( 2006/06/19 )
凸「堀跡」か、後世の境堀か
閏戸堀の内の南東側に隣接した遺構で、資料によれば国道122号線バイパスの建設に伴う発掘調査によりその存在が確認された城館跡であるとの情報。なおその東側には東北新幹線の高架橋が縦断するという実に殺風景な地点。従って地表上の遺構を見ることは叶わず、遺構が確認された個所も現在はパイパスの真下に埋没済み。しかし、幸いにしてちょうどバイパスを潜る地下道があったので、余り意味はないものとは思いつつもついでに記念撮影などをしてみました。
なお、下記の写真の通り各種の遺構が確認された足利遺跡南西側の竹林の中には、現在も深さ数十センチ、延長10mほどの「堀跡」状の溝が所在。「堀跡」の両側には「土塁」のようにも見えなくもないような地面の盛り上がりも。位置的には遺跡の溝跡に繋がっているようにも見受けられるのですが、時代背景などを含めてそれほど確証があるわけでもなく、後世の境堀や雨水の流路である可能性もあるものと思われます。その後は周辺の様子を何コマかデジカメに納めて何時もどおりに慌しく訪城を終了。
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「堀跡」だと嬉しい南西側竹林の溝
( 2006/06/19 撮影 晴れ時々雲り) |
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■1■北東側からの遠景。
東北新幹線の側道部分から国道122号線のバイパス方向を眺めたものですが、現在は二つの大規模な公共工事のために畑と雑草の伸びた草原が広がるだけで、中世の当時の面影を辿ることは難しい光景なのでありました。
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■2■堀跡などが確認された辺りかと
国道122号線の東北新幹線と交差する北西側の地下道。資料によれば、この付近で土塁跡、建物跡、井戸跡など4ヶ所と溝跡22ヶ所がパイパス建設に伴う発掘調査により確認されているということです。
出土した遺物などから室町期のものと戦国期のものが確認され、その後江戸時代の後期頃まで村の有力者などの居館として存在していた模様です。せめて地下道の入口付近あたりにでも、「遺構」の存在を示す旨のプレートでも設置されていたら嬉しいのですが。
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・国道122号線と東北新幹線が交差する北西側付近。
・いつもガイド の案内図です
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
「閏戸堀の内」に関連する記述はありますが、直接この遺跡に関する記述はありません。
■武蔵志
閏戸村自体の記述が欠落しています。
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「蓮田市史 通史編T」(2002/蓮田市)・「蓮田市史 考古資料・古代中世編」(1999/蓮田市)
・2006/08/18 HPアップ
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