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新開氏館
関連ページのリンク  2005/07/11の日記  蓮沼氏館  荏原氏館  人見氏館  伝幡羅太郎館  内ヶ嶋氏館       
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23
所在地
埼玉県深谷市新戒
歴史と沿革

新開荒次郎実重の館跡
 深谷市史や深谷市のHPなどによれば、新開氏は新羅系の渡来人秦河勝(はたのかわかつ)を始祖とする豪族で新開荒四郎実重は相模国中村庄の庄司である有力豪族地土肥二郎実平の次男で新開氏の養子となったといわれています。(「富岡亀雄系図」「古櫃神社調査書」など)
 平安時代末期の源頼朝挙兵の七騎の一人として活躍し(「源平盛衰記」)、湯河原の城願寺には立像が建てられ土肥祭には新開荒四郎に扮した武者行列が行われています。新開氏は信濃より移住してきたものと考えられ平安時代の末期に榛沢郡大寄郷の開発領主となった模様です。また、 「吾妻鏡」には新開荒次郎、同弥二郎、同左衛門の名があり、この地が新開氏の所領であったと考えられます。
 新開氏は建保元年(1213年)5月の和田義盛の乱で同族の土肥氏とともに敗北しましたが、承久の乱(1221年)では一族を挙げて出陣しました。(「吾妻鏡」「承久記」)また元弘3年(1333年)の新田義貞の挙兵に対して北条高時の弟泰家の配下として新開左衛門頼行入道の名が見えます。(「太平記」)その後、新開氏の子孫は越中や、阿波などに移り新開左衛門頼行入道の子である遠江守真行は細川氏の阿波守護代として牛牧城を築きその一族はその後200年以上にわたり戦国時代まで続きました。
 なお後世15世紀半ば享徳4年閏4月の岩松持国闕所注文には「一、武州新開郷事 新開加賀守跡」と記され古河公方足利成氏が証判を加えています」(正木文書)ので、この時点では享徳の乱などの戦乱により領主が不在となっていたと推測されます。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■かつては館の周囲を囲む空堀と土塁が残されていたと伝わっているとの事ですが、一面の耕地整理によりその面影は全くありません。東側の東雲寺と西側の大林寺の間あたりが館跡とされているようですが、未発掘のため遺物などは確認されていないそうです。
 「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)によれば、東西1町4間(約116メートル)、南北42間(約76メートル)の規模であったとされています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)   

文化財指定
訪城年月日
2005/07/11
訪城の記録

( 2005/07/11 )
魚雷と大砲が
 道路沿いの東雲寺と大林寺に新開氏関係の五輪塔が残されているだけのところですが、現地に説明版も設置されていて誰にでも中世の城館跡であることが分かるように整備されています。しかし、館の遺構らしき面影はどこにも見られず実重とその夫人の物と伝わる五輪塔が残されているだけです。
 また本題とは関係なく意外に思ったのは東雲寺の境内に第一次世界大戦の当時の魚形水雷と口径10センチほどの艦砲(たぶん舷側に設置された副砲)と思われる短身砲を慰霊碑にしたモニュメントのあったことでしょうか。

Best Shot?




  大林寺の新開荒次郎実重夫人の墓は境内の山門前の参道の右端に移設されていました。
       ( 1973年11月3日 深谷市指定史跡 )
 二階建ての建物の向こう側の木が繁っている場所が東雲寺ですのでその間辺りが館跡だった模様です。
               ( 2005/07/11 撮影 晴 )
交通アクセス

MapFan Web の案内図です  


( 2005/07/11 撮影 )

■やや風化が見られた新開荒次郎実重(しんがいあらじろうさねしげ)が開基したと伝わっている曹洞宗東雲寺の山門。写真左側の「新開荒次郎実重の墓」と書かれた標柱も少し文字が見えにくくなっていました。
■新開荒次郎実重と新開氏に関する説明版。
■明治44年に製造されたという、第一次世界大戦当時の国産第一号の魚雷が展示されていました。やや一部分腐食が進んでいますが原形をとどめています。
■魚雷の由来について書かれた説明版。
■大砲がそのまま慰霊塔に。
 口径と長さから推測すると、たぶん日露戦争当時の退役した艦船の舷側の副砲のような大きさの砲身ではないかと。
■新開荒次郎実重の五輪塔。(たぶん向って左側かと)
 中央の墓石は後世江戸時代の子孫による追善供養のものであるとのことです。( 1973年11月3日 深谷市指定史跡 )
■新開荒次郎実重の夫人の墓は左側の小さな五輪塔と伝わっています。右側のものは追善供養によるもの。
 この後ろ側が館跡のあたりになるのではないかと。
■左の写真の説明版を拡大したもの。
 
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