が余りにも狭隘すぎるのでありました。加えて上る時に落ち葉の急坂を這い上がり、下るときには半ば滑り落ちるといった按配ですが、山頂から100mほど北側には東西をつなぐ緩やかな峠道が..

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凸17 比定地紛い−その4
 見た目よりも遥かに傾斜がきつく、東西の谷筋から直登することはかなり困難。
凸18 比定地紛い−その4
 左の画像と同様に群窪の谷沿いから眺望したものですが、見れば見るほど魅力的な地形に見えてしまうのでありました。

吉野砦比定地(物見山) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(物見山) 画像クリックで拡大します
凸19 吉野砦比定地(物見山)
 かつて物見山と呼ばれた標高190m(比高差約40mほど)にようやく到着。稜線の東側には情報どおり石切り場が所在したような痕跡が現在も確認されます。石材を切り出した採掘跡と思われる地形ですが、その詳細については不明のようです。
凸20 吉野砦比定地(物見山)
 北側部分(画像の向かって右側)は土砂の採掘などの関係でほぼ稜線が消失し、この先には尾根筋に沿って立ち入り禁止のネットフェンスが設置されていました。

吉野砦比定地(物見山) 画像クリックで拡大します
吉野砦比定地(物見山) 画像クリックで拡大します
凸21 吉野砦比定地(物見山)からの眺望
 現在は大規模な廃棄物の処理施設が北麓のあたり一面に広がっています。
物見山の山頂部分も消失しているようですが、お蔭で寄居方面が一望できる立地条件となっておりました。鉢形城方面は画像の左手と思われますが、間に所在するゴルフ場の丘陵地帯に視界を阻まれて確認することができませんでした。
凸22 吉野砦比定地(物見山)
 南側の群窪の用水池の堰堤から眺望した物見山方面。また、物見山から木呂子の中心部と考えられる南側の政所方面を見通すことは群窪の細長い谷の地形のため難しいようです。
交通案内

・3か所の比定地とそれ以外にも4か所以上の魅力的な地形が所在。
いつもガイド の案内図です。
 比定地「字北」⇒   地図サイトいつもガイド
 比定地字「下政所」⇒地図サイトいつもガイド
 比定地「物見山」⇒  地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 男衾郡玉川領竹澤木呂子村の項によれば、勝呂・木部・靭負・笠原・原川の各村とともに竹澤村と呼ばれ、南北朝期には「太平記」の記述を引用し竹澤氏の所領の一部であったことを示唆しています。また戦国期については「天正18年小田原攻の時、松山籠城人数の内に、木呂子丹波守(横見郡根小屋村の松山古城の項には、城代格の難波田因幡守の次に記されています)あり、これはまさしく当所の在名を名乗りしならん、またこの村の一名を吉野と呼べり、その由来は詳らかならず..」と木呂子氏との関わりなどについて記されています。なお、吉野という地名は大正期の天神社などの神社合祀に際して「吉野神社」と命名されて現在にその古地名を伝えています。
■武蔵志
 横見郡末尾に付された「松山古城之図」(武蔵志編纂時の18世紀末頃に作成されたものと推定され「天正庚寅松山合戦図」とは全く別のもの)中などに、天正18年の松山城攻防時の城方として金子紀伊守、山田伊賀守らとともに難波田因幡守の次に「木呂子丹波守 比企竹沢」との記述がみられます。また未定稿とされる「武蔵志稿」の根小屋村松山城の個所にも同様の面々と並んで松山城留守居難波田因幡守の次に「難波田住人木呂子丹波守」の記述があります。しかしこの「難波田住人」との記述については恐らくは誤記であるものと考えられます。
■武蔵演路
 上記の編の地誌と同様武州松山城の城方として「難波多因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守..屈強の輩2百余人、都合二千三百余人たてこもる」と記されています。

 なお、以上の近世地誌に記された天正18年の武州松山城をめぐる攻防の記述はその内容や成立年代の前後関係から見る限り、いずれも概ね「北条記」(作者不詳・17世紀後半の成立)およびこれを底本とした「関八州古戦録」(17世紀末から18世紀初頭頃の執筆か? 槇島昭武/著)あるいは「小田原北条記」(1783年頃の出版 江西独逸子/著)等の記述を参考にしているものと思われます。
 

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編3古代・中世2」(小川町/1997編集発行)
「小川町の歴史 別編 民俗編」(小川町/2001編集発行)
「後北条氏家臣団人名辞典」(下山治久 編/2006/東京堂出版)
「武蔵松山城主上田氏」(梅沢太久夫 著/2006/さきたま出版会) 

・2007/08/08 HPアップ

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