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関連ページへのリンク  2007/03/04のブログ 中城(旧版) 腰越城 安戸城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ4 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合31
所在地
埼玉県比企郡小川町大字大塚字中城
歴史、人物、伝承

武州松山城主上田氏の城郭か
 「新編武蔵風土記稿」の増尾村古城蹟の項に「村の小名中條にあり、四方二町ばかりの地にて、から堀の蹟所々に残り、また櫓の跡なりとて小高き所あり、その辺今は杉の林なりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず、土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云うことは伝えざれば詳ならず」と記されています。なお、この猿尾氏については源義経の家臣であったという伝承も存在するようですが、その真偽は詳らかではありません。また、建武年間(1334-1336)には斎藤六左衛門重範が居城したとの口碑も伝わっているようですが同様にその詳細は不明なようです。
 さらに、文明6年(1474年)の太田道潅の書状に「上田上野介在郷の地、小河に一宿仕り候ところ」(「文明12年(1480)11月28日 太田道灌書状写」より)と記されており、梅沢氏の著書である「中世北武蔵の城」などによれば、1980年11月に実施された発掘調査の成果とあわせて、これを中城の地であろうと比定しています。こうしたことを踏まえ「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)では、その構造・出土物などから築城時期を15世紀後半と捉えると共に、上田氏の本拠地とされる安戸・御堂へのルート上にあたることから、武州松山城とも関わりの深い上田氏関連の城郭であることを示唆しています。
 なお「新編武蔵風土記稿」大塚村の項によれば、近世の元禄11年(1698)i旗本金田丹波守の陣屋が置かれたことから、現在でも陣屋台との呼称が残されているとのことです。

確認可能な遺構
土塁、空堀、小口、櫓台?
地理的特徴

台地の先端部を利用
 一帯は八幡台と呼ばれる小高い台地を形成し、その東側先端部分を利用しています。当時においては平地部分との20m前後を有する比高差により、西側の台地続き部分を除いて大塚、小川、増尾、青山地区方面などの周辺部の見通しが利いていたものと考えられます。なお、鎌倉街道上道からは南西に3kmほど離れた位置に所在し、北に甲川、南に槻側を擁する地理的関係にあります。西側には官の倉丘陵が続いているため低山ハイキングコースで有名な官ノ倉山の下山ルートにもあたります。なお、国道254線の旧道が北側300m、県道11号線の秩父往還が南側200mを走っています。
 また、その後近年の「八幡台7次および10次の発掘調査」により中城南方の八幡台南端において2ヶ所の堀跡状遺構が検出され、その出土した遺物などからは中城の規模は南北方向に約200m以上の規模であった可能性も示されています。

文化財指定
1961/09/01 埼玉県旧跡指定(多分に仙覚律師の関係)
訪城年月日
2004/09/23、2007/03/04
訪城の記録 記念撮影

( 2004/09/23 )
 台地上を彷徨
 腰越城と小川町にある「中城」(なかじょう)は、前回は場所がよく分からず、かつ、お彼岸の法事の関係で時間もなく訪城できませんでした。従って、今回は事前の道路と方向と距離に関する下調べを入念に行い、一回で迷うことなく辿り着けたという訳です。家内の実家から歩いても、僅か15分足らずという距離でありながら、家内はこの城跡のことを全然知らないらしい....地元の人間というものは案外そんなものなのかも...腰越城でさえ、知ってはいるけども、一度も行ったことは無いというのだから無理からぬことかも知れません。
 北側の内側の土塁の高さは内側から見ても最大で3m前後はあり、外側の土塁の斜面に至っては自然の地形を利用していることもあり8mぐらいはありそうです。また、西側の小口の両側の空堀も深さ5mを超えるようなところもあり、全体として予想外になかなかダイナミックで感動しました。全体として北側・西側の保存状態が良いようで、城域は崖の部分も含めればおよそ1万u程度はあるようです。
 遺構自体は単郭でが規模の大きな折のある二重土塁になっており、郭の中央部分がテニスコートになっていることさえ気にしなければ、予想外に遺構の状態が良いのことに驚かされます。北側の小口は坂小口となって意外に急な斜面ですので、また転ぶのではと用心したくらいでした。その反面保存整備という点についてはあまり積極的に行われているようには見えませんでしたが、住宅地の中なので余り整備されすぎて都市公園のようになってもどうかと思うのでありました。

( 2007/03/04 )
 改めて遺構の状態に感激
 2004年9月23日以来のなので2年半ぶりの再訪で、日曜日なので迷惑とは思いつつも、路上駐車できるような場所もないので町立図書館に駐車。今回は東側の民家の間から崖を昇るという正規のルートよりアプローチ。 改めて堀底から見上げる土塁の高さが最大4m以上の規模を有することに感動。当地が市街地の中であることを忘れてしまうのであります。前回はパスした堀底道部分も今回は全て確認。
 折から郭内のテニスコートでは軟式テニスの練習中でありましたが、やはり相変わらずテニスコートと中世城館遺構は相容れないという印象も。このあと、八幡台周辺を散策ののち割烹料亭風の町立図書館にて資料漁りなどを。

中城 西側小口と土塁・空堀 クリックで拡大します
中城の西側土塁・空堀と小口
( 2007/03/04 撮影 )
訪城アルバム
中城 東側からの遠景 画像クリックで拡大します
中城 画像クリックで拡大します
凸1 東側からの遠景
 意識してみればいかにも台地先端の自然地形を利用したという中世城館の趣が伝わってきますが、こちら側からアプローチすると分りにくいかもしれません。かく言う当人も初めはそのまま八幡神社の方へと彷徨い歩き、大梅寺を経て北側の陣屋沼のところでやっと発見したという経緯が。
凸2 東側からの入り口
 「仙覚律師遺跡(中城跡)入口」と記された標柱。この細い路地をまっすぐ進んでいくと左(西)へ90度曲り、中城の所在する台地への急坂へ続いています。記憶によれば以前には折れて放置されていたものを最近になって修復した模様でした。

中城 画像クリックで拡大します
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凸3 ショカツサイ
 中城の登り坂の途中に咲いていたもの。三国志で著名な諸葛孔明が救荒作物としたとの逸話に因んで「諸葛菜」と呼ばれたとのこと。アブラナ科の中国原産の帰化植物で春先の野原でよく目にします。別名を「ハナダイコン」「ムラサキハナナ」とも。
凸4 半僧坊
 戦時中に流行した武運長久を願う流行神で、昭和16年に地元の人々により静岡県方広寺の伴僧坊大権現を勧請(分霊)したもの。現在は昔日の面影はありませんが小川町史(下巻)の572頁には信仰を集めていた当時の様子を写した写真が掲載されています。櫓台跡とも思えるほどの広さがありますが、社殿の建立時に改変されている可能性も考えられます。

中城 画像クリックで拡大します
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凸5 西側土塁と空堀
 最も堀底と土塁の見かけ上の比高差を有する個所でおよそ6m近い規模を有しています。この個所を空堀に沿ってカーブして進んでいくと「7」の部分に到達します。
凸6 半僧坊裏手の空堀
 空堀の堀底からは見かけ上は5mほどの高さを有する土塁ですが、この20mほど先で土塁と空堀は共に消滅して南側の民家の宅地へと続いています。なお、台地の南端部に同時代のものと推定される堀跡が検出されていることから本来はこの土塁と空堀が折を見せつつ南側に続いていたものと推定されます。

中城 画像クリックで拡大します
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凸7 北側土塁と空堀
 堀底の北側には高さ1.5mほどの土塁が明確に所在しています。この個所をさらに東へと進むと「8」の小口部分へ続いています。
凸8 北側小口
 北側の小口状個所は喰い違い状の二重土塁と空堀による坂小口を形成し防御。「7」の個所から続く空堀はこの小口部分でクランク状に曲折しています。

中城 画像クリックで拡大します
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凸9 陣屋沼
 中城の北側にはこの陣屋沼(別名を大梅寺沼とも)の所在する細長い谷が入り込み、およそ10mから15m前後の標高差を有する崖が形成されています。ちなみにこちら側からアプローチすると、この手前の町道沿いの個所に3台分ほどの駐車スペースが所在しています。
凸10 北側小口下の空堀と土塁
 「8」の画像の個所から西側の方向を撮影したもので、見掛け上の土塁の高さは自然地形が生かされて6m以上の規模を有しています。右側が陣屋沼で左側が郭内。

中城 画像クリックで拡大します
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凸11 西側小口
 半僧坊の社殿の北側部分には小口状の土塁の切れ目が明確に所在しています。なお、西側の空堀の先の部分は現状ではおおむね平坦な地形の畑となっているためその地面の下の様子を窺い知ることはできませんが、恐らく城郭遺構が存在する可能性は少ないものと考えられます。
凸12 西側土塁
 郭内から見た西側の土塁部分で写真の左側付近が最も高く標高116.9mを有し郭内からの高さは最大で3.5mに達すしますが、写真正面の辺りから右側に進むにしたがい郭内との比高差は縮小し1.5mにも満たない規模となります。
交通案内

・小川町駅より徒歩約12分で、分かりやすい目標物は町立図書館。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 比企郡増尾村の古城蹟の項に「村の小名中條にあり、四方二町(約218m)ばかりの地にて、から堀の蹟所々に残り、また櫓の跡なりとて小高き所あり、その辺今は杉の林なりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず、土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云うことは伝えざれば詳ならず」と記されています。ただ「小名中條」という地名については、「小名中條」として大塚村の項にも記されています。

■武蔵国郡村誌
 一方「武蔵国郡村誌」の増尾村の項では、北東に隣接する大塚村の項に「東西45間(約82m)南北35間(約63m)村の南方字中城にあり、遺濠尚存す古昔某氏の居りし所なるや詳ならず」と記されています。こうした所在地やその規模に矛盾があるものの、その規模や位置関係から見てこの記述の城跡が同一の場所を指していることは概ね間違いは無いものと考えられます。
 また、文永6年(1269年)に仙覚律師「万葉集註釈」を著した際の奥付に、「武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之御了」とあり、「武蔵国郡村誌」においては当地である増尾村(ましおむら)が推定されています。このことにより、昭和3年4月(1928年)に「新墾の道をひらきし功とわに 麻師宇の郷の名はとこしえに」( 佐木信綱/作 )の歌が刻まれたを顕彰する石碑が建立され、一般的には文学碑の所在地としての方が有名です。
 またこの地名は同誌によれば「麻師宇郷⇒猿尾(ましお)⇒増尾(現在はますおと呼ばれている)」と変遷したとされています。

■武蔵志
 増尾村の項に「古城 山上にあり、猿尾太郎種直住之という」との簡潔な記述が記されています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「小川町の歴史 通史編上巻・下巻」(小川町/2003編集発行)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)
「町内遺跡発掘調査報告書7」(2001/小川町教育委員会)
「シンポジウム埼玉の戦国時代 検証 比企の城」(2005/埼玉県立歴史資料館) 

・2007/07/16 HPアップ

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