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・2005年12月29日    足元が、ぞっ...
           

 秩父方面の荒川沿いに点在する山城以外の城郭を探索。珍しく本日は気合が入っていて午前9時過ぎには自宅を出発。そういえばいままで最も早い時間の出発でも午前8時が一番早かったような...大体は9時半から10時ごろの場合が多く、資料の事前チェックも不十分な場合が多かったと一年を振り返りひたすら反省。やはり秩父方面は遠く、途中大霧山の北側牧場を越えていったりしたこともあり現地に到着したのは2時間以上も後のこと。もっとも天気がよかったこともあり、久しぶりに奥武藏、奥秩父の山容を手に取るように眺めることができて、それはそれで大いに有意義ではありました。

諏訪城(埼玉県秩父市)
 事前で地図などで想像していたよりも二本の河川の川底はあるか下方に位置していて、北側の細長い台地の先端部分では思わず足の裏が敏感に反応しました。荒川と横瀬川の合流点の個所につくられたとんでもない要害かと。諏訪神社の境内の辺りは防護柵などが設けられていますが、境内の北側を進むにつれて次第に台地の地形は先細りとなりますが、そうした防護柵はおろかトラロープさえ設置されていません。高い場所はどちらかといえば好きなほうですが、先端部分のおよそ2m手前までは進んだものの、それ以上は安全ロープでも使用しないとさすがに危ない状態です。冬のこの時期は荒川の水も冷たく河岸は常時凍結し、傾斜が90度に近い断崖は20mを遥かに越える高さが...落ちたら100%即死間違いなしかと。鉢形城の本郭北側の断崖が可愛らしく思えます。鉢形城の場合には北側の片方だけでしかも傾斜はやや緩いのに引き換え、こちらは南側以外の三方向が切り立った崖を形成していました。
 そんな北側と東西の天然の要害に対して南側は堀切・空堀・土塁で防衛線が形成されていますが、西側は枯れ草に覆われたりしている個所がほとんどで現地ではかなり分かりにくい状況でした。諏訪城跡入口の標柱が城跡の南側の外れに設置されている以外には、諏訪神社の境内や西側の外郭と思われる土塁・空堀の個所などにも何の表示もなされていないのでこれを確認するのにも更に時間を要しました。
 また、遺構の南北を秩父鉄道が縦断していることや、これと平行して南北方向に水路があるために東西方向に移動するのがなかなか大変です。おまけに、この西側のほうに小さな祠を祀ったよく類似した地形の個所があり、最初はてっきりここが城跡と思い込んで30分ほど時間を浪費してしまったというお粗末でした。

宮崎城(埼玉県秩父市)
 荒川右岸の秩父農工高校の南側に所在する城館跡で、幅は広いところでも20mで奥行きは100mに満たない小規模な遺構です。ここでも、諏訪城ほどの規模ではありませんが北西側を25メートル前後の断崖を形成する荒川に、またその支流である湾曲する15mから20m近い深さの渓谷に南西、南、東の三方向を囲まれた台地の先端に占地するという形態となっており、北側方向以外には攻め寄せるどころか近づくことさえ不可能な地形です。細長い本郭の中央部分は侵食による自然崩落があり最も狭いところでは東西の幅が9m前後の個所もあります。また南側の先端には1m以上低くなった100uくらいの郭状の平地がありますが、どのような意図で普請されたのかよく分かりません。
 なお、この場所は付近の道路が車1台が辛うじて通行できる程度の広さしかないので駐車スペースを探すのに苦労しました。結局、原島医院の北側の路地をそのまま直進して住宅の脇の坂になった空き地のようなところに頭から突っ込んで止めさせてもらいました。
 遺構の場所は立ち枯れしている丈の高い草が遺構の前面に繁茂しているために多少分かりにくい状況ですが、住宅脇の枯れ草だらけの空き地を荒川に沿って40メートルほど南に進むと意外なほど立派な小口が出現します。また堀切の大きさも予想以上で、そのまま荒川と反対の渓谷へ落下していました。これで両サイドから台地が浸食されていなければ南側には武甲山も見えるし、それこそ掘立小屋でも建てて住みたくなるような場所でした。

寺尾城(埼玉県秩父市)
 宮崎城の南西荒川左岸の台地状に所在する幅10m奥行き30m程の合流点を利用してつくられた城郭で南西部分を堀切と土塁により区画して中央に小口を置いています。ここも北西側の小さな渓谷が15mから20mと驚くほど深い谷を形成し南東側の荒川にいたっては40m前後の断崖を形成して天然の要害となっています。また北西側は中央部分が侵食により崩落していて幅の狭い部分では10m足らずしかありません。民家の裏側の台地の先端に位置していることと、台地との区切りである堀切と土塁が祠の塚と一体となっていることなどもあり
その存在が確認されたのは近年のこととされています。
 郭内には寺尾の明神様が祀られた祠が所在しています。この荒川の両岸は寺尾城や宮崎城と同様の荒川と小河川の合流点に突き出た形態の地形があちこちにあり、そんなに簡単に新しい城館跡が発見できるわけはないとは知りつつも、それらしい雰囲気のある個所も幾つかついでに回ってみました。戦国時代の「村の城」あるいは「小規模な土豪の砦」「秩父往還を監視する物見台」といった役割が想定されますが、はたして。

永田城(埼玉県秩父市)
 寺尾城の南南東400mほどの秩父札所22番童子堂がその城館跡です。宮崎城や寺尾城と比べると、北東から南西方向に約300m、北西から南東方向に南西の最も広いところで150mに及ぶという遥かに大きな規模です。遺構としては南西側に幅4m、深さ2m程度、延長約150mの箱堀状の空堀と内側に小口伴う堀底からの高さ2.5mの土塁が所在します。天然の要害としては荒川の西側に幅の狭い細長い低地が開けているため荒川よりの南東側の比高差は20m程度で、また北西側の渓谷も深さは10mから20mと城館の規模の割にはそれほど深くは無く、南東の平地に続く自然の谷の部分は傾斜も緩く比高差も10m程度とこの辺りがやや弱点となるのかなどと勝手な推測を。
 ここだけしかこなければ相応の天然の要害の地として納得してしまうかもしれませんが、諏訪城、宮崎城、寺尾城と巡ってきたこともあり、荒川などの断崖を見慣れてしまっていことによる影響が大きいかもしれません。有名な札所のひとつと云うこともあり城館跡めぐりをしていて久しぶりに人と会うことの多い訪城でした。写真を撮影しながらふと遠くに目をやると、武甲山や荒川に架かる秩父橋の構造物が師走の夕日を浴びてキラキラと輝いて見えたような気がしました。

 2005年の訪城は事情により本日が最後となり、この日も時間の関係で以上にて打ち止めですが、最後はしっかりと土塁も空堀も遺されており、しかも22番札所でお参りもできましたので大変良い締めくくりとなりました。



奥秩父の名峰の両神山 標高1723メートル
■両神山の雄姿

ざる蕎麦+くるみ汁+大盛
■とにかく安いざる蕎麦 750円也

と永田城空堀越しの削り取られた武甲山
■2005年の訪城は終わった

 今日は渋滞が予想されたのでなるべく交通量の少ないところから秩父市内へ入ろうと二本木峠の南側の牧場のある峠道を走りました。風は少し冷たかったもののこうした雄大な奥秩父の山容を眺めていると良く山歩きをした昔を思い出します。両神山へ登ったのはもう30年も以上も前のことになりました。

 本日の午後3時30分の遅い昼食はあえて国道299号線の大衆的な蕎麦屋さんに決めました。70歳前後と思われる年配のご婦人がおひとりで経営しているようです。とにかく値段が安くて、微かな甘味のある「くるみ汁」がなかなか味わいがあり、空腹のため撮影する前に大分食べてしまいました。しかし、店名が思い出せない...ごく普通の名称だったのですが。
※「みかど」という店名でした。(2006/01/09 追加)

 秩父札所22番童子堂が郭内に所在する永田城が2005年の城跡めぐりの文字通りの「トリ」となりました。さて戌年の2006年の最初は初詣もかねて何処へ行くべきでしょうかか。

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月29日
撮影場所:秩父市の各所にて

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・2005年12月24日    尾根筋を間違え、そして落ち葉は滑る
           

 数日前に忘年会の予定がキャンセルとなり、秩父市方面か飯能市方面のいずれかに赴こうという前日までの計画。その決定要素としては当日の寒さと起きた時間次第。予想通り朝は寒くてなかなか布団から出られず、この時点で飯能方面に決定。しかも前日に昼寝をした後にHPの更新をしていたので体内時間がずれてしまい、また一眠りという状況に。なんとか家を出たのがすでに午前10時過ぎ。この時点で3か所の訪城を断念し、2か所に計画変更。さらに飯能方面に向かう県道15号線の交通渋滞のため、山城と小学校の裏山の遺構に計画修正。
 それでも距離的にはそれほど遠くないので、午前11時20分ごろには麓の神社付近に到着。真新しいタグ付のトレッキングシューズに履き替えて屈伸運動を行い足の感触を改めて確認。特に問題がなさそうなのでボチボチ登山口へと向うことに。その前にトイレがあったのでよっていくことに。山の北側に所在していることもあり床が凍結してスケートリンク状態に。こんなと転んで怪我でもしては、とても洒落にならないと慎重に用足。

大河原城と殿屋敷(埼玉県飯能市)
 八耳堂の奥にある軍茶利神社の更に奥から斜面に刻まれた山道を登り始めます。5分も行かないうちに「殿屋敷」と呼ばれる大河原氏の館跡と推定されている平場に到着。明らかに人工的に平坦地とされた地形であることが一目瞭然の光景が目の前に広がる。一部尾根筋の地形を利用した土塁のような地形が東側に見られるような印象。角度を変えて何枚かの写真を撮影し東側の微高地となっている部分なども確認。直広さは微高地の部分を含めても1000平方メートル前後なので、平坦地を含むこの一体を館として利用していたのかも知れない。
 さて、ここからは比高差40mほどのやや急な登りが続くものの、僅か数分程度で尾根筋に到着し、呼吸を整えるために枯葉の上にへたり込む。2、3分の小休止をとったあと右手の尾根筋を登攀。竪堀とも鉱物の採掘跡ともいわれる小規模な竪堀状の遺構の間を山道を確認しながら次第に高度を上げる。先ほどの個所からは同様に比高差40m程度なので、数分後にはあっという間に平坦な枯れ草のある主郭部分に到達。小休止をとっても比高差120弱の登りなので、通常は20分程度の時間があれば登頂可能であることを確認。もっとも、自分の場合には年齢と体力の関係で30分かけてゆっくり登頂。
 主郭南側の堀切は勾配もきつく主郭側の高さが5メートル以上はありそうでなかなかの見ごたえ。十分に南側の尾根伝いからの侵攻を防ぐ構造に。また、主郭の北東側だけ伐採により視界が開けていて飯能市街が一望。もっとも主郭といっても20m×30mほどの広さ。南側の公団の造成地は建設中止以来そのまま放置されたままの様子なので、現在の所ではこの大河原城まで開発の波が押し寄せることはなさそうな模様。北側の堀切と西側の堀切は探し方が悪いのか確認できず。おまけにその探索の最中に2年間愛用していた3色ボールペンを紛失。
 なお、帰りがけこのあたりの山道を個人的なボランティアで整備しているという地元の年配の方と出会い坂道の途中でしばし歓談。こういうことを始めてからすでに8年が経過しているが、途中で人に出会ったのは今回が初めてとのこと。道理で余り人が登るとは思えないような場所なのに山道の状態が良いはず。夏前には草刈や枝打ちもされているとか。また、南側の堀切の途中にトラ・ロープが設置されていたのはこの方のお蔭。また尾根筋の手前の滑りやすい直登個所にも同様の整備を行ったが、不心得な人間により持ち去られたとの由。ハイカーを代表して敬意と謝意を表して別れる。また、歩いている途中で「どうも左足の靴の具合が...」と思い、よく見ると左足だけ登山用の靴下を履いていなかった...(^^;

小瀬戸城(埼玉県飯能市)
 大河原城から県道70号線を西に2kmほど進んだ飯能市立第2小学校の北側の裏山が目指す小瀬戸城。上り口は情報によると「西側の住宅地の方から」となっているので素直に住宅地へと向う。途中に神社があったのでとりあえず参拝し、住宅地の東側の谷筋に山道が見えたので早速攻略開始。予想通り50mも進まないうちに踏み跡は消失し倒木と潅木の藪に直面。しかし、目指すべき稜線は目前で元々比高差自体も40mもないことからバキバキと倒木の枯れ木を踏み砕き、体にからみつく潅木の枯枝をへし折りながら稜線に到達してルート開拓に成功。稜線の道は異常なほど踏み跡がしっかりしていてやや拍子抜けが。不思議なのはこの稜線の道に上がってくるべき道が殆ど無いことで、この北側に飯能グリーンカントリークラブというゴルフ場が所在しているにせよ、なぜこれだけ道がはっきりとしているのかまったく理解できず。
 さて稜線を右手(南)方向にほんの少し進むと堀切に到達し、主郭側で2.5mの高さがあることを確認。もっとも人工的な遺構と確認できるのはこれだけで南北に伸びた細長い尾根の南端部分は岩場の上に細長い平地が広がりその西端に金比羅宮の祠が鎮座。南側は規模こそ小さいものの見事な岸壁が聳えていて攻めるものを頑として寄せ付けない風情が。その個所には危険防止のためのトラ・ロープが上下2段に張り巡らされていますが、比高50mほどの急斜面を下りていく道が見え隠れ。恐らくは小学校の体育館の裏手の崖の部分で消滅しているものと推定。さて帰り道は稜線の道が余りに整然としているのでゴルフ場の方まで行ってみようと思いたったのが誤りの元。途中で引き返した際に降りるべき道を間違えて、何故か200mほど東側にずれて小学校の東側に出てしまいました。どうやら尾根が広がっているあたりで方向を誤った模様。地図でよく見てみると里道が記されているので全くの間違いと云うことではないものの、再び新しい下山ルートを開拓する羽目に。

 今年一年で参拝した神社・仏閣の数は恐らく150ヶ所以上。浄財も単純計算で1万5千円以上。年末が近づき初詣のCMも目立つようになってきましたが、そもそも初詣とは新年に初めて神社・仏閣に詣でることから初詣と呼ぶわけで、そのとき限りであとは詣でることも少ないという人々も結構多いのでは。そういう場合には初詣とは呼べないのでは、などといきり立ってもいたし方の無いこと。さて、そういう意味での初詣の資格は十分にありそうな自分は何処へ参詣に行くかというと、城館跡めぐりと同様にできるだけ人気の少ない氏子などが殆どいそうも無いような侘しい雰囲気の祠・堂宇を目指しています。



名栗川が見える川岸の店舗
■落ち着いた雰囲気の店内

割り子そば蕎麦の俯瞰図
■割り子蕎麦 1500円也

誰が見ても富士山
■夕暮れの富士山 時刻は午後4時30分

 値段も内容もまずまずで、たしかに歯ごたえもあり、喉越しも良く空腹を満足させてくれるものではありました。けれども前回の長瀞駅前の店の印象が強すぎたので、全体としてやや個性が弱いように感じました。それと自分自身の蕎麦の好みと云うのが、最近は「舌触りが少しざらざらして、もっちりして歯ごたえがある太麺」に傾斜しているということも影響しているようです。
 あと、あくまでも自分にとっての話ですが、小あがりのテーブルが高さ25センチ程度とやたらに低く、胡坐をかいたとき膝がテーブルにぶつかるというスペース設計の問題がありました。これも自分の座高が人よりも高く、足が太いだけなのかもしれませんが。

 さて、一番下の写真は、帰りがけに自宅近くで撮影した富士山と丹沢方面の山々です。太陽はすでに地平線の下に沈みその分シルエットとしてはっきりと浮かび上がっていました。ちょうど巣に帰る途中の鳥が2羽ほどまだ薄明るい空を舞っていました。このあたりは日ごろは見慣れてあまり気になりませんが、いたるところに送電線とその鉄塔が聳えていることを改めて認識しました。良く見ると写真の中段の暗い部分に関越自動車道が写っています。このあたりに関越自動車道が完成したのは確か1970年のこと。それ以前は関越自動車道もなく、送電線も少なくて奥武藏、奥秩父、奥多摩、富士山、そして丹沢の山並みが遮るものもなく手に取るように見えたことを思い出しました。

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月24日
撮影場所:飯能市「櫟庵」にて

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・2005年12月19日    季節はずれのカタクリの自生地、そして落ち葉は滑る
           

 本来は神泉村の両ヶ谷城プラスその他という予定でしたが、日野城、安戸城で凡その現在の体力を把握していましたので、地理不案内という問題と体力欠乏という現実に照らし、余り迷わずに体力的に楽そうなところを選び前日に急遽予定変更。
 さて、自分の体力にあった楽な訪城だったかというと、これがさにあらず。本来は楽なはずだったものを困難な訪城にしてしまったのは全て自分のせいなのでありました。

仲山城(埼玉県秩父郡長瀞町)
 資料には比高差およそ120mほどと書かれており、明らかに先日の安戸城の180mに比べれば楽なはずの訪城だったのですが。
 南側の暖かな日差しを浴びる無住と思しき西光寺に立ち寄ったところ、墓地の裏側から山頂方向に向けて比較的しっかりした踏み跡が確認できたので迷うことなく登頂へ。しかしこれが間違いの始まりで、50mほど高度を上げたあたりから踏み跡は背丈を越える笹薮の出現とともに跡形も無く消失することに。それでも山頂に向けて前進を続け、漸く笹薮を抜けたと思ったら今度は棘のある潅木地帯に遭遇する始末。さらに、そのあとはつる性の植物に前進を阻まれて難渋し、次第に斜面は傾斜を増幅させ地面に積み重なる落ち葉は滑りやすく足元は著しく不安定モードに突入。ホールドになりそうな木の枝や根も、枯枝が多いためにこのあたりで一時立ち往生状態に。
 しかし、そうこうするうちに何とか高さ4mほどの緑泥片岩の岩塊の下へとよたよた何とかたどり着き一息をつくことに。さてどうしてこれを登ろうか...と、ここが思案の為所に直面、岩場も直面。まあ不幸にして仮に滑り落ちたとしても、生茂る潅木のためにせいぜい数メートル位で止まり、打撲とかすり傷は負う程度ではないかと状況判断。それでも足首の捻挫などという最悪の事態の発生に注意を払いながら、とりあえずは自己の経験・判断を信じて迂回ルートを見定めることに。左側から回り込んでいくのが最も足場が良さそうだと判断し、枯葉や浮石の足元に注意しつつ、枯枝以外のありとあらゆるものに掴まり平坦な岩塊の上部に到達。ここは山岳信仰の近世の石碑なども建立されている場所で、最近余り人の立ち入った気配が無いものの、資料によれば山頂までは比高にして10m程度と考えられやれやれ一安心。とはいうものの、たったこれだけの登攀で左足の足首に力が入らなくなり、その筋肉の衰えは尋常ではないことを痛感した次第。
 このあたりから再び踏みあとらしきものもあちこちに見られるようになり、まばらな潅木地帯抜けて南側の腰郭と思われる場所にあるNHKの電波増幅施設のところに到着。ここからは尾根筋の道が極めて明確となり電波増幅施設の脇を通り、途中で主郭南側の小規模な堀切を確認したのち東屋の所在するという本郭へ直行。その東屋で飲んだ無名メーカー製500ml78円の適度に冷えたお茶の味が実に美味く、力が入らなくなった足首を含めて体力・気力がよみがえりました。しかしこれは自分の責任とはいえ、安戸城の藪が実に可愛いらしく思えてならない、現在のところでは間違いなく最悪の部類に属する藪漕ぎ体験かということに。
 さて帰路は順路どおりに北側の細い尾根筋を辿り途中のもうひとつの堀切を確認し、その傾斜の度合いから東側からの攻略には著しい困難性を感じました。尾根筋の道は標高220m地点の切通となった峠部分(中世城館ならばまさに堀切)に10分も要せずに到達。この尾根筋の道を登るのならば明らかに5歳児でも登れそうなルートでありました。また、この峠部分までは幅員が狭く勾配のきつい個所が見受けられるものの、多分車で上がることもできそうな感じがします。この東側にカタクリの自生地がありましたが、今は全く季節はずれで自生地であることを示す看板が立てられているだけでした。本来の順路は県営長瀞団地の先の幅3mほどの道を右折すると仲山城への標識も要所要所に数ヶ所あり、先ほどの峠から登ればどう考えても僅か20分程度の道程でありました。
 一方自分が登頂に要した時間は何と40分以上も要したことに。資料には確かにこの北側のカタクリの自生地の方から回りこむと、比較的楽に登ることができる旨が記されていましたので、やはり時々はそうした情報も当てにしないといけない場合もあるのだとひたすら自省を。また下り道で気がついたのですが、現在使用しているトレッキングシューズは軽すぎてしかも滑りやすく踏ん張りが利かないので、今後の山城めぐりの時は別途購入を検討すべきかという結論に至りました。また、この山城は頂上に近づくほど斜面の傾斜が鋭くなり、少なくとも北側の細長い尾根筋以外には攻め口の存在しないことも実感し、それはそれで貴重な体験ということに。

浦山城(埼玉県秩父郡皆野町)
 後半の浦山城は標高600m以上のところまで車で上がることができるため、前半の仲山城に比べれば体力的には殆ど消耗しませんでした。登口はここでもカタクリの自生地でしたが、南側の穏やかな陽気と比べて稜線に出た途端に環境が一変し、風速10メートル前後の北風が城峰山の稜線越しに容赦なくこちらに向って吹き付けて来ました。折からの大寒波襲来により、何時もならば撮影メモ記入しながらの探索となるべき所が、指先がかじかんで全くいうことを利かずデジカメのシャッターを押すのが精一杯の状態となってしまいました。
 主郭の東西の細長い尾根を南北に掘りきっただけの実に小規模で簡単な山城ですが、堀切だけは割合しっかりと施されていて、掴まるものも無いことから上り下りにやや苦労しました。しかし、車を停めた場所からの比高差は精々40mあるかないかの往復にして30分程度の道程ですので、仲山城の時に比べたら拍子抜けするほどに実に楽な訪城でした。なお後日の下調べのために、このあと城峰山方面に向う林道へ車を走らせましたが、降雪がそのまま凍結しアイスバーン状態の個所もあり、また林道自体も途中で未完成のため通行止めであることをあらためて確認。それにしてもこの先の標高600m以上の地点に浦山の集落から随分と離れてポツンと1軒だけ南側の山腹に現在もお住まいの様子の民家が所在しているのには正直驚きました。
 なお、本日の寒さ対策としてセーター・フリースのベスト・作業用の防寒着を含む5枚重ねといういでたちに加え、トレッキング用の靴の先には足ポカカイロという装備ではありましたが、肌を突き刺すような寒風は半端なものではありませんでした。いずれにしても山城めぐりの季節の到来ですが、自分の体力と日没の速さを考慮すると1日あたり精々2か所ぐらいまでという結論に達した訪城でした。



くつろぎの空間といった按配の店内
■店内は全て座卓の客間風のつくり

とろろ蕎麦の俯瞰図
■尤もな経営方針が記されていました

「元祖打ち込みそば」の俯瞰図
■納得の挽きぐるみ蕎麦 1365円

 蕎麦のガイドブックなどにも掲載されているいわゆるこだわりの店のひとつです。さて、始めに「少しだけ汁をつけずに食べてみてください」と言われ、勿論その通りにしてみると蕎麦の弾力のある食感とともにほのかな甘味を感じました。丁寧に納得のいく蕎麦づくりをしているという姿勢が伝わってきます。
 帰りがけによく見てみると「お子様の入店をお断り」する旨の但し書きが店の入口に表示されていました。大人しくできない子どもの責任というよりもそれを嗜めるべき両親の資質の問題かと思われます。勿論店内は当然のことですが禁煙。
 西日の当たる暖かい縁側の特等席で寒さに冷えた体を温め、やや粘り気が強い打ち込み蕎麦を少しずつ味わいながらBGMにアルトサックス・ピアノ・ドラムのジャズが流れて本日の疲れをいやす...贅沢な時間を過ごさせていただきました(感謝)。これで量がもう少しあれば...というのは欲張りすぎかと。あ、あとお絞りも欲しかった...(^^;

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月19日
撮影場所:長瀞町「とらや」にて

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・2005年12月17日    東秩父方面へ
           

 家内の近しい肉親が入院したので、その見舞いのため小川町の日赤病院へ。そのついでということで西隣の東秩父村の中世城館跡を探索。実際のところ、どちらがついでなのか自分でも分からず...

凸山田館
 そもそも所在地が不確かで、かつては確認されていたという土塁や堀跡などの遺構も今はどうやら不明な模様。板碑の破片と思しき物体が祀られているところと、休耕中の畑の中にポツンと立てられている稲荷社跡の標柱の辺りがそうだったのかなどということにして、余り時間もないので20分ほどで探索終了。このあと参詣者用の駐車場の隅をお借りしていたので、帰りがけに西側の上品寺に立寄ってお参りをして撤退。

凸安戸城
 登口がよく分からないものの城山の山頂は麓から見えるので、保育園の東脇の沢から尾根筋を目指してひたすら直登を開始。登坂は膝の心配がほぼ不要なものの、日頃の運動不足が祟って思いのほか息が切れるのが早く、何度か呼吸を整えつつ一気に50mほど標高を上げて漸く尾根筋の踏み跡に合流。およその地形が分かる資料と一応山歩き歴20年+αの感で、道があるような無いような眺望の全く無い尾根筋を兎も角東の方向に向って高度を上げていく。麓から約30分ほどで漸く南側の帯郭と思われる平坦地に到着。
 さて、目当ての本郭は直ぐ目の前で比高差にして2.5mほどの切落しが所在。周辺を観察すべく本郭に上がったものの、文化財の標柱と「城山大神の石碑」以外には何も無くまた予想されたとおり眺望もほとんど見られず。また、北側の一段下がった小規模な二の郭もあまり地形状的にははっきりと分からず、さらにその北側に所在するとされる堀切に至ってはどこにあったのか殆どその存在が分からず仕舞い。
 また本郭の東側は木々が生茂り眺望以前に見通しさえ利かず、本郭の周囲の地形だけでも確認しようと木の枝を排除しつつ、季節はずれの蜘蛛の巣を払いながら東側から北側に回りこんで探索。初冬の晴天の午後1時30分という時間にも拘らず、叢生する樹木のため本郭北側の斜面は相当に薄暗く著しく陰気な光景が展開。また東側の尾根筋の道は踏み跡さえ見られずほぼないに等しい様子かと。いずれにしても、せっかく来たのだからと都合1時間以上も在城し、心残りのないように堀切・竪堀などの所在とその位置などを確認。
 ここで残り時間が少なくなり始めたので一路下山し始めたものの、膝のバネが弱っていることや踏ん張りが全く利かないことを改めて思い知ることに。今回は中途半端なところから登りましたが、時間の制約で未確認ですが、本来の登山口は「大霊神社」あるいはその西側の「八幡神社」方面から西側の尾根筋に続いているのかもしれません。

凸大河原氏館
 浄蓮寺の境内が館跡とされていますが槻川ととその支流により北辺と東辺が守られ南には山を背負う北に向かって緩い傾斜がかかる地形や高く積まれた後世の石垣の存在がかつての武士の館跡の存在を示唆してくれるような気がします。幾本もの古木の存在とあわせてその堂宇の規模や境内の広大さはこの寺院が長い歴史と伝統を有することを物語っていました。なお、この境内の南側にある山寄りの墓地には松山城主(城代)とされる上田朝直(安独斎)のものとされる宝篋印塔が所在しています。
 
 午後3時を過ぎ太陽はすでに南側の山の陰に隠れで辺りには夕闇が漂い始め、本来の目的である小川町の日赤病院までの道を急ぎました。



岐阜提灯の灯りが暖かみを運出する店内
■岐阜提灯のある店内

とろろ蕎麦の俯瞰図
■とろろ蕎麦大盛845円也
(うずらの卵の入れ物が可愛い)

 これでも一応は、蕎麦屋は必ずしも蕎麦さえ美味ければよいというわけでもなく、店構え、店内のつくり、清潔さ、接客サービスの適切さ(お茶、お絞り、蕎麦湯の出し方、注文の受け方、商品の出し方、代金支払い時の対応など)、値段、分量、そして注文から仕上がりまでの所要時間などを総合してまことに身勝手ながら自己の判断材料としています。
 さて今回はどうだったかといいますと、前回の北本市の蕎麦屋の印象がかなり強かったこともあり、この値段にしては全て平均点以上かと思いますけどあくまでも自分にとっては何かひとつ強烈にアピールするものが感じられなかったように思われました。
 また全く本質的なものではありませんが、裏方の部分が一部客席から見えてしまうことと何故かトイレが店の外から入るという設計の趣旨がよく分かりませんでした(^^;

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月17日
撮影場所:小川町「おめん」にて

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・2005年12月12日    北本方面へ
           

 本日は職場の忘年会が午後6時から予定されているので少し気忙しい感じもしたのですが、先週の土曜日に出かけることができなかったこともあり予定通り北本方面の訪城へ。昨日の日曜日が真冬並の寒さだったこともあり、天気予報では曇がちで気温もあまり上がらないとのことでほぼ完璧な防寒対策を実施。しかし空気はひんやりしていたものの日差しもまずまずあったので、石戸城の湿地帯には薄氷が張っており、耳がやや冷たく感じた以外はそれほどの寒さではなかったようでした。

凸石戸城
 宅地や畑が点在しているため、城跡らしい遺構はそれほど目視することができません。予備知識が無く車で城跡を南北に貫通する道路を通過した場合には、そういえば「切通し」があったようなという程度の記憶しか残らないかも知れません。しかし、徒歩で資料に基づいてじっくりと探索すると朧気ながら当時の城跡の状況が浮かび上がってきます。
 城跡の南側を除く三方は低地がひろがり郭のある台地との比高差は10m以上はあります。特に東側は現在でも水深不明の底なし沼のような湿地が広がっていますので完璧な天然の要害を形成しており、城攻めを行った北条氏邦の「一夜堤」の伝承が遺されていることに納得します。当時においてはそうした湿地が南側を除く三方に広がっていたものと考えられますので、この方面からは通常の方法ではまず難攻不落かと思われました。南側の台地を堀切る空堀(堀切)は現在でもその一部を見ることができますが、堀幅は最も広いところで40メートルほどはあったものと思われ、深さが判然としないものの相当おおかがりな規模ではないかと推定されます。

凸堀ノ内館
 自然の谷を防御施設に利用した台地の先端に所在し源範頼の館跡ともいわれる場所ですが、資料によると分断された堀跡や土塁が数ヶ所ほど散在していることになっています。しかし内堀に相当する石戸神社付近の空堀と土塁の一部が確認できる以外にはこれといって目にすることができませんでした。その場所も北側には売地の看板が設置されていましたので、内堀跡を見ることができるのは今のうちかもしれません。



落ち着いた雰囲気の店内
■落ち着いた雰囲気の店内

とろろ蕎麦の俯瞰図
■とろろ蕎麦 1300円也

とろろ蕎麦の俯瞰図
■蕎麦湯も土瓶で

 帰りがけに立寄った川島町の蕎麦屋が臨時休業のため、急遽後戻りしてこの店へと向いました。結果は大収穫で、現在のところ間違いなく自己ベスト3にランクインします。蕎麦湯は土瓶で、そば茶も急須で出てくるのが嬉しいサービス。蕎麦は二八の細打ちですが、むしろ9割蕎麦に近いようなそばの香りが残り、舌触り・喉越しともにとてもいい感じでした。トロロは岡部町の方の有機栽培のものを使用しているとのことで、力強い粘り気があり大き目の蕎麦猪口に厚さにして2センチ近くあったので、最後までトロロの味が残りひたすら満足、満足(^^)
 またこの店は開業して9年と云うことでしたが、蕎麦の名店案内のような雑誌・書籍のあちこちに掲載されているようでした。石土城から北へ車で10分ほどの荒川の河岸段丘の中腹に所在し、その先の高尾橋もちょっと渡るのに勇気がいる小さな冠水橋となっています。このため店の中から視界を妨げるものは殆どなく、本などで紹介されている通り確かに眺望はよく秩父連山、上州の榛名・赤城などの山々が手に取るように見えました。これで値段さえもう少し安ければ...(^^;

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月12日
撮影場所:北本市「阿き津」にて

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・2005年12月08日    再び鴻巣へ
           

 三男の運転免許証の更新手続きのため鴻巣の運転免許センターまで同道。なお、この場所は先月の21日に中世城館跡の所在する中三谷遺跡として来訪しています。息子は携帯を所持していないので近くの城館跡へ赴くわけにも行かず、2時間ほどの手続きと講習の間に施設の見学をしたり本を読んだりして時間を潰しました。帰りがけに前回からマークしていた蕎麦屋へ出向いたついでに、再度「伝源経基館」に立ち寄り念のため城址の碑文を確認し自論の正しいことを確認。



掃除が行き届いた店内の様子
■20平方メートルほどの店内

十割蕎麦の俯瞰図
■田舎そば 800円也

 鴻巣高校近くの外観は一見普通の住宅ですが、手打蕎麦のノボリバタが立てられているので直ぐに分かります。玄関のドアを開けて中に入ると普通の家の玄関ですが、玄関ホールに来客用のリーフレットなどが置かれているのでひと安心。玄関から向って右側のリビングが左の写真の店舗部分となっています。
 自分は「十割の田舎そば(一日限定5食で最後の1食でした)と舞茸の天ぷら150円」を、三男は「二八のもりそば大盛1000円と舞茸の天ぷら」を注文。栃木県産の石臼挽き自家製粉の十割蕎麦はやや太めで歯ごたえのある食感。天ぷらがカラッと揚っていたのが美味かったとは三男の感想。
 三男は小さい時分には蕎麦は殆ど食べなかったような記憶がありますが、いつしか普通に食べることができるようになっていたことに内心感動しました。また、開店3年目となるという店内はご覧の通り大変清潔で掃除が行き届いていました。「伝源経基館」から徒歩4分ほどの所にあります。

■お店の所在地■

撮影月日:2005年12月8日
撮影場所:鴻巣市大間
「手打蕎麦いちい」にて

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・2005年12月05日    桶川方面へ
           

 ここ何日か記念すべき埼玉県内200城館目をどこにしようかと、幾分迷ってはいたのですが結局以前から資料を用意していた北本市の石戸城か桶川市の三ツ木城の何れかということになり、自宅からの道路アクセスの関係で三ツ木城を選択した次第。

三ツ木城
 桶川市の教育委員会の作成した縄張り図を見て最初に思ったことは、「おむすび」の形に良く似ているということでした。北側に伸びた舌状台地の先端を、平面状は三角形に近い二重土塁で囲んだ形状的には珍しい遺構です。
 現在は桶川市の城山公園の中に所在していますが、元々公園部分は湿田だったらしく北、西、東の防御は二重土塁の存在とあわせて万全。台地続きの南側は人家が所在し、遺構の一部が破壊されているのが見て取れますが、この南側は元来は深く幅の広い堀切と高い土塁で防御していたと考えるべきでしょうか。
 さて、実は最初この城跡の具体的な場所が分からず、西側の比高3m前後の崖線の個所を探してしまいました。後から考えれば城跡の解説板が立てられている場所の後ろ側がまさしく城跡そのものだったわけですが、公園の案内図には「城跡広場」などと記されているので、つい公園化された土塁と空堀をイメージしてしまい200ヶ所を回っている割には即座に勘が働かず10分ほど時間を浪費。
 しかし西側の自然地形の浅い谷津部分の奥の方からアプローチすると外側の低い土塁部分に到達。ここから見上げる土塁の高さは8m近いところもあり一瞬目を疑います。おまけに二重土塁の間の空堀は昨日からのまとまった降雨により泥沼と化していたのですが、厚く積もっている落ち葉のため全くその様子が分からず...踏み出した左足は靴ごと30センチほど地面にめり込みました。咄嗟に右手で近くの太い孟宗竹の幹を掴んで自分自身の体を引っ張りあげましたが、両足いっぺんでなくてよかった、よかった。
 外側土塁の上には犬の糞があちこちに点在。それを避けながら北側に進み空堀が陥没しそうも無い個所を物色して、空堀をトラバースして内側の土塁に取り付き、枯れていない丈夫そうな樹木の枝にしがみついて比高6m以上、約傾斜45度近い土塁の斜面を這い上がって内郭へ無事到着。しかし、どうみてもこの場所は「城跡広場」には見えず、案内図には表記したものの整備は手付かずとなったのかもしれませんが、いずれにしてもこのコースで進入するのはかなり無謀かと反省。さて、堀跡や内郭土塁を暫くうろついた結果、「おむすび」の堀跡の北側頂点の個所は堀底が高いのでこの場所から入ればアプローチが至って簡単なことを発見。それにしても内郭の広さと比べて必要以上に堀が深く規模が大きいのが不思議に思う城跡でした。公園を散策中の親子連れが、「城跡ってどこにも無かった...」と会話しているのが聞こえましたが、確かに一般的には分かリにくいので、解説板とともに縄張り図を併設していただくことを期待したいと思ったのでありました。

武城
 三ツ木城よりも更に歴史的背景が不詳な城館で桶川市の浄水場の北に所在する南向きの緩斜面に位置しています。道路と一体化している北側の外堀部分と内側の土塁の一部が地表上で確認することのできる遺構となっています。道路上の外堀部分はともかくとして、内側の土塁の所在する場所はどう見ても近くのお宅の屋敷林の一部のようでした。落ち葉焚きの火が残っていましたので、姿が見えれば了解を頂こうと思っていたものの人影は全く見えず。したがって、できるだけ端の方から失礼してデジカメに納めて即刻撤退。それにしても空堀跡と土塁の位置関係が頭の中でどうも繋がりにくい遺構でした。
 



店内の様子
調和の取れた和洋混合の店内

ふにゃー
■割り子そば 1200円也

 城跡めぐりの帰り道、桶川市内で十割蕎麦の看板に惹かれて、何時もの蕎麦喰いといきたいところでしたが肝心の店が見つからず。致し方なく、そのまま自宅方向に戻りながら幾つかの蕎麦屋の情報を頭の中で反芻。そうするうちに、そういえば「カツどん」と「力うどん」は食べたことがあるけれども、まだ蕎麦を食べたことは無い店があったことを思い出し少し足を伸ばしてこの店に到着。
 いつもの「とろろ蕎麦」の単品がメニューには無かったので、「割り子そば」を注文。「わかめ」「とろろ」「てんぷら」「辛み」「山菜」の五種類の味が楽しめてこの値段はお徳かと。そば自体もトータルすると大盛以上のボリュームなので午後2時過ぎの遅い昼食としてはぴったりの内容でした。蕎麦自体はやや堅めです歯ごたえも感じる妥当な食感。ただ蕎麦の香りがもう少し欲しいようにも思いました。なお勿論、お茶、おしぼり、そば湯付です。

撮影月日:2005年12月5日
撮影場所:入間郡三芳町にて

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・2005年12月03日    やっぱりネコは寒がりで
           


アンカの上が大好きなポミ
やっぱり寒がりだったポミ

ふにゃー
■「あんみつ」は寒さに強い

 寒さには強い体質なのですが、今朝はこの秋一番の冷え込みのようで躊躇無く暖房を入れてしまいました。今年はまだ朝から暖房を入れたことは無かったのですが、室温は摂氏10度を切り風邪をひいても困るということで少しだけ贅沢をしました。
 一方、仕事先では日当たりが良い環境なので、曇の日には防寒着と仲良くすれば、恐らく年内は昨年同様に暖房無でも乗り切れそうです。そうして結果的に余裕の発生した電気料金の予算で施設の細かい修繕などに充当する算段です。そういえば昨年度はこの方式でようやくパンフレット台をA4サイズに変更し、解説シートをB5から拡大することができたことを思い出しました。紙面の拡大にともない文字も拡大したので、中高年者層にとっては多少読みやすい内容になったはずですが。
 さて、娘の猫たちも今日の午前中はガラス越しの日差しの暖かい部屋から出ようとはしませんでした。少し寒がりのポミは全く電源が入っていないにもかかわらず電気アンカの上から動こうとしません。やや太り気味の「あんみつ」の方は皮下脂肪の厚みのせいで、初めての冬を迎えますが余り寒さは気にならないようです。

撮影月日:2005年12月3日
撮影場所:自宅 

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