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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/25の日記  2006/03/31の日記 永田城 寺尾城 奈倉館
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態5 探し易さ3 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合27
所在地
埼玉県秩父市田村大門平
歴史と沿革

謎の多い伝承の田村権守
 「新編武蔵風土記稿」の田村郷の記述によれば「屋敷跡 円福寺の前なる大門平にあり、土人相伝えて田村権守なるもの住居せし所なりと云、事跡詳ならず、...」と記され、また「村名の起こり往古田村権守と云えるもの、此所に居住せしより唱えけるにや、今尚邸跡あり、...御打入以前は北條家の分国なるよし、されば田村権守の領せし地なるにや...」とも記されています。しかし、大野満穂が著した「秩父志」においては田村権守についての記述は見当たらず、田村の村名の由来を「田が多い」ことによると伝え、僅かに「城館古迹十四所」の個所に「田村屋鋪 田村郷、丹田氏」と記されているにすぎません。また、前2点の地誌類よりもその成立年代が古いとされる「増補秩父風土記」では「田村権守居城」と記されているにすぎず、「鉢形北条家臣分限録」にも田村姓の人物は記されてはいません。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東西を山に囲まれた幅300mから400mほどの幾分ひらけた地形で、蒔田川とその支流に東西方向を挟まれた台地上の蒔田川沿いに所在しています。周辺の山からは完全に見下ろされる位置にあるため、東側の田村神社、あるいは南側の稲荷大社付近に物見や詰の城のような機能を持った砦のようなものが所在しても良さそうな印象です。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/25、04/31
訪城の記録

( 2006/03/25 )
肝心の土塁が見当たらず、しばしネコと戯れその超能力に触れる
 臨済宗円福寺の近くに遺構が所在しているとの情報。これもほとんど「秩父郡内の城館」さんのHP情報を頼りにした訪城です。円福寺の所在地と目印の稲荷神社の祠はすぐに判明したものの、田村氏の墓所と遺構の土塁跡が最後まで見つからず。さて東側の畑の方でウロウロしていたら、10日前から行方知れずとなった飼猫にそっくりな野良猫 ( 毛並みも良くなく大分痩せこけていたので、たぶん...) がいたので、人気のない路上でその猫としばし遊ぶことに。残り時間もなくなり猫に別れを告げ、車を停めた円福寺の方に戻る途中、ふと何気なく後ろを振り返ると、わざわざ表通りに面した工場の角のところでその猫がしばらくこちらを向いて座っていました。
 翌日「秩父郡内の城館」の管理人さんに教えていただいた土塁は、まさにその工場の角から入ったところでしたので、もしかするとその猫はこちらの心を読みとって土塁の場所を教えてくれていたのかなどと思ったりもしましたのでありました。

( 2006/03/31 )
土塁は蒔田川近くの人家の脇
 「秩父郡内の城館」の管理人さんからの情報を頼りに土塁跡をめざして3月25日に続いての再訪。鉄工所のような工場の手前の細い道を西(右)へと入り、しばらく道なりにすすんで行くと情報の通り確かにありました。未舗装の幅員1間半ほどの農道の北側(右側)に高さ約2.5m以上、延長35mほどの見事な土塁が遺されていました。ただもしかすると気のせいかもしれませんが、なんとなく西端の一部分が消失しているように見えました。円福寺の参道の東側はかなり丹念に探しましたが、西側のこの位置に所在していたとは全く迂闊な話でした。

記念撮影


 「秩父郡内の城館」の管理人さんからの情報で、漸く対面できた土塁です。前回訪れたときには夕方5時までに寄居まで戻る事情があり、時間切れのため後ろ髪を引かれる思いで立ち去ることとなってしまいました。
 さて不思議なことがあるもので、その時に下の写真のネコがお行儀良く座って見送ってくれた場所が、何とこの土塁跡へ向かう道筋の入口でした。偶然の一致とは思いますが、自分の心情を見透かしていたのでしょうか。

( 2006/03/31 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■館跡の土塁
 北西側の蒔田川に向かう農道と民家の宅地の境に所在し、高さ2.5m、延長約35mほどの大規模なものでした。恐らくは後世の補修の跡と思われるような川原石を利用した石積みが、宅地の内側部分と北西の先端部分に散見されます。
■2■土塁の遠景
 南西の桑の木が残る畑の農道から撮影したもので、延長距離がやや短いものの事前の予想以上に遥かに見事な規模の土塁でした。この宅地の南西側に所在する遺構は宅地の所有者の方にとっては、日常的にはおそらくさぞかし不便な代物かと思われます。しかし平成の時代まで殆ど削平もされずに残されているという事実は、たいへん重いものがあると思われます。
■3■蒔田川側から見た館跡付近の河岸段丘
 館跡の台地は頻繁な蛇行を繰り返す蒔田川の水面からは、およそ4mから6m程の比高差がありました。
■4■稲荷神社(2006/03/25撮影)
 北側の方角から見た稲荷神社の塚ですが長さにして15mほどはあるようで、やや方向の点で疑問もあるかもしれませんが土塁跡の一部のようにも見えました。
■5■館跡の北東の方角に所在している稲荷神社の小祠 (2006/03/25撮影)
 館跡の北東(鬼門)に位置し、「新編武蔵風土記稿」では「屋敷跡 ...二十年前までは土手の形などありしが、里民いつとなく鏨り崩して、今は数頃の陸田となし、わづかに1、2間を余して、其所に稲荷の小祠立てり」と記されています。
 この記述をそのまま受け入れてしまうと、上記の土塁跡の存在についての説明が殆どつかなくなるのですが、その編纂に当たり多摩、高麗、秩父3郡を別途調査したとされる八王子千人同心担当者のちょっとした勘違いまたは手抜きなのでしょうか。
■6■臨済宗円福寺 (2006/03/25撮影)
 館跡の北東に所在する臨済宗大寶山円福寺の参道と豪壮な印象の楼門。
 「大門平」の地名が示すように、「新編武蔵風土記稿」の記述によればかつては「門内道幅3間余」という大門が参道の南西の突き当たりに所在するという大規模な寺院であり、また手前の蒔田川の支流となる深い沢には天竜橋という板葺き屋根の橋が架けられていたと記され「円福寺境内之図」にも大門、天竜橋、楼門などが描かれています。しかし、館跡については稲荷神社を含めて何も描かれてはいません。
■7■円福寺境内の白梅 (2006/03/25撮影)
 今年は1月、2月が例年よりも気温が低かったせいかも知れませんが、本来ならば2月下旬から3月上旬頃が満開となるはずの白梅がちょうど満開の時期を迎えていました。なお、この円福寺は「秩父七福神」の寿老人が祀られていますが、秩父七福神そのものは昭和52年に秩父観光協会が文化財保護委員の協力を基に選定したとのことです。
  (「秩父七福神・長瀞七草寺めぐり(1995 小見山憲彦 著/まつやま書房)」より)
■8■シンパシィが通じ合ったネコ
 娘の飼猫「あんみつ」の姿が見えなくなってから、もう1ヶ月近くになりました。この日は土塁跡を捜索中に、「あんみつ」に少しだけ似ている雄猫に出会いました。体の左側に5センチほどの大きな傷があり、おまけにかなりガリガリに痩せこけ、体を撫でるとあばら骨がはっきりと分かる栄養欠乏状態で、よく見ると左目が軽い炎症を起こしていました。 こうした状態からたぶん野良猫かも知れませんが、とてもおっとりとした性格で見ず知らずの自分でも全く逃げようとはせず、寧ろだんだんと近寄ってきてくれました。手持ちの餌などは何もありませんでしたが、暫くの間遊んでもらいました。流石に仰向けになる様なことはありませんでしたが、体を撫でても全然嫌がるそぶりも見せずに遊んでくれました。
 帰りがけにはわざわざ表通りの方までついて来てくれたので、あたかも見送っていてくれていたような感じさえしたのでした。        ( 2006年4月9日 記 )
交通案内

・国道299号線沿い臨済宗円福寺の南西付近
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド(土塁の所在地)

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 

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