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寺尾城
関連ページのリンク  2005/01/17の日記    
所在地
埼玉県川越市下新河岸(日吉神社境内)
歴史と沿革

 「新編武蔵風土記稿」によれば後北条家家臣の諏訪右馬亮の居城であるとの記述があり、城山、猫山(根古屋からの転訛か)の小名も残るという。この諏訪氏は信州の名族諏訪氏の傍流で、横浜市鶴見区の寺尾城を本拠とし後北条氏5代に仕えたということである。また「小田原衆所領役帳」には諏訪三河守が久良城郡寺尾を二百貫文で知行していたとされているものの、川越城の南方に所在するとされるこの寺尾城との関連については、その人物関係も含めて今ひとつ明確さを欠いているものと考えられる。
 一方、「諏訪氏の関係する土地が何故か寺尾と呼ばれることの不可思議さ」については、「新編武蔵風土記稿」においても指摘されており、確かに奇妙な一致ではある。また、上新河岸村・下新河岸村の両村は、慶安から元禄の間と考えられる近世の初期に寺尾村から分かれたということであるが、寺尾という地名の起こりは旧寺尾村所在の天台宗勝福寺に由来しているという見解もあるという。(「川越舟運」)しかし、そのことを以ってこの奇妙な符合の事実を説明するにはやや不十分と言わざるを得ないものがある。
 なお、「北条記」などの記録によれば、上杉方と後北条氏方の「川越夜戦」(この合戦については、その存在形態も含めて様々な諸説がある)の際に諏訪右馬亮が使者として上杉方との折衝(和平交渉)に当ったとの記録があるが、この寺尾城自体がその当時の存否も含めて、河越での合戦において現実にどのような役割を果たしていたのかなどについては詳らかではない。また、この寺尾村自体は諏訪右馬亮が開発したものであり、近世に入りその家臣であった望月・河野家が土着・帰農したのちに両家は寺尾村の名主となり、川岸問屋として繁栄したという見解も示されている。(「川越舟運」)

確認できる遺構
平場または郭か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

 「新編武蔵風土記稿」に記されている「諏訪右馬亮居城跡」の記述によれば、「寺尾村の北寄りに所在し、上新河岸、下新河岸の三村にまたがり、本丸、二の丸、三の丸と思われる個所がある。東西は僅かな距離ではあるが、畑の間に民家などがあり、今では推し量ることかできない。また砂村との境に長さ180m余、幅20mほどの土塁があり、これを並木と呼んでいる。これも以前の城跡の名残りであろう」と記されている。
 新河岸川南岸の武蔵野台地の北東の先端部にあり北東方向の眺望は極めてよい。また、中世末期の川越城からは南南東2キロメートル強の距離にある。なお、有名な後北条氏が武蔵の大半を制するきっかけとなった、河越夜戦の行われたと伝えられている砂久保陣場は南西約1.5qの位置、県立川越初雁高校の北方に所在している。

参考資料、古文書、
記録

「川越の神社建築」(2004年/川越市教育委員会編集発行)
「川越舟運」(斉藤貞夫 著 1982年 さきたま出版会)
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「川越市史 中世編」(1985年/川越市編集発行)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988年/埼玉県編集発行)
「鶴見歴史の会が語る鶴見の歴史(第8回)」(横浜市のHPサイトより)

文化財指定
訪城年月日
2005/01/17、2011/11/04
訪城の記録

( 2005/01/17 )
歴史を調べるのに四苦八苦
 寺尾城の場所は新河岸川の南岸、堤防からの比高4mの台地上の日吉神社境内そのものです。有名な後北条・上杉の河越夜戦に何らかの関係がありそうな遺構らしいのですが、なかなか城跡の歴史的経緯が分からず四苦八苦。「埼玉の中世城館跡」では、所在地についてマーキングした国土地理院の地図の方は合っていると思うのですが、所在地の方の記述がどうも不正確なようで、「川越市史」にも殆ど記述がなく城跡としてあまり訪れる方もいないようです。
 しかし、「新編武蔵風土記稿」の寺尾村の部分を調べてみると、寺尾城の中心人物である諏訪右馬亮のことなども多少記述されており、やっぱり「新編武蔵風土記稿」は偉い。見方を変えれば下調べが不十分なだけですけど。また、新河岸川の水運の関係を調べていくと意外な本に遭遇して結構面白い資料調べとなりました。
 新河岸川堤防から見る遺構は、小規模ですがいかにも城跡らしい光景なので予想外の収穫に満足しました。この時点で時刻はすでに1時半過ぎ。自宅に3時半まで戻る必要があり、古尾谷館との2か所のみの訪城となった次第です。2日間の霙模様で、秩父の山並みはすっかり雪化粧の様相を呈していました。

( 2011/11/04 )
比定地めぐり
 現在HP掲載の比定地の出典は「新編武蔵風土記稿」の記述そのものとなっています。
ところが最近、掲示板へのご教示などを契機にして、「武蔵志」「武蔵野話」では勝福寺、日枝神社付近を示唆していることを確認し、さらに、「入間郡誌」では氷川神社付近を示唆...と近世地誌類などの表記は実にまちまちでした。
 そのような次第でかつての新河岸川支流と推定される河岸段丘沿いの比定地について、小河川の水源地付近から徒歩にて踏査してみたものですが、当然のことながら比定地を絞り込むには至りませんでした。

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 新河岸川の右岸の堤防上から台地上の郭跡を撮影。左端に見える湧水は明治以前から存在した模様ですが、冷たいことを覚悟して指先を入れてみましたが予想に反して生暖かい反応が......地下水の水温は夏冷たく、冬は暖かいのは本当のようです。
 ( 2005/01/17 撮影 晴時々曇 )
交通アクセス

・東武東上線新河岸駅より徒歩8分。新河岸川に架かる旭橋の南側で日吉神社の境内。MapFan Web の案内図ですボタン


( 2005/01/17 撮影 )

■このような丁寧すぎるぐらいの説明が、初詣の関係もあったようで境内のあちこちに貼ってありました。所在地名の「下新河岸」は慶安年間(1648〜1652年)に川越城主松平信綱の命により建設された船着場で、江戸と川越を結ぶ水運の中継拠点として賑わいを見せていたそうです。
 また、日枝神社は河岸が置かれる以前から、この地にあった天台宗蓮華院の境内社であったとのことです。
■左側が天満宮(北野天神)と愛宕社(愛宕神社)が合祀、右側が金毘羅様。この社以外にも西側の開けた場所に神明社、稲荷社も同居していたように思いました。 鳥居の形態は神明鳥居のようです。
■日吉神社(日枝神社)の鳥居と拝殿。近江の日枝(比叡)神社は比叡山の鎮守として鬼門である北東の方角に建立された。各地に勧請され山王社、山王神社ともいわれ、徳川家の産土神でもあった。
 市内小仙波の喜多院にある16世紀後半に建立されたと推定される日枝神社本殿は国の重要文化財。
 一方こちらの本殿は、市内高階小学校の御真影奉安殿を戦後の昭和23年に移築したもの。内殿として19世紀中頃の社殿が収納されているという。
■郭上に見える建物は日吉神社の社殿。台地の斜面が目立たないように土嚢で補修されていましたが、城跡らしく見えるのはこの辺りだけで他に遺構らしいものは確認できませんでした。
■城跡の北側の直下を流れる新河岸川。
 二日連続のみぞれ模様の雨続きで、この時期はいつも渇水のため水質が低下する新河岸川も、ご覧のとおり豊かな水を湛えてゆったりと東流していました。
■この部分の堤防からの比高約4m程度といったところですが、堤防自体の高さは新河岸川からの水面から3mぐらいありますので見晴らしもよく北側の防御効果は高そうです。
■新河岸川の堤防の小道から城跡の台地を見るとこんな感じです
■左側が日吉神社の社殿で、右側は天台宗の観音堂、「下新河岸の観音さま」という見事なまでの神仏習合の光景が新河岸川の台地沿いに広がっていました。

( 2011/11/04 撮影 )

「武蔵志」では、「古城 諏訪右馬亮、居しという 勝福寺と山王(※日枝神社)の辺りなり...」と記されています。
 日枝神社社殿北側の土塁は、如何にもそれらしい佇まいを見せておりました。現在の勝福寺の境内地付近までで消滅しているのが、後世の地形改変によるものなのかどうかが気になります。
 日枝神社境内の東側崖線部も何やら訳がありそうな形状をしておりました。
 なお、勝福寺の境内地の位置が、「武蔵野話」に掲載されている挿絵では、現在の所在地とは異なり山麓(段丘の麓)付近に描かれており、このあたりの事情にも何か鍵がありそうです。(推定地その2)
■砂村の氷川神社は比高差4mほどの舌状台地の先端部に占地しています。神社の普請に伴う地形の改変は各所に散見され、西側社殿裏の土塁は神社の普請に伴うものと思いつつも見事な造形です。
 「入間郡誌」には、「諏訪右馬亮城跡 村の北方に所在していたものと思われ、新河岸の地域にも及んでいたかもしれない。しかし現在ではその痕跡を明らかにすることはできない」と記されるとともに、「砂村氷川神社の南方にも城塁の跡があるというが確証がない」と記されています。(推定地その3)
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