( 2006/03/31 )
凸中世館跡が集中する区域
秩父市内の東側の高篠地区に3ヶ所まとまって所在している城館跡ですが、それぞれの関連を含めて詳細な経緯はあまり明確ではないようです。
凸遠山館は県道11号線の高篠交差点の北西部分に所在していた模様で、館跡推定地西側には横瀬川の深い渓谷が天然の要害を形成。また東側と北側にも横瀬川支流の谷(新編武蔵風土記稿によれば木戸原澤との名称)があたかも堀構えのように館跡を囲んでいました。
凸山田館は現在は交差点北東部の高篠小学校の敷地となっているあたりとされており、地形的には北東側に遠山館の上流に当たる横瀬川の支流が西へと流れ水堀の役割を果たし、東側は定峰峠から続く山岳地帯の尾根西端の急崖を形成していました。
凸大島館は山田館の直ぐ南側に隣接しています。しかし、現在農地と宅地となっているその状況からは、東側が山田館と同様の尾根筋先端部分となっている以外にはこれといった地形状の特徴が感じられませんでした
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山田館と推定されている個所は高篠小学校の敷地付近とされていますが、治安が急速に悪化していることを象徴するような事件が続発しているため余り学校の付近をうろうろと徘徊することが躊躇われる世の中となってきました。
このあたりの児童生徒は見知らぬ大人に対しても大きな声で挨拶をするような指導が行われているらしく、2度ほど元気な挨拶をいただき挨拶を返したものの理由もなく緊張してしまいました。
この画像は北西側の谷の対岸から撮影したもので谷沿いの急崖の麓の地形であることが明確に分かります。 ( 2006/03/31 撮影 晴れ )
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■1■凸遠山館の北側の谷
館跡の北辺には東側の山田館から続く、深さ5mほどの谷が続いています。なお、「新編武蔵風土記稿」の記述によればおそらく木戸原澤という名称のようです。
遠山氏について、「秩父志」の山田村の項では「遠山氏は下組内手と云所に住てこの辺を木戸原と唱う。、古時遠山左衛門某なる者上杉(山内上杉氏あるいは越後上杉氏)に付属し机城(横瀬の根古屋城)に在りしが、敗北の後孫族ここに居りて農民たり、この家に兜の焼鉢を藏せり」との記述があります。
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■2■東側の水路
北側の谷ほどの規模はありませんが、現在は幅2間ほどの小さな沢が北側の谷へと続いていました。
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■3■遠山館の中心部付近の様子
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■4■横瀬川の渓谷
この地域の西側には横瀬川が北へと流れ十数メートルの深い谷を形成しています。なお、写真の右岸奥の方が遠山館と推定される場所のようです。
・いつもガイド遠山館 の案内図です |
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■5■ 凸大島館
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、「東西四十間ばかり、南北一町ばかり、南北東にめぐりて悪水堀あり」と記されていましたが、現在では東西方向に道路が貫通し、畑の中にポツポツ民家が点在している平坦な地形で、一部用水路が斜めに畑を横切っている以外にはこれといって印象に残る要素はありませんでした。
・いつもガイド 大島館の案内図です |
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■6■凸山田館
館跡はそっくり小学校の校庭となっているようで、仕方なくフェンス越しにブランコなどを撮影する外見上はかなり怪しい人物となりました。南東側の集会所の個所から撮影したもの。
・いつもガイド 山田館の案内図です |
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・県道11号線と82号線が交差する高篠小学校・高篠公民館角の交差点周辺。
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
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