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新開氏館 |
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おすすめ評価 |
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23 |
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所在地
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埼玉県深谷市新戒 |
歴史と沿革
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■新開荒次郎実重の館跡
深谷市史や深谷市のHPなどによれば、新開氏は新羅系の渡来人秦河勝(はたのかわかつ)を始祖とする豪族で新開荒四郎実重は相模国中村庄の庄司である有力豪族地土肥二郎実平の次男で新開氏の養子となったといわれています。(「富岡亀雄系図」「古櫃神社調査書」など)
平安時代末期の源頼朝挙兵の七騎の一人として活躍し(「源平盛衰記」)、湯河原の城願寺には立像が建てられ土肥祭には新開荒四郎に扮した武者行列が行われています。新開氏は信濃より移住してきたものと考えられ平安時代の末期に榛沢郡大寄郷の開発領主となった模様です。また、 「吾妻鏡」には新開荒次郎、同弥二郎、同左衛門の名があり、この地が新開氏の所領であったと考えられます。
新開氏は建保元年(1213年)5月の和田義盛の乱で同族の土肥氏とともに敗北しましたが、承久の乱(1221年)では一族を挙げて出陣しました。(「吾妻鏡」「承久記」)また元弘3年(1333年)の新田義貞の挙兵に対して北条高時の弟泰家の配下として新開左衛門頼行入道の名が見えます。(「太平記」)その後、新開氏の子孫は越中や、阿波などに移り新開左衛門頼行入道の子である遠江守真行は細川氏の阿波守護代として牛牧城を築きその一族はその後200年以上にわたり戦国時代まで続きました。
なお後世15世紀半ば享徳4年閏4月の岩松持国闕所注文には「一、武州新開郷事 新開加賀守跡」と記され古河公方足利成氏が証判を加えています」(正木文書)ので、この時点では享徳の乱などの戦乱により領主が不在となっていたと推測されます。
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確認できる遺構
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なし |
構造的特徴および
周辺の地理的特徴
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■かつては館の周囲を囲む空堀と土塁が残されていたと伝わっているとの事ですが、一面の耕地整理によりその面影は全くありません。東側の東雲寺と西側の大林寺の間あたりが館跡とされているようですが、未発掘のため遺物などは確認されていないそうです。
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)によれば、東西1町4間(約116メートル)、南北42間(約76メートル)の規模であったとされています。
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参考資料、古文書、
記録
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「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)
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文化財指定
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無 |
訪城年月日
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2005/07/11 |