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■1■館跡の土塁
北西側の蒔田川に向かう農道と民家の宅地の境に所在し、高さ2.5m、延長約35mほどの大規模なものでした。恐らくは後世の補修の跡と思われるような川原石を利用した石積みが、宅地の内側部分と北西の先端部分に散見されます。
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■2■土塁の遠景
南西の桑の木が残る畑の農道から撮影したもので、延長距離がやや短いものの事前の予想以上に遥かに見事な規模の土塁でした。この宅地の南西側に所在する遺構は宅地の所有者の方にとっては、日常的にはおそらくさぞかし不便な代物かと思われます。しかし平成の時代まで殆ど削平もされずに残されているという事実は、たいへん重いものがあると思われます。
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■3■蒔田川側から見た館跡付近の河岸段丘
館跡の台地は頻繁な蛇行を繰り返す蒔田川の水面からは、およそ4mから6m程の比高差がありました。
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■4■稲荷神社(2006/03/25撮影)
北側の方角から見た稲荷神社の塚ですが長さにして15mほどはあるようで、やや方向の点で疑問もあるかもしれませんが土塁跡の一部のようにも見えました。
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■5■館跡の北東の方角に所在している稲荷神社の小祠 (2006/03/25撮影)
館跡の北東(鬼門)に位置し、「新編武蔵風土記稿」では「屋敷跡 ...二十年前までは土手の形などありしが、里民いつとなく鏨り崩して、今は数頃の陸田となし、わづかに1、2間を余して、其所に稲荷の小祠立てり」と記されています。
この記述をそのまま受け入れてしまうと、上記の土塁跡の存在についての説明が殆どつかなくなるのですが、その編纂に当たり多摩、高麗、秩父3郡を別途調査したとされる八王子千人同心担当者のちょっとした勘違いまたは手抜きなのでしょうか。 |
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■6■臨済宗円福寺 (2006/03/25撮影)
館跡の北東に所在する臨済宗大寶山円福寺の参道と豪壮な印象の楼門。
「大門平」の地名が示すように、「新編武蔵風土記稿」の記述によればかつては「門内道幅3間余」という大門が参道の南西の突き当たりに所在するという大規模な寺院であり、また手前の蒔田川の支流となる深い沢には天竜橋という板葺き屋根の橋が架けられていたと記され「円福寺境内之図」にも大門、天竜橋、楼門などが描かれています。しかし、館跡については稲荷神社を含めて何も描かれてはいません。
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■7■円福寺境内の白梅 (2006/03/25撮影)
今年は1月、2月が例年よりも気温が低かったせいかも知れませんが、本来ならば2月下旬から3月上旬頃が満開となるはずの白梅がちょうど満開の時期を迎えていました。なお、この円福寺は「秩父七福神」の寿老人が祀られていますが、秩父七福神そのものは昭和52年に秩父観光協会が文化財保護委員の協力を基に選定したとのことです。
(「秩父七福神・長瀞七草寺めぐり(1995 小見山憲彦 著/まつやま書房)」より)
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■8■シンパシィが通じ合ったネコ
娘の飼猫「あんみつ」の姿が見えなくなってから、もう1ヶ月近くになりました。この日は土塁跡を捜索中に、「あんみつ」に少しだけ似ている雄猫に出会いました。体の左側に5センチほどの大きな傷があり、おまけにかなりガリガリに痩せこけ、体を撫でるとあばら骨がはっきりと分かる栄養欠乏状態で、よく見ると左目が軽い炎症を起こしていました。 こうした状態からたぶん野良猫かも知れませんが、とてもおっとりとした性格で見ず知らずの自分でも全く逃げようとはせず、寧ろだんだんと近寄ってきてくれました。手持ちの餌などは何もありませんでしたが、暫くの間遊んでもらいました。流石に仰向けになる様なことはありませんでしたが、体を撫でても全然嫌がるそぶりも見せずに遊んでくれました。
帰りがけにはわざわざ表通りの方までついて来てくれたので、あたかも見送っていてくれていたような感じさえしたのでした。 ( 2006年4月9日 記 )
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