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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/30の日記 千馬山城 皆野館 高松城 設楽氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象2 総合19
所在地
埼玉県皆野町下田野1159付近
歴史と沿革

千馬山城の出城のような砦跡か
 「埼玉の中世城館跡」に戦国時代の城跡として掲載されているだけで詳細は不明の模様です。大正13年(1924年)に刊行された「秩父郡誌」では白鳥村の城址の項で、「要害山城は大字下田野にあり。北条氏邦の臣三上外記の居城にして現に城隍を存す」と記されています。
 「皆野町史通史編」ではこれを千馬山城(竜ヶ谷城)の記述であるとしていますが、同誌が三沢村城址の項で「龍谷城址は村(三沢村)の北端字茗荷澤にあり...」と記していることと対比すると「皆野町史通史編」の記述はやや整合性を欠いているような気がします。ことによると「大字下田野に所在する要害山」の記述は、この砦のような城郭田野城を指しているのではないかとも考えられます。
 なお「増補秩父風土記」下田野村の項では龍ヶ谷城について記す文中に「下田野愛宕山続本城は三沢分成」との記述があり、「田野城南側の愛宕山続き」であることを特記していることも一定の意味を持つものと思われます。

確認できる遺構
なし(「空堀」の存在は確認できず)
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南東約900メートルほどの距離に所在する千馬山城と尾根続きであるということからその深い繋がりが想起されるとともに、高松城・根岸山砦との位置関係からみて千馬山城との間を繋ぐ物見台や狼煙台或は出城のような役割を想定したくなります。しかし、そうした事跡については全く不明のようです。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/30
訪城の記録

( 2006/01/30 )
山城登攀訓練代わり
 見るからに麓の方は潅木が多くて頂上の方は岩肌が露出している感じの地形が眼前に広がっていました。
 予め遺構らしきものが殆ど存在しないことは分かっていたものの、やはり体感しておかないと地形なども掴みにくいことなどもあり、なんとか大きなピーク(たぶん愛宕山と呼ばれているらしい)のひとつ手前の標高261メートルのところまで到達し、その後に備えた体力回復のため大の字になって空を仰ぐことに。山頂からは先ほど登ってきた千馬山城が大分近くに見え、いずれにしてもこの尾根続きの2つの城郭は深い繋がりがありそうなことを実感。
 さて、千馬山城でもう既に2回も転んでいることもあり、これ以上先へとすすんでもすでに膝や足首の状態を考えると大怪我に繋がりかねないと、極めて冷静かつ常識的な判断のもとに「根岸山砦」「千馬山城」などの写真を幾枚か撮影した後に一路下山。
 下山してからこのトラロープでガイドされた山道は、以前は森林浴のための散策コースであったことが判明。もっとも現在はあまり積極的に使用されているようには見えず、コースも大分崩れかけている個所もありおまけに安全施設としてのトラロープの支柱も半分ぐらいは腐食している模様。比高差120mとはいえ下りの難路も含めて丁度よい山城登攀訓練になったかと自画自賛(^^; どうやら「低山無名峰めぐり」に移行しつつあるようです。

記念撮影
田野城の遠景画像

 右側の特徴的な山容の高い山は「皆野町史」によるとたぶん愛宕山で、田野城の山頂はたぶんその左側かと思われます。この尾根筋から千馬山へのルートは余りお奨めできませんが、元気で山馴れた方で念のためロープなどの十分な装備をした上ならば踏破は可能かとも思われます。
 かなり疲れるとは思いますが搦手口といわれるこの方角からの侵攻がなかなか困難なことが体感できるかも知れません。特に主郭直下の痩せ尾根付近は、標高の低い割には枯葉がよく滑るのでなかなかスリル十分かと推察されますが、勿論全て「自己責任」ということでご理解くださいませ。

( 2006/01/30 撮影 晴れ時々曇 )
訪城アルバム
■1■田野城の麓、皆野館の所在地でもあるらしい
 見るからに麓の方は潅木が多くて頂上の方は岩肌が露出している感じの地形が眼前に。果たして皆野館跡の所在する赤城神社の南側から麓へと取り付いたものの、目の前には直線にして50mほど棘付きの潅木が生茂っている地帯が立ちはだかり忽ち前進を阻害。
■2■予想通りに岩場が頭上に出現
 それでも無理やり尾根筋を目指してすすんでいくと、何やら有刺鉄線と木柵のある場所に到達。よく見るとどうやら整備されている道が別の所から登ってきている模様。硬くなった股関節を励まして、何とか有刺鉄線を乗り越えると確実に山頂に向うルートであることが判明。崩れやすい泥岩質の岩山を登攀する覚悟は全くなかったので、やれ嬉やと岩山に付けられた山道を登攀。途中からトラロープのガイドは消滅するも、ここまでくればひたすら頂上を目指すほかなく痩せた岩尾根を前進。
■3■急勾配の岩場
 幸い道はあります...一応ですけど(^^; この辺りの斜面の角度は40度から場所により60度ほどあるので、岩場に予め刻まれたルートがなければ通常は登攀不能かとおもわれるような状況です。しかし、潅木が多いので見た目ほどの危うさは感じられません。
■4■道がない...踏み跡なら少々ありますけど
 「3」の岩場を越えた辺りから親切なトラロープは消滅し自分の手足だけが頼りの登攀。結構枯枝が多いので用心深く枝にしがみついて登っていくより他はなく、進行方向右側に落ちると即死、左側に落ちると重体を覚悟。(勿論冗談ですが、やや真剣な面も...例え滑り落ちても左側ならば何とか潅木に引っかかりそうな感じです。右側の方は...なるべく考えないことにしました・・・)
 もっとも、当然のことながら下るときの方が更に足元が定まらず一段と骨が折れたのでありました。
画像クリックで拡大します
■5■苦労して手に入れた絶景は見事
 正面の山は有名な標高497.1メートルの宝登山でその手前の低い山が「根岸山砦」辺り。高松城や城峰山(これについては城郭遺構であるという説と遺構ではないという二つの説があるようです)の方角もはっきりと見えますので登りがいがありました。
 この眼下の景観や高松城・根岸山砦との位置関係からみて千馬山城との間を繋ぐ物見台や狼煙台或は出城のような役割を想定したくなるのですが。   画像クリックで拡大
■6■千馬山城も赤松の間から見え隠れ
 標高261メートルのピークからは午前中に訪城した千馬山城が間近に。この地点から千馬山城の主郭のある山頂までは地図上で900メートルしかありませんが、所要時間は80分前後かと推定されます。また、写真の左下には皆野寄居バイパスも見えています。
 標高差が100メートル以上ある登りになること、比高差30mから50m前後のアップダウンが確実に4回以上存在すること、痩せ尾根の隘路であることなどからやや危険も伴いそうです。田野城のピークの部分はこの写真を撮影した地点の模様なので地形などの確認後に潔く撤退。(歳なもので...)
交通案内

・赤城神社南方の山頂付近。比高差120mで登り25分、下り20分程度。道はやや悪路かと。
いつもガイド の案内図です 地図 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)空堀が遺されているとの記述があります。
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収

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