( 2006/02/13 )
凸山裾の丘陵先端部分あたりかと
所在地が余り定かではなく「秩父郡内の城館」さんのHP情報などを頼りに訪城。県道11号線と大槻沢が交差する個所を大槻沢に並行する道に沿って東の秩父札所2番真福寺の方向へ遡っていくと、小さな橋が架かる対岸の南側に漸く「馬場」とよばれる比高差10m前後の土塁跡のようにも見える斜面が遺されている場所を確認。なるほど、この現在は畑と一部宅地となっている広大な馬場跡と伝わる平地は馬術などの鍛錬に相応しい地形をしていました。
また更にその東側に所在する小さな沢をはさんだ山裾の丘陵地帯の先端部分がどうやら館跡の模様かと思われます。以前は耕作されていたと思われる畑と疎林のある50m×100mほどの広さを有する比高約10mの平坦地は人気も全くなく、勿論由来などを記した設備などもなく、ひたすらに暖かな西日の日差しを浴びて静まり返っているだけでした。
この後近くの山田館ほかを訪れようとも思いましたが、日差しの傾きが撮影には不向きな時間帯となってしまい行動を切り上げて遅い昼食を摂るべく目当ての蕎麦屋に赴いたものの、駐車場の入口に無情にも「定休日」の表示が。
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加治氏館跡と推定されていると思われる台地西側の斜面の比高差は最大で10m前後の規模を有し、斜面の角度も45度前後と急傾斜が見られました。なお、右側の怪しげな黒い影は樹木の影に混じった管理人の影です。
( 2006/02/13 撮影 晴れ )
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■1■馬場跡と伝えられる山裾の平坦地
写真の左手に位置する小規模な沢の向こう側に「4」から「7」までの館跡が所在するはずです。
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■2■馬場跡の斜面 画像クリックで拡大
馬場跡の平坦な台地上からは西側を中心とした山田地区の集落の様子を一望できます。なお、右下の怪しげな人影も管理人のものです。
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■3■馬場跡の斜面を北側から撮影。
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■4■館跡を南側から撮影したもの
秩父地方への加治氏の進出は地理的に見るとさほど不自然なものではなく、近世の地誌類が盛んに編纂された時期には現飯能市の名栗、坂石、坂本、南川などの地域は秩父郡に含まれていました。また、加治氏は元来武藏七党丹党の系譜をひく一族で秩父地方とも関わりがあったようです。
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■5■館跡 画像クリックで拡大
以前は耕作されていたと思われる畑と南側の疎林を含む50m×100mほどの広さを有する比高約10mの平坦地で、無論荒川の断崖を利用した崖城のように峻険なものではありませんが、大槻沢の支流を含む小規模な沢が尾根続きの南側以外を囲むという天然の要害ともいうべき地形となっています。
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■6■館跡
左側の沢を挟んで写真の「1」から「3」の馬場跡の場所に続いているようです。
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■7■館跡の丘陵北西角部分の地形
左側の北辺には大槻沢の支流が流れ比高差10m前後の崖を形成していました。
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・県道11号線秩父札所2番真福寺の手前。バス停光明寺入口より東へ徒歩約10分
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収
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