2007/03/07のブログ 伝竹沢氏館 中城 武州松山城 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県比企郡小川町大字木呂子字北、下政所、群窪 | |
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切岸?、平場? | |
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無 | |
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2007/03/07 |
( 2007/03/07 撮影 ) |
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・3か所の比定地とそれ以外にも4か所以上の魅力的な地形が所在。 |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 男衾郡玉川領竹澤木呂子村の項によれば、勝呂・木部・靭負・笠原・原川の各村とともに竹澤村と呼ばれ、南北朝期には「太平記」の記述を引用し竹澤氏の所領の一部であったことを示唆しています。また戦国期については「天正18年小田原攻の時、松山籠城人数の内に、木呂子丹波守(横見郡根小屋村の松山古城の項には、城代格の難波田因幡守の次に記されています)あり、これはまさしく当所の在名を名乗りしならん、またこの村の一名を吉野と呼べり、その由来は詳らかならず..」と木呂子氏との関わりなどについて記されています。なお、吉野という地名は大正期の天神社などの神社合祀に際して「吉野神社」と命名されて現在にその古地名を伝えています。 ■武蔵志 横見郡末尾に付された「松山古城之図」(武蔵志編纂時の18世紀末頃に作成されたものと推定され「天正庚寅松山合戦図」とは全く別のもの)中などに、天正18年の松山城攻防時の城方として金子紀伊守、山田伊賀守らとともに難波田因幡守の次に「木呂子丹波守 比企竹沢」との記述がみられます。また未定稿とされる「武蔵志稿」の根小屋村松山城の個所にも同様の面々と並んで松山城留守居難波田因幡守の次に「難波田住人木呂子丹波守」の記述があります。しかしこの「難波田住人」との記述については恐らくは誤記であるものと考えられます。 ■武蔵演路 上記の編の地誌と同様武州松山城の城方として「難波多因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守..屈強の輩2百余人、都合二千三百余人たてこもる」と記されています。 なお、以上の近世地誌に記された天正18年の武州松山城をめぐる攻防の記述はその内容や成立年代の前後関係から見る限り、いずれも概ね「北条記」(作者不詳・17世紀後半の成立)およびこれを底本とした「関八州古戦録」(17世紀末から18世紀初頭頃の執筆か? 槇島昭武/著)あるいは「小田原北条記」(1783年頃の出版 江西独逸子/著)等の記述を参考にしているものと思われます。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊) 「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行) 「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行) 「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行) 「小川町の歴史 資料編3古代・中世2」(小川町/1997編集発行) 「小川町の歴史 別編 民俗編」(小川町/2001編集発行) 「後北条氏家臣団人名辞典」(下山治久 編/2006/東京堂出版) 「武蔵松山城主上田氏」(梅沢太久夫 著/2006/さきたま出版会) ・2007/08/08 HPアップ |
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