( 2005/01/17 撮影 )
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■このような丁寧すぎるぐらいの説明が、初詣の関係もあったようで境内のあちこちに貼ってありました。所在地名の「下新河岸」は慶安年間(1648〜1652年)に川越城主松平信綱の命により建設された船着場で、江戸と川越を結ぶ水運の中継拠点として賑わいを見せていたそうです。
また、日枝神社は河岸が置かれる以前から、この地にあった天台宗蓮華院の境内社であったとのことです。
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■左側が天満宮(北野天神)と愛宕社(愛宕神社)が合祀、右側が金毘羅様。この社以外にも西側の開けた場所に神明社、稲荷社も同居していたように思いました。
鳥居の形態は神明鳥居のようです。
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■日吉神社(日枝神社)の鳥居と拝殿。近江の日枝(比叡)神社は比叡山の鎮守として鬼門である北東の方角に建立された。各地に勧請され山王社、山王神社ともいわれ、徳川家の産土神でもあった。
市内小仙波の喜多院にある16世紀後半に建立されたと推定される日枝神社本殿は国の重要文化財。
一方こちらの本殿は、市内高階小学校の御真影奉安殿を戦後の昭和23年に移築したもの。内殿として19世紀中頃の社殿が収納されているという。 |
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■郭上に見える建物は日吉神社の社殿。台地の斜面が目立たないように土嚢で補修されていましたが、城跡らしく見えるのはこの辺りだけで他に遺構らしいものは確認できませんでした。 |
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■城跡の北側の直下を流れる新河岸川。
二日連続のみぞれ模様の雨続きで、この時期はいつも渇水のため水質が低下する新河岸川も、ご覧のとおり豊かな水を湛えてゆったりと東流していました。 |
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■この部分の堤防からの比高約4m程度といったところですが、堤防自体の高さは新河岸川からの水面から3mぐらいありますので見晴らしもよく北側の防御効果は高そうです。 |
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■新河岸川の堤防の小道から城跡の台地を見るとこんな感じです |
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■左側が日吉神社の社殿で、右側は天台宗の観音堂、「下新河岸の観音さま」という見事なまでの神仏習合の光景が新河岸川の台地沿いに広がっていました。 |
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( 2011/11/04 撮影 )
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■「武蔵志」では、「古城 諏訪右馬亮、居しという 勝福寺と山王(※日枝神社)の辺りなり...」と記されています。
日枝神社社殿北側の土塁は、如何にもそれらしい佇まいを見せておりました。現在の勝福寺の境内地付近までで消滅しているのが、後世の地形改変によるものなのかどうかが気になります。
日枝神社境内の東側崖線部も何やら訳がありそうな形状をしておりました。
なお、勝福寺の境内地の位置が、「武蔵野話」に掲載されている挿絵では、現在の所在地とは異なり山麓(段丘の麓)付近に描かれており、このあたりの事情にも何か鍵がありそうです。(推定地その2) |
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■砂村の氷川神社は比高差4mほどの舌状台地の先端部に占地しています。神社の普請に伴う地形の改変は各所に散見され、西側社殿裏の土塁は神社の普請に伴うものと思いつつも見事な造形です。
「入間郡誌」には、「諏訪右馬亮城跡 村の北方に所在していたものと思われ、新河岸の地域にも及んでいたかもしれない。しかし現在ではその痕跡を明らかにすることはできない」と記されるとともに、「砂村氷川神社の南方にも城塁の跡があるというが確証がない」と記されています。(推定地その3)
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