2007/03/04のブログ 中城(旧版) 腰越城 安戸城 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県比企郡小川町大字大塚字中城 | |
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土塁、空堀、小口、櫓台? | |
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1961/09/01 埼玉県旧跡指定(多分に仙覚律師の関係) | |
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2004/09/23、2007/03/04 |
( 2007/03/04 撮影 ) |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 比企郡増尾村の古城蹟の項に「村の小名中條にあり、四方二町(約218m)ばかりの地にて、から堀の蹟所々に残り、また櫓の跡なりとて小高き所あり、その辺今は杉の林なりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず、土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云うことは伝えざれば詳ならず」と記されています。ただ「小名中條」という地名については、「小名中條」として大塚村の項にも記されています。 ■武蔵国郡村誌 一方「武蔵国郡村誌」の増尾村の項では、北東に隣接する大塚村の項に「東西45間(約82m)南北35間(約63m)村の南方字中城にあり、遺濠尚存す古昔某氏の居りし所なるや詳ならず」と記されています。こうした所在地やその規模に矛盾があるものの、その規模や位置関係から見てこの記述の城跡が同一の場所を指していることは概ね間違いは無いものと考えられます。 また、文永6年(1269年)に仙覚律師が「万葉集註釈」を著した際の奥付に、「武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之御了」とあり、「武蔵国郡村誌」においては当地である増尾村(ましおむら)が推定されています。このことにより、昭和3年4月(1928年)に「新墾の道をひらきし功とわに 麻師宇の郷の名はとこしえに」( 佐木信綱/作 )の歌が刻まれたを顕彰する石碑が建立され、一般的には文学碑の所在地としての方が有名です。 またこの地名は同誌によれば「麻師宇郷⇒猿尾(ましお)⇒増尾(現在はますおと呼ばれている)」と変遷したとされています。 ■武蔵志 増尾村の項に「古城 山上にあり、猿尾太郎種直住之という」との簡潔な記述が記されています。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・) 「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県) 「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「小川町の歴史 通史編上巻・下巻」(小川町/2003編集発行) 「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行) 「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行) 「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行) 「町内遺跡発掘調査報告書7」(2001/小川町教育委員会) 「シンポジウム埼玉の戦国時代 検証 比企の城」(2005/埼玉県立歴史資料館) ・2007/07/16 HPアップ |
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