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関連ページへのリンク  2006/11/07のブログ 大崎陣屋 北鬼窪氏館 新屋敷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合21
所在地
埼玉県南埼玉郡白岡町白岡
歴史と沿革

野与党鬼窪氏の一族の館跡を川副氏が陣屋として利用?
 「ふるさと白岡」によれば、徳川家の旗本である川副氏が鬼久保氏の系統である「白岡氏館」の跡を継承して、近世初頭に陣屋として使用した可能性を示唆しています。
 また「白岡町史 通史編(上)」では同氏が「鬼窪氏館」を継承したものとし、神社の御神体が納められた厨子の奥書から、川副氏の陣屋引き払いに当って白岡八幡宮を名主以下の領民とともに修復し、この際に陣屋山の地を白岡八幡宮に寄進にしたとしています。 またこれに先立つ寛文12年(1672)に、川副重頼は白岡八幡宮に対して石灯籠を寄進しています。
 この辺りの些かややこしい事情を大雑把に整理すると、およそ
「北鬼窪氏館」≒「白岡氏館」=通称「陣屋」=「川副氏陣屋」
という図式が成立するようです。
 なお、宇多源氏佐々木の流れを汲むとされる川副氏は、寛永10年(1633)の「地方直し」から幕末まで白岡および大崎の一部の計約350石を知行したとされています。(「武蔵国田園圃」など)
 「旗本陣屋」は寛永2年(1625)に江戸市中に旗本屋敷の屋敷割がなされ、次第に在地支配の拠点である陣屋からの引き上げが始まり、「蔵米・稟米制」の普及により貞享4年(1687)には徳川幕府は陣屋の引上げを命じたとされています。(「ふるさと白岡」より) しかし、貞享4年の陣屋引上げについては高麗陣屋などの幕府直轄領に対する措置であり、一般に「旗本陣屋」についてはその多くは寛永年間よりそう遠くない時期に引上げられ、その跡地に菩提寺の建立をした事例が多く見られるようです。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

丘陵地帯の微高地
 「陣屋」「岡屋敷」などと呼ばれている個所と「白岡氏館」の所在地が重複していることなどから、現在の地形から考慮しても上記の説に従うのが妥当なようです。 
 丘陵地帯は特に水路が所在する南側での比高差が最も大きく、目測では最大で約5mほどを測ります。 また現在は南側以外の三方は比較的緩やかな下り坂を形成している程度で、ある程度注意をしなければ微高地であるということが判別しにくい地形となっていました。

文化財指定
訪城年月日
2006/11/07
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/07 )
大欅が目印にて
 陣屋、岡屋敷、陣屋山、白岡氏館、鬼窪氏館、北鬼窪氏館..など様々な呼称があるようで。 加えて西側に新屋敷(「陣屋」とも)と言う呼称の城館伝承地も所在するので、もう何がなんだか分からず頭は混乱する一方にて。 更に白岡氏館、北鬼窪氏館のいずれも比定地の上に、近世陣屋の要素が加味されてややこしいことこの上ありません。 
 さて、宅地化された現在においては、遺構らしき存在を確認することはほぼ不可能で、僅かに台地南側に所在する比高差5mほどの低地(谷津)状地形に往時の面影を辿る以外に手はなさそうです。(下記の画像)
 陣屋址とされる一帯のやや西側に所在する旧家の一本の大欅がおよその目印で周辺のどこからでも目立つ存在でした。 また白岡八幡宮の参道南側の平地林の地形の一部に溝状の地形が所在し、恐らくは畑の根切りとは思われるものの些か気になるところではありました。

クリックで拡大します
往時の面影を辿ることのできそうな台地南側の谷津
( 2006/11/07 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで神社の解説板へ
■1■白岡八幡神社
 祭神は正八幡若宮(仲哀天皇)、八幡姫宮(神宮皇后)、八幡(応神天皇)の三柱とされ、神社の縁起によれば建久6年(1195)に源頼朝の命により100貫あまりの社領が寄進され、鬼窪某が社殿の造営を奉行したと伝わっています。 しかし、戦国時代には菖蒲城主佐々木氏の侵攻を受けて衰退し、近世の初めその中興に際して陣屋の主であった川副氏が関わったという可能性が考えられています。 
■2■陣屋・白岡氏館近くの台地にて
 水田上の台地の道路をトボトボと歩いている時に、なんと道端に「ホトケノザ」が。 「小春日和」とはよくいったもので、本来は4月から6月に開花する性質のもの。 ここ3日ほど朝方の冷え込を感じるようになったものの、まだまだ例年に比べると平均気温は大分高めの模様に思えるのでありました。
■追記 暖冬の影響か12月18に訪れた滑川町の伊古神社北側の丘陵の畑端にもホトケノザを発見しました。
■3■陣屋と呼ばれた辺り
 「白岡町の文化財 第5集 地名考」(1980)によれば、昔は原野のような状態であったと記されていますが、狭い意味の陣屋、陣屋山、陣屋屋敷などと呼ばれていた辺りは大分以前からこのような住宅地に変貌しておりました。 なお、別途この白岡の地に関連するものとして、天文17年(1548)付の北条綱成のものとも読み取れる白岡薬師堂(白岡八幡宮別当の正福院)に対する1貫200文の寄進状が残されていますが信憑性を欠くものとされているようです。(「武州文書」内閣文庫所蔵)
画像クリックで拡大します
■4■大欅が目印 画像クリックで拡大
 川副氏の陣屋および白岡氏館乃至は北鬼窪氏館の推定地のひとつはいずれにしても、目立った遺構は遺されれていません。
 これらの推定地の目印となるのがこの大欅。 何処からでも目立つ高さ30m以上はありそうな大木で、陣屋跡とされる白岡1073番地の西側およそ50m付近に所在していました。
交通案内

・白岡八幡神社の南東およそ200メートルほどの台地。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 埼玉郡白岡村の項には、鬼窪氏の一族である白岡氏について、「武蔵七党のうち野与党の人に、南鬼窪小七郎行親の孫太郎兵衛尉親家の四男を白岡禅師澄意(しらおかぜんじ ずいい)と云、これ當所に住せしものならん...」と記されています。
しかし、この白岡氏についての事蹟については余りに不明な部分が多いようです。
■武蔵志
 南埼玉郡の記述は欠落しています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「白岡町史 通史編(1989/白岡町)」・「白岡町の文化財 第5集 地名考」(1980/白岡町教育委員会)
「白岡町史資料 地誌」(1982/白岡町教育委員会)・「ふるさと白岡」(1984/白岡町教育委員会)
「日勝村史(大正14年刊行)」(1991/白岡町教育委員会) 

・2006/12/20 HPアップ

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