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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/30の日記 千馬山城 高松城 設楽氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
埼玉県皆野町下田野
歴史と沿革

戦国時代の館跡か
 「埼玉の中世城館跡」などに戦国時代の館跡として掲載されているだけで詳細は不明ですが、地理的に見て田野城、千馬山城との関連が推定されます。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北西400メートルに荒川が流れ、その支流となる田野沢沿いの小河川が東側に深い渓谷を刻む合流点の南方400mほどの地点の丘陵地帯に位置していたものと考えられます。また田野城、千馬山城とは南から南東に延びる尾根筋で繋がっています。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/30
訪城の記録

( 2006/01/30 )
たぶんこの辺りかと
 関係資料などによると田野城の北側山麓と赤城神社のあたりが館跡ではないかと推定。特に赤来神社の所在している台地は幅15mから20m、南北方向に50mほどの長さ、周辺からの比高は5、6mという地形となっていて、いかにもいわくのありそうな感じが。地形的には田野城、あるいは千馬山城などと尾根筋で繋がっていることから、たとえば田野城の根古屋としてなどおそらく何らかの関連が存在するものと思われました。赤城神社の解説板には永禄年間に後北条氏と武田氏の間で行われた「三沢谷の合戦」についての記述などが記されていましたので、これ幸いと丁重にデジカメで撮影。
 このあと田野城と推定されている道なき訪城の無事、世界の恒久平和、家内安全などを祈願すべく赤城神社で参拝。

記念撮影

 赤来神社境内を含む丘陵は地理的には千馬山城から田野城へと続く尾根筋の先端部にあたり、西側の荒川方面を眺望することができる日常の生活を営む根古屋に相応しい環境に思えたのですが、残念ながら概ね自然地形が残されているのみで、地表上に遺構らしきものを確認することはできませんでした。

( 2006/01/30 撮影 晴れ時々曇 )
訪城アルバム
画像クリックで赤城神社の現地解説板へ
■1■赤城神社
 南側の道路沿いから見た赤城神社の鳥居、社殿。現在は道路の建設により丘陵の一部が削られていますが、地形的には南側の田野城と尾根続きとなっていたものと思われました。なお、道路が傾いているのは向って右側の方が山側のため道路が傾斜していることによるものです。
■2■赤城神社北側の丘陵
 周辺には様々な古木が生育する神社の森の中心に所在する実に存在感のある丘陵です。
■3■荒川との合流点近くの東側の支流
 夏季でもそれほどの水量があるとも思えない延長にして僅か4キロメートル足らずの小さな支流ですが、それでも高さ5mほどの断崖状の渓谷をを形成しています。逆に、この辺りの荒川の断崖は10mから15mと相対的にかなり低くなっていることが特徴です。(2006年2月9日撮影)
■4■荒川との合流地点付近の全景
 荒川とその支流の合流地点には「諏訪城」を始めとして「永田城」「宮崎城」「寺尾城」「金仙寺城」などの自然の地形を活用した城郭が多いことから、同様の地形を地図上から抽出してもののついでと云うことで探訪しています。しかし元よりそんなに簡単に新たな城郭遺構と対面できるわけでもないことは重々承知の上ですが、ちょっと目にはいわくがありそうな地形が各所に散在しています。(2006年2月9日撮影)
交通案内

いつもガイド の案内図です 地図 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)、「皆野町史 通史編」(1988/皆野町) 

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